カテゴリ:映画タイトル さ行( 74 )

西遊記

d0058606_0213521.jpg
 孫悟空といえば世界で有名なキャラクターの一人である。 もともと中国発進の物語が日本、アメリカへと広がった。 アニメや漫画、人形劇など子供の間で親しまれている「西遊記」であるが、過去にもドラマ化をされており,京劇の演目としても有名である。 京劇では隈取のようなメイクを施された孫悟空が登場し、アクロバティックなアクションが見所である。 そしてに21世紀、再び映像化されたのが香取慎吾主演の全く新しい「西遊記」である。 ドラマでスタートしたこの作品。 私事であるが映画で見たのが初めてである。 孫悟空を含む,三蔵法師ご一行が天竺へ向かうという話の設定のもと,暴れん坊だが、笑顔の映える孫悟空がここに誕生!! 今回の映画では彼ら,ご一行が天竺にたどり着く過程,つまり旅の途中のエピソードである。 豪華なゲスト、意外なゲストを向かえ,コメディアクション「西遊記」が映画として再び始動。
 三蔵法師ご一行は旅の途中。 見渡す限り砂漠の山、そんな最中を果てしない旅を続けていた。 そんな中、見つけた遺跡、そこで彼らは家来たちをつれたどこかの国の姫らしき人物を見かける。 しかしそれでも旅は続く。 孫 悟空、猪 八戒、沙 悟浄の三人がばて始めた頃、砂漠の向こうに街が見えてきた。 その国の名は“虎誠(フーチェン)”、虎の民の住まう場所だ。
 三蔵ご一行はそこで再び、砂漠で見た少女を見る。 なんと少女はフーチェンの国を治める王の娘なのである。 彼女の名は玲美。 玲美は言う,「フーチェンは突如現れた大妖怪・金角大王,銀角大王により荒れ果て,さらには国王と妃が亀の姿に変えられてしまった。両親,国を守り,救う手助けをして欲しい」と。 お師匠さん(三蔵法師)は一つ返事でその依頼を引き受けた。そして当然,悟空たちもそれに加わることに。
 アクション,コメディ,ドラマと三つのジャンルからなる「西遊記」。 それぞれのキャラクターたちが生き生きとしている。 (個人的な意見になるが)“忍者ハットリくん”を見事にこなした,香取慎吾、お笑い界の大御所の域に来ているウッチャン、ドラマ「電車男」も記憶に新しい伊藤淳史、おしとやかな味を出している深津絵里、それぞれの持ち味がそのまま約に反映されているのではないかと思う。 敵役には岸谷吾朗がいて,「バッテリー」のようにy指し意役柄もあう一方で「リターナー」のようおに卑劣な悪役もこなしている。 だから今回の銀角大王もクセのあるキャラクターとしてよい味を醸し出している。
 この映画、物語の最大のキーワードは「なまか(仲間)」。 「なまか」とは信じ,助け合い,一度結んだ約束は必ず守る、そういうものなのだ。 悟空の「なまか」に対する思いは誰よりも強い。 それはお師匠さんに長い封印から解かれ、悟浄や八戒という三人の「なまか」ができたことに根源があるのだろう。 そうした悟空の熱いまっすぐな精神が,言葉が心に響く。 教訓となること、(悟空から)教えられることは少なくない。  「なまか」を持とうとしない者、大切に思わない者は本当の意味での「なまか」はできないし、知ることもできなければ,その温かさを知ることもできない。 どんななに「なまか」の存在が意味のあるものなのか今一度考えてみるべきだろう。

d0058606_0495817.gif
←あなたのクリックに感謝します。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-08-03 00:50 | 映画タイトル さ行

