抱擁のかけら

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<あらすじ>
 1994年と2008年。この14年の月日が空いた二つの年。 レナとマテオという歳も離れ,全く違う世界で生きていた二人。 過去にレナ、現在にマテオ…この違う時を生きる二人がどこでつながるのか。 そこをついたのが、マテオのビジネス・パートナー,ジュディットの息子ディエゴだった。 ライ・Xという映画監督を名乗る男の訪問に恐れるマテオとジュディット…そこにある謎を紐解くのがストーリーの要である。
 レナは実業家の愛人だが、大人しくする日々に飽きていた。 そんな彼女に光が差すときがきた。 それはレナが夢見ていた女優としての仕事のチャンス。 そこで映画監督をしていたのがマテオである。 二人はここで運命的な出会いを果たし、お互いに愛を求め合う仲に。  しかし、この愛は危険と隣り合わせ。 実業家エルネストの影がいつもついて周ったのである。 心が解放された愛と自由を求め、レナとマテオは片時も目をそらさずに歩んでいくが…

<感想>
 エルネストのもとに常にいたレナ。 意思ではなく,義務に等しいと見える。 離れたくとも離れられない鎖が足を固くつないでいる。 なんでも欲しいものは手に入るという環境…何より レナが苦しい時に手を差し伸べたのがエルネストだった。 だからこそ、簡単にたてをつくことが出来ないという心境がひしひしと伝わってくる。 しかし、マテオとは違った。 
 彼の描く作品の中でのレナは活き活きとしていた、まるで水をえた魚のように。 本当の彼女の姿がここにあったのだと思う。 むしろ、マテオの演出が本当のレナを引き出したと言ってもいいだろう。 だから、彼女はマテオに激しく惹かれたのだと思う。 そして、束縛のないマテオとの抱擁がレナを自由にした。 マテオにとっても何か運命的なものがおとぞれたに違いない。 彼にとってレナは女優以上に光っていたのだ。 二人が追い求めるは自由。
 エルネストの異常なほどの愛は拭い去れないものがある。 執拗なほどエルネストはレナへの愛を独占しようとし,息子を駒にし,あの手この手と手段を選ばない。 そのエスカレートぶりは とても強烈である。 Jr.は操り人形の如くで,時に彼の父親の魂が宿ったというくらいの異常を発揮することもある。 
 『謎の鞄と女たち』。 レナとマテオをつなぐものであり、過去と現在を結ぶもの。 マテオたちにとって最初で最後のもの。 レトロな時代と現代とが融合した“映画内映画”だ。 多くの作品ではこのような映画の中に映画があるという作品は、その映画内にさえ,普通の映画にもある期待がつまっている。 先が気になるような細部までぬかりのない製作がとても素晴らしい,この上ない。 これは二人の支えのようなもの。 彼らをつなぐ糸だ。 名前を変えた14年後の今、当時駄作にされたレナとのこの映画を編集しなおしたのがその証。 
 私が驚いたのは…というか、話をちゃんと聞いていなかったのか…マテオとジュディットは離婚した,あるいは別居をしている“夫婦”ではなく,過去に一度恋人どうしだったという,つながりでしかなかったということだ。その事実を知っていたのはジュディットただ一人で、息子も父親もそれを知らないという事実。 なんの説明もなく流れていたら、どう考えたって親子にしか見えない。 無機質に,だけど自由に生きているマテオの真実がよくわかった。
 愛する人を失ったとき、マテオは、マテオという名を封印し芸名で生きる。 レナを失ったとき,マテオも死んだのだというくだり。 ある瞬間、二つの顔を持つ人間が片方の自分が死んだのだという話はある。 この作品がそれとは違うのが人格の問題ではなく,一つの区切りとして、自分の意志でそれを主張しているということ。レナとは、ハリー・ケインという監督としてではなく,マテオとして愛し合っていたからだ。 なんだか深い。 偶然の出会いが彼らをこんなにも固く結ぶとは。
 月日が経った今も、マテオの中でレナの余韻は残っている。 逃避行の挙げ句、不幸に陥った彼だがここでようやく幸せを手に入れたように思える。 映画の完成は、自分のためでもあり,レナのためでもあった。 ジュディットの告白によって,ようやく落ち着く場所にたどり着いた,レナとマテオの“絆”。 なんだか、安心させられるラストシーンである。  切ないけれど、幸せなしめくくり。
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by jd69sparrow | 2010-07-01 00:25 | 映画タイトル は行