マザー・テレサ

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  生涯を貧しい人々を愛を注ぐことで救うために捧げた一人の女性、マザー・テレサ。彼女は神に使え,そして神を信じ行動した。 彼女はインドのカルガッタで貧しく飢えや病に苦しむ人々や子供や老人のために無償の愛を注いだのだ。 孤児の子供たちを始めとし、見捨てられた人々は山のようにいる。 一人の命を救うのも決して楽なことではない、しかしマザーは大勢の人々のためにそれをやり遂げた。 人々を救うことがどんなに大変なことなのか、宗教でぶつかり合うその場所で、自らの力で自分のためではなく人々のために何かをやることは難しいことなのかが思い知らされる。 誰に見守られることなく、静かに死へ向かわざるを得ない人々をマザーは決して見捨てたりはしない、しかし そこに暮らす人々もその日を過ごすことが精一杯に違いないと私は思う。 助けたくても助けることができない、他人の苦しみを見ても目をつむり自分の目の前の困難に立ち向かうしかない。 だからその苦しむ人々に対して思う気持ちがあっても中々行動にうつすことはできないのだろう。
 マザーの行動には決して偽りはなく、一人でも多く人々の命が虚しく消えることのないよう,救うことが彼女にとって全て。 自分の下に集まってくる孤児の子供たちを“自分の子供”だと言い、貧しい人々を“いつでも救う”と言うという彼女の言葉はまぎれもなく彼女の心の底からの言葉なのである。 マザーの言葉一つ一つに愛があり、雨の雫のように心にしたたり,しみる。 
 マザー・テレサはインドにある修道院で修道女として神に祈りを捧げていた。 インドという国ではヒンズー教とイスラム教とがぶつかりあうという内紛が起こっていた。 マザーには宗教に対する差別という文字なかった。 誰か傷つくことがあれば例え誰であれ救う。 しかしその彼女の行動はこの国にとっては大問題。 その行動に賛同する者もいれば、異を唱える者もいる。 だから彼女の行動は小さいようでインドの国にとっては大きなものだったのだ。
 マザーは貧困に苦しむ人々の中で彼らと同じように暮らした。 彼女の信じるもの神の慈悲であり、自分のためではない。ただひたすら神による救いにより人々が少しでも豊かな生活を送り,笑顔でいられることが彼女の願いなのだ。 強い機関に頼ったり、利益を考えるよりあくまで“人の手”に直接触れ合うことで,自分たちの力で人を救うことに重きをおいた。 決してそれらの行動を大きくしようとはしない。自分のためであってはならない、そこに彼女の強い意志がある。
 彼女は新しい修道院を作り、また“平和の村”を築き上げることを熱心に考え、行動した。小さくこつこつと少しずつ。 “神はせっかちではないのだから”。 彼女の決意の象徴と言うべきだろうか、着飾ることのない衣を身にまとう。 それは清らかな白に聖母マリアをさす青、そして足元には自由をあらわすサンダルを。 裕福なものではないのその衣こそがその後に起こす彼女の行動の真実の印。
 マザーは“祈り”が人々を救う手段であると言った、つまり誰もができる他人に対してできること(これはこの役を熱望していたオリビア・ハッセーの言葉でもある)。 “一人が誰かのために何か一つでも良いことすれば、また祈ることをすれば世界は変わる”という言葉はシンプルで心に響く言葉である。 シンプルであることが大切、シンプルだからこそ伝わりやすいからだ。
 世界には資本主義や社会主義とあるけれど、世界全体で見れば資本主義国に等しいのではないだろうか。 社会主義は人々に貧富の差はない、資本主義(言い換えれば実力主義)は良く言えば努力した者が救われる素晴らしい世界。 逆に悪く言えば貧富の差が激しいということになるだろう。 その資本主義の短所がつまるところ、世界を表すとも考えられないだろうか。
 聖書にはいろいろな偉業を成し遂げた人物がいる、まさにマザー・テレサは聖書に刻まれるべき女性だと思う。 “聖母マリア”という言葉が出てくるが、マザーもまた聖母という言葉がふさわしい人物である。

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by jd69sparrow | 2007-09-13 23:28 | 映画タイトル ま行