ジョンQ

d0058606_084350.jpg
 「息子の命を救いたい」、ただそれだけを願っていた。 心臓の病をかかえた愛するわが子を救うために父親は決死の覚悟で戦いに挑む。 子供一人の命を救うのに障害は多く,治療するための背景、取り巻く環境にも問題が多い。 主人公ジョンの目の前には複雑にからまった医療システムがあった。 息子マイクの命を救いたいジョンは強硬手段をとるがその優しい人柄は変わることはなかった。
 一人息子と愛妻の三人家族のジョン。 彼らの住む環境は厳しく,生活にもほとんどゆとりがなく,毎日を過ごすのがやっと、そして共働きを強いられ、ジョンはまともな労働条件で働くことはできない。 それでもジョンと妻ジュリーの間にはマイク(息子)がいて,なんとか毎日を過ごしていた。 しかし,ある日 突如マイクは心臓の病に倒れてしまう。 重い病を治すのに一つ問題があった。 それはあまりに高額な治療費の支払いと理不尽な医療システム(穴)に直面せざるをえない現実だった。 生活をするのにmのやっとの日々。 しかし、息子の命がかかっている,そこで友人のつてを使ったり,あらゆる手段をとり, 力を尽くすがそれも水の泡に等しかった。
 そこでジョンがとった行動はお金のないジョンたちをあしらった病院に人質をとりたてこもることだった。
 凶悪犯であれば人質の命を軽く見ただろう。 だが,ジョンは違う。 人質は患者たち、息子の命を重んじるジョンは違う。 人質はその病院の患者や医者たち。 いろいろな問題や病をかかえる患者たち、息子の命を重んじるジョンは同じように苦しむ彼らを放っておくことができなかった。 息子が命の危機にさらされたとき、命の重さを悟ったからこそである。
 そうしたジョンの,他の患者たちへの思いやり、自らを捨ててでもマイクを救おうと警官たち,そして医療システムにたたきを挑んだ彼の熱意は人々の心を動かす、そして人質となった医療チームや患者たちはいつしか,そんなジョンに共感を覚える。 そこにこの話の魅力がある。
 自分の命よりも息子の命を思った父親。 彼の要求はお金ではなく息子を重い病から解き放つこと、ましてや人質の命を奪うことでもなかった。 欲もない。 たてこもっていても愛する一人息子がいる彼は人質たちと同じ目線でいて、いつしか犯人と人質という隔たりもなく打ちとけあるようになっていた。
 人質たちと絆のようなものが生まれ、医療システムやそれに付随する保険のシステムに,そして警察に断固として戦いを挑み,自分の息子の命を救いたい思いを主張してきたジョンは犯人である以前に英雄であり,父親なのだ。
 サスペンスとしえの張り詰めた空気も醸し出しつつも、人質たちだけでなく、外から見る人々や一人の警官、そして観客の心に共感を呼ぶ。 そんな感動ドラマの要素が大きいけれど、人,一人の命を救うのがどんなに大変でそこまでの距離が長く険しいものなのか、現実を思い知らされるのである。 このように現実的な問題を提起することで、この作品を観た人々の医療システムへの見方も変わるだろうし、どうすべきかとか関心を持ち,現実を学び,知るきっかけにもなることであろう。

d0058606_0433747.gif
←あなたのクリックに感謝します。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-07-31 23:59 | 映画タイトル さ行

十戒

d0058606_2351416.jpg
 神がモーゼとその民たちに託した律法、それが“十戒”なのだ。 十戒は現在における全ての国の法律の源と言われている。 そこに書かれているものにはそのまま今に生きているものもある。 例えば“人の命を奪ってはならない”というもの。 キリストが誕生する前の話で舞台はエジプトに始まる。 アブラハムはユダヤ教やキリスト教などのもとを辿り,“信仰の父”と呼ばれる。 その子孫に当たるヨゼフはエジプトへ渡り後に王に近い存在となるが、それから長い月日が経ち,ヨゼフを知らない世代が王となることでそれまでエジプトで暮らしていたヨゼフと同じアブラハムの子孫にあたる民たちは奴隷という身分にされエジプト国家の下で過酷な労働をさせられるようになる。 そんな時に生まれたのモーゼである。 神の預言者であるモーゼが同じ先祖を持つ民たちを奴隷という身分からの解放、そして自由へと導く話である。
 エジプトのファラオ・ラメシスの頃、その国に暮らしていたイスラエルの民たちは彼らに生まれた男子は生きる資格をあたえられなかった。 しかしモーゼの母親はわが子を葬ることはできず,人の目に触れぬところにモーゼを隠し,それをエジプトの王女が拾い,エジプトの貴族として育て上げられる。 大人になったモーゼはやがて己の正体を知ることとなる。 自分には貴族の血は流れておらず,エジプトの国家の下で働かせられている奴隷の子供であるということを。 やがて彼は地位を捨て,国を離れ,神の声を聞く預言者となってエジプトへと戻り,国に使われている民たちを救うための進路を定めるのだ。 この物語で強調されるは「自由」。 エジプトの地を離れ,神から授かりし”約束の地”へと彼らは長い長い旅に出る。 自由を求めて。
 約50年前に作られたこの大スペタクルは4時間という長さの中に収められている。2時間という長さが主流になっている今から考えるとその二倍というのはとても長いように思えるけれどこういう歴史スペクタクルでは逆に2時間の中に収めるというのは難しく,例え2時間に収めたにしても中身の深さに差が大きく出てくることだろう。 しかし全てのエピソードを一つ一つ映像化していくのは途方もないことかもしれない。 かつてはこの映画を越える長さで公開された映画があるという話をどこかで聞いたような気がする。 この映画が公開されたのは1950年代、映画やテレビにカラーが普及し始めて間もないころだろうか、VFXもどちらかというと手作り感があるように思う。 モーゼの十戒の話で有名な海のさける場面はVFXの効果なしには難しいところであるのは明らかである。 聞いた話だとこの一見,非現実的に思える現象は完全にないとは言えないらしい。そしてあるテレビ番組では“この世界こそがマジックである”と言う。

