ラストサムライ

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 明治時代、西暦にして1870年代の日本(東京)がこの映画の舞台だ。 明治時代は日本が日本古来の文化から西洋文化へと転進し近代国家を目指した時代である。 刀を持った侍たちはまさに行き場を失いつつあった。 これは新撰組がたどった道からもよくわかることだろう。 日本には国家は帝国軍なるものを築き上げ、同時に侍を排除すべく“廃刀令”により彼らを追いやったのだ。 新撰組の最期をみてもこの映画に登場する侍たち同様,侍スピリットは持ち続けたのだろう。 とは言え 侍スピリットは消滅したわけではない、それはきっと私たちの中でも気づいていてもいなくても生き続けているはず。 日本から世界へと挑戦していく人々の心に宿っていることが見ている私たちの胸で感じられると思う、そしてその炎が消えない限りそれは世界の人々にも伝わるのではないだろうか。現に日本の“侍”は海外でも広く魅了し 心をつかみ、こうして侍の映画がハリウッド映画で実現されているのだから。 武士の映画と言えば黒沢明監督や山田洋次監督という巨匠がいて、両者ともに偉大なる人だ。 特に黒沢監督の影響はとても大きい。 日本の古きよき時代の文化が海外の映画人によって映画化されるなんて素晴らしいことで、同時に認められたわけでもある。 その完成度というのも高いもので、日本,ニュージーランド,アメリカの三カ国にわたっての撮影が行われたそうだ。 勝元たちが暮らす村、主人公オールグレンたちが帝国軍と戦う大地が日本ではないのは少し残念だけれど、日本家屋が立ち並ぶ村の背景はとても美しく本物らしさがあった。 さらに勝元や勝元の右腕的な存在である氏尾が身にまとう鎧兜の勇ましさには驚いた。 本当にいたかのように思えるのである。持ち主の強さを象徴する兜、そしてそれに面をかぶるというスタイルは迫力があった。
 南北戦争で戦いを遂げたオールグレンは母国でかつての輝きが消え,魂が抜けたかのようにさまよい落ちぶれていた。 日本の帝国軍の兵士の指南役として日本にやってくる彼だが帝国軍に反旗を翻す勝元率いる反乱軍に身を投じることとなる。 オールグレンはそこでは招からざる客人であった、敵であったはずの勝元や村で暮らす人々、そしてのどかな生活と自然やしきたり己が信念を貫く彼らの精神とに感銘を受け,だんだんと安らぎを取り戻し そして侍として成長していくのである。 
 オールグレンが勝元と対峙したとき、見せた戦いぶりは“名誉”を誇りとする侍,勝元の目をひきつけて離さない、オールグレンの闘志に燃えたその目には侍スピリットが宿っていたのであろう。 侍スピリット、あるいはそれに似た戦士としての精神に国境はないのだと思った。 彼は確かに軍人から侍へと変身をとげたのだ。 
 この映画には様々な“美”が存在する。 それは神社とかお寺といった背景にあるものも,もちろんであるがここで描かれる“武士道”そのものにある。 言葉なくしても何か物語る場面、その沈黙こそが物語の雰囲気をよりよいものにしている。 何もしゃべらないで人と人とが視線を交わしあい,その無言の中で互い会話するかのようだ。 退屈の言葉など存在しない、むしろ引き込まれていくのだ。 武士道には心得のようなものがあり、その中でひときわ印象的なのが“言葉で表すことは実行すること”。 つまりは自分の言葉に責任を持つということ、普段何も考えずに言葉を発することがよくあるけれど、こうして考えてみると侍たちは物事をよく考えて言動をおこしていたのだなとつくづく感じさせれる。 侍たちは目の前の協力な敵たちへと刃を向け,自らの命果てるまで戦いを挑み続ける、この姿がなんとも美しかった。 オーグレンや勝元たちが敵と戦うときの刀の立ち居振る舞いもまた美しかった。 武士の時代の幕が閉じても勝元たちが貫いたような信念が生き続けたとしたらどうなっていたのだろうか。  戦で名誉の死を遂げる侍たちも美しく,目に焼きついた。
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by jd69sparrow | 2006-08-16 02:59 | 映画タイトル ら行