d0058606_4462922.gif
←あなたのクリックに感謝します。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-07-03 01:44 | 映画タイトル さ行

シュレック3

d0058606_1721795.jpg
 シュレックは心優しき怪物。 シリーズ三作目となる今回の話は「遠い遠い国」の世継ぎをめぐる騒動とシュレックが父親になることの責任と向き合うのだ。 フィオナ姫と出会い恋に落ち,さらにフィオナ姫の家族と会い,家族を知る、そして国王と父親になることを目の前にする。 自分が人から恐れられる存在であり怪物であることにコンプレックスを感じ,人との関係を絶ち,自ら殻にこもった生活を送っていたシュレックは愛する者やその家族、そして国と自分の家族によって着実にシリーズを追うごとにステップアップしている。 シュレックの成長を描くドラマ的な要素とユーモア満載のコメディとがあわさっており最高なエンタテインメントである。
 フィオナ姫と結ばれ、ドンキーや長靴をはいた猫という仲間もできた。 かつては結婚を強く反対し敵対視していたハロルド国王もシュレックを認めてくれた。 しかし シュレックと国王との仲が深まってきた矢先、ハロルド国王は病に倒れてしまい,国王の座も後継ぎに残し,任さなければならなくなった。 その後継ぎにシュレックが任命されるが,当のシュレックは自分のような怪物が王になるのはよくないとし、王に即位することを拒絶した。それに王という責務はシュレックには窮屈だったのだ。 唯一の正統な後継ぎを王から聞き出したシュレックは相棒のドンキーと長靴をはいた猫をお供に後継ぎとなるアーサーのいる魔法学校へと旅立つことに。 シュレックに課せられたことは一つではなかった。 それは旅立ちの時、フィオナから告げられた一言にある。 それはシュレックとフィオナとの間の子供ができたこと。 旅に出かけると同時に二つの責任を知ったシュレック。 一方、すっかり落ちぶれたチャーミング王子はまだ王位に就くことをあきらめられずにいた。そこでおとぎ話の悪役たちを仲間にし,ハッピーエンドを手にするべく,遠い遠い国の王座を狙う。
 季節でいうと“秋”とのこと。 シュレックたちは遠い遠い国を飛び出し,海を渡る。 遠い遠い国の中で繰り広げられた物語は一気に世界が広がる。 遠い遠い国は前回に引き続き登場するわけであるが作り手の声にもあるように、同じ場所であっても見せ方が違うと違った印象を受ける。 立体感が城を中心に今までより確実にスケールアップしている。
 おとぎの国の住人たちが集う場所,遠い遠い国。 おとぎの国の主人公たちが増えれば悪役たちも増える。 もちろん,シリーズにはおとぎ話の名作から数々のキャラクターたちが出ているのだが、「白雪姫」の鏡の魔女(かな?)や「ピノキオ」に登場したピノキオを商売道具にした大男などディズニー作品でも色濃い悪役たちも印象に強く残った。 さらに、シュレックたち,おとぎ話の主人公たち側にもご注目。 少年アーサーが王になると聞き,“アーサー王と円卓の騎士”を想像する。 記憶に正しければアーサー王の右腕的存在であり友情で結ばれた関係にもあったランスロットが短時間ではあるが登場している。
 シュレックの世界ではおとぎ話の登場人物たちはそれぞれの物語でのキャラクターの型にははまらず,シュレックの世界におけるオリジナリティを持っている。 だからおしとやかな人物がこの世界の色に染まるとパワフルなキャラクターになっていたり、本来悪役なはずのキャラクターが思いっきりお茶目な性格に変わっていたりというのもある。 アーサー王とランスロットの関係も“キング・アーサー”の物語と比較してみるとだいぶ違う。 こうして見てみるとおとぎ話の主人公や悪役たちがそのままの性格で来るのではおもしろくない、それぞれに生まれ変わらせ,オリジナリティを持たせるというのがいかにおもしろく,それぞれのキャラクターたちに新たな魅力が生まれるのがよくわかる。
 作り手たちのユーモアが多く含まれる「シュレック」。 シュレックやドンキー、長靴をはいた猫、フィオナ姫というおなじみのキャラクーたちの魅力も今回増している。 シュレックは優しさが増し,王になることを拒んでいるけれど実際は王に等しい器をかねそなえていて、ドンキーはドラゴンと間に子供,ドロンキーたちが生まれたことでさらにテンションがあがる。 長靴をはいた猫、名前が出てこない(あるいはない)のが気になる。 プレイボーイでクールな感じだけれど実はおもしろい一面も持っている。 怪傑ゾロ風味であり、ところどころで口にする“セニョール”言葉は吹替えをするアントニオ・バンデ5、要ちラスを意識してかしてないか,ラテンの国の紳士という情熱さをほんのり感じる。 フィオナ姫はパワフルな戦いぶりを披露している。 プリンセス
 時代は中世。 綺麗な建物やキャラクター達が着る衣装にはもちろんであるが時代を表すものでさりげなく取り上げられていたアーサーとランスロットの一場面。 「ロック・ユー」でも登場したジュースティング(馬上槍試合)にもうかがえる。 時代を忠実に再現・表現する一方で現代的なものを中世の時代のものにアレンジしたものの登場、字幕を見ても現代風なセリフに訳された翻訳もおもしろいところである。
 この今回の物語の見所はシュレックが自らに課せられた二つの責任に向き合うドラマ、オリジナリティーあふれるおとぎ話のキャラクターたち、おとぎ話の主人公たちと悪役たちのコメディに満ちた全面戦争,バトルロワイヤルであろう。

以前の記事

d0058606_1956882.gif
←あなたのクリックに感謝します。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-06-30 21:05 | 映画タイトル さ行

300

d0058606_1444871.jpg
 歴史をテーマにした物語は中心となる人物がいて主としてその人物の生き様や生涯を描く。 だからその人物が輝いてたその時からその生涯を閉じるものまでを見ることになる。 そこでは主役となる人物がどう生きたかというのかが問題であって最後生きるか死ぬかではない。 その歴史上のできごとを事前に知っているかどうかできっと見方は変わってくるかもしれないが、この映画はビジュアル面だけではない,戦士たちの生き様は誇り高く勇敢そのもの。 勝利のおさめ方というのは一つじゃない。 つまり目で見えるものが全てなのではないのだ。 こうして後世にまで語り継がれ,文学や映画化となって伝えられたりと歴史に刻まれるのには意味がある。 偉大な何かを成し遂げたからこそ彼らの名は残り,こうして様々な国々の人々の目に触れ,私たちはそこで知ることができるのだ。 その時代に受け入れられなかったとしても後にいつか必ず理解する人たちが現れ,受け入れられる時代がやってくる。 当時生きる人々に非難されたとしてもそれが全てだと言う訳ではないし、それを偉大と思う人々がいる,あるいは偉大であるからこそ歴史に刻まれるのだ。 そしてそれらは決して歴史の中にのみこめられることはあってはならないと思う。 なぜならそこから学べることや今につながることを見出せるからだ。
 自らの命の犠牲もいとわない男たちは危機を目の前にしても笑みをこぼす。 圧倒的に多い敵の軍勢に立ち向かい,大勢の敵を震え上がらせ,またひるませた。 まさに無敵な戦士と言えるくらいの戦力を持つ。 レオニダス王の率いるスパルタ軍とクセルクサスが率いるペルシア軍、相反したライバルどうし。 遥かに多い軍勢にたった300人で戦いを挑んだ勇猛なる戦士たちの自由と名誉、誇りをかけた戦いの物語である。
 時は紀元前480年、舞台はギリシアに始まる。 スパルタに生まれた子供は強いものだけが生かされる。 幼い頃から戦いの,戦士の心得を教え込まれ,スパルタの戦士として鍛えられ,成人となるときには命がけの儀式を受け,そこから生還したものこそ誠のスパルタの戦士となれるのだ。 スパルタの王レオニダスもそんな厳しい鍛錬を生き抜いた者の一人である。 スパルタの民は男女の間に境はない。 誰もが皆,強い闘志を持っている。 スパルタの戦士の強さは厳しい鍛錬と身を案じ,見守る者たちの力あってのもの。 そして死を恐れず,“戦いで死をとげることは名誉なこと”と心に叩き込まれ,決して敵に背を向けることはない。 背を向け,逃げるくらいなら死を選ぶ,それがまさに彼ら,スパルタ軍なのだ。 敵はペルシア軍。 ペルシア軍には到底及ばない戦士の数であった。 戦に有利なのは軍勢、数が多ければ多いほど戦力は高まるのだ。 スパルタ軍、自らの国の自由を守るために国に命をささげる。 強くあるには敵に情けはかけず決して退くことも服従することもしない。 戦士一人一人の胸にその心得がある。だからこ戦士たちは強く,仲間意識も強い。 この映画の見所はどう戦士たちが名誉を手にするかだ。 名誉、つまり死だ。
 圧倒的な数の兵を持ち,自らを神とし強気で攻めてくる王の名はクセルクセス。 彼は自らが持つ権力とその力でスパルタをなんとしてでも侵略しようと何度もアプローチをかけ戦いへと発展していく。 戦いにおいて軍の数は勝負に大きく響き,力といってもいいだろう。 幾千,幾万敵の数に対して数百人に,味方が加わってもかなうはずもない敵の数。 ごく少数で戦い抜いた戦士たち、小規模の軍勢で無謀とも言える戦いに挑む。 それでも誰一人として逃げ出さない、自由のための戦いをのぞむ。 敵がどんな戦法で戦いを仕掛けてきても屈したりはしない。 そしてあきらめない。 数こそ少ないが一人一人の戦力で見ればあきらかにスパルタに勝る者はない、そう思えた。もしもペルシアとの立場が逆だとしたら文字通り無敵の軍団。 だからもし敵の軍勢にひけをとらぬ軍勢を持っていたらきっと早くのうちに強敵ペルシアを滅ぼしていたかもしれない。 そう考えるといかに敵が臆病か,また警戒が強すぎるかは明らかだ。  
 スパルタの戦士の出で立ち。 それ自体が鎧であるような強靭な肉体(※パンフ参照)、情熱の赤に彩られたケープは彼らの持つ力を強調しているかのようである。 槍を,剣を,また盾を自在に操り,肉体的なパワーで敵に立ち向かう。 その白熱で力強く戦うさまは痛快である。 盾を持ち,槍を敵に向け,戦闘の態勢を作るとき数以上パワーがそこにみなぎる。 戦士たちは槍を敵に向け,敵は次々と血しぶきをあげ倒れていく。 王の敵に向けた叫び,敵に力を示す戦士たちのおたけび、まさに彼らは獅子のごとく戦いを仕掛ける。 彼らに恐れるものはない、あるとすれば仲間,スパルタの民の自由が奪われることだろう。 欲らしき欲はない、彼らが望むのは(何度も言うようだが)“自由”なのだ。 そして戦い、生きた証が人々の記憶に刻まれること。
 確かに戦士の動きの見せ方、セピアを中心とした色使いなどビジュアルとして優れている。 現実から離れているようでリアルな戦士たちの闘志と誇り、世界観。 戦いで死を遂げることを名誉に思い,それを強く望んだ男たち,死を恐れず,戦いにおいて死を覚悟するからこそ彼らは強い、そんなスパルタの戦士たちの人物像は西洋の武士。 その生き様がなんとも勇ましい。彼らの行く末はやはり名誉そのもので彼らの戦いのしめくくり、そしてそれに続く新たな歴史のはじまりは個人的に言わせてもらえば納得のいく気持ちの良いものである。

d0058606_4123954.gif
←あなたのクリックに感謝します(^∪^〃)♪
[PR]

by jd69sparrow | 2007-06-25 03:37 | 映画タイトル さ行

スパイダーマン3

d0058606_0202839.jpg
 アメリカン・コミック,マーベルのヒーローたちには様々な能力を持ったヒーローがいる。 「スーパーマン」や「超人ハルク」、「X-MEN」,そして「ブレイド」など多くのマーベルキャラクターが映像化されている。 その中でも「スパイダーマン」はシンプルなデザインで印象に残るヒーローだろう。 「スパイダーマン」が登場したのは40年も前のことであり,原作のイメージから変わることなくイラストから飛び出したかのようである。 そして他のヒーローたちと違うのが正体を隠すヒーローであること(パンフレット参照)である。 ヒーロー全体として見ると、素顔をそのまま出すというものが多く,素顔とヒーローとしての顔,精神面でそのオンとオフとが切り替えられているのかもしれないけれど,やはり外面的に分けられているのがスパイダーマン(以下、スパイディ)なのだ。 日本にもヒーローは数多くいて,その中であげるとするならば漫画ではないけれど今もなお続く戦隊ものであったり,仮面ライダーなどなど。 オンとオフのカタチは違うけれど素顔を隠すという点からすれば共通するヒーロー像である。
 最近では素顔の一部分を仮面などで覆うなど素顔を見えないようにするものであっても素顔がわかるかわからないかくらいにするものであったり、コスチュームで身を包む以外はほとんど変わらないヒーローは日米の両方に見られるヒーローの姿の傾向だ。 
 そしてもう一つ、スパイダーマンの物語の特徴なのが未完成であってヒーローとしての確立や成長の課程を描いていくところ、そして原作で言うでなればスパイダーマンの糸は手作りだということでアクションである以前に主人公たちの青春を描く物語であり,身近なヒーローだということである。 最初から特別な力を持っていたのではない、今が特別であるわけでもない。 それが“スパイディ”,つまりピーター・パーカー。 映画でも漫画でも言えることだ。 映画で言うならば、ごく普通の青年がある日偶然な出来事が身にふりそそいだことで突然力を手に入れ,その力と力を手にすることで自らにに課せられる運命に悩む,ごく普通の青年というわけなのだ。 主人公は“力をなんのために使うのか”や“どう自らの目の前に立ちはだかった運命を受け入れるのか”など突然力を手にしたものがぶつかる壁に向き合うのだ。 そんなピーター・パーカーの人として、ヒーローとしての成長をシリーズを通し,描かれる。

(▼!ネタバレ注意!▼)

 「1」を振り返ってみる。 高校生のピーター・パーカーは大学の研究室に見学に来る。 そこには親友のハリー、幼い頃から憧れていた女性メリー・ジェーン(以下、MJ)がいた。 研究室には様々な蜘蛛がいる。 見学をする一行、ピーターは蜘蛛用ケースの外にいた遺伝子が組み替えられた特殊の蜘蛛に手をかまれてしまう。 するとピーターに蜘蛛の持つ力が備わり,壁をつたい、さらには糸を出して自由自在に飛びまわれる力を手にしたのだ。 彼は“スパイダーマン”と名乗り、人々を救うために自分の力を使う道を選ぶ。 敵はグリーンゴブリン、その正体は親友ハリーの父ノーマンだった。
 「2」を振り返ってみる。 大学生になったピーター、MJとの恋が動き始めようとしていた。 しかしヒーローとしてこれからを生きる運命を背負ったピーターはMJを思う気持ちがあるものの彼女に思いをつげることもできず、MJの気持ちに応えることもできずにいた。 ピーターが尊敬する科学者オクタヴィアスが彼の発明した人口アームに取りつかれ、ドクター・オクトパスとしてスパイディの前に立ちはだかる。 さらに、グリーンゴブリンこと父・ノーマンに死をもたらしたのがスパイダーマンであると思い込んでいるハリーとの仲に亀裂ができはじめていた。
 そして迎えたシリーズ第三作目。 スパイディの力は人々に認められ、“親愛なる隣人、スパイダーマン”はすっかり町の人気者となっていた。 ピーターはそれにちょっぴり有頂天になっていた。 自分の運命を明かし,MJとの恋も順調だったピーターは幸せそのもの。 彼女とのことに決心もつきかけていた。 スパイディ=ピーターはますますと成功をおさめる、けれどMJはそれとは逆であった。 MJを思いながらも自分のことで前が見えないピーター、やがて二人の関係はぎくしゃくし始めた。 ある日、ピーターの叔父,ベン・パーカーの命を奪った犯人の脱獄の知らせがピーターの元に届く。 ピーターは復讐心に取りつかれてしまう。 それでもピーターは自分と戦う。 そして彼の目の前には三人の敵,父親の復讐を誓いニューゴブリンになったハリー、サンドマンこと脱獄囚のフリント・マルコ、そしてスパイディにひけをとらない強さを持つヴェノムと化したピーターの仕事のライバル・エディ。 これまでにない数の敵である。 ピーターは正義の名のもとに戦うことをあきらめず前に進む。
 それぞれ違う力を持った敵、自分さえも敵となる。 親友とも戦わなければならない、かつてない厄介な敵、最強の敵もがスパイディに襲い掛かり 戦いに次ぐ戦いが繰り広げられる。 敵たちはタイプも違ければ出方も違う。 その中でももっとも最強最悪な敵が他でもない復讐で悪にそまったもう一人の自分、ヴェノムはスパイディの能力を吸収し,他人に取りつくことで完成したもう一人の暗黒にそまったスパイダーマンと言っても過言ではない。
 迫力あふれるアクションシーンの数々の中でもスパイディ=ピーターの自分と戦う姿は力強さがあり、さらに親友同士の戦いは印象に残る場面である。 スピード感にあふれ,どちらもほぼ互角な戦いを互いに挑み、二人ともが追い詰められては立ち上がるという感じ。 さらにピーターの復讐心から生まれた(今までのスパイディからさらにパワーアップした,)ブラック・スパイダーマンの動きやパワーのどれもが柔軟性にとんでいる。
 シリーズ通しての敵たちはピーターの知り合いで追い詰められ,心の隙間に悪に取りつかれてしまった復讐や欲望に見も心も蝕まれてしまった者ばかり。それだけにピーターは辛い戦いを強いられるのだ。 なんとも皮肉な運命だろうか。
 大いなる力をえること、それにより伴う犠牲。 ヒーローは屈することなく歩んできた道を受け止めることが必要だ。 それを一つ一つ受け止めなくてはならない。 友の存在、親友ハリーはピーターの何よりもの力。 その優しさがまぶしかった。 真相にせまる一作、感動の一作品である。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-05-19 01:20 | 映画タイトル さ行

スペーストラベラーズ

d0058606_2355342.jpg
 「スペーストラベラーズ」というアニメがある。 これは9人からなるチームで寄せ集めで集結した戦士の宇宙を舞台にしたSF物語で9人はそれぞれの個性と技を持っている(映画参考)。 楽園を行くことを夢見た三人の男たち、彼らは幼い頃からの友。 そんな彼らがその資金をえるために銀行強盗を起こし、やがて人質を仲間にし,警察と戦う物語である。
 保、誠、功の三人は白い砂浜に青い海の広がる楽園のような島に行くのが子どもの頃の夢だた。 しかしそのためには資金が必要だった。 そこで銀行におしいり強盗をおこす。 銀行の職員、その場に居合わせた客たちを人質に彼らは立てこもる。 「5分だ」。 それで全てが片付くはずだったが銀行職員の抵抗により警察との長期戦となる。 保たちを含め,その場にいたのは全部で9人。 その中にはプロのテロリストがいた。 そして警察を欺くために保たちは居合わせたその9人で手を組むことに。 アニメ「スペーストラベラーズ」のキャラクターたちの特徴に偶然にもあてはまる9人にコードネームをつけた。 リーダーの保を“ハヤブサジェッター”、その友を“ブラックキャット”、もう一人の(無口な)友を“ドラゴンアタック”、銀行の女性職員をアイリーンベア”、テロリストの男を“クラッシュボンバー”、仲の悪い夫婦のうちの男を“ホイ”、女を“ゴールド・パピオン”、銀行の男性職員を“カールヘンドリックス”、電気屋を“エレクトリック・サニー”とした。 寄せ集めでできた彼らはそれぞれのコードネームをとったアニメから“スペーストラベラーズ”と名乗り,戦う。
 人質だった6人が強盗たちの作戦に加わり,仲間となる。 強盗と人質という相反した立場であった両者は手を組み、語り合い,そんな中で絆が生まれる。 人質をとる事件で犯人に共感した人質は (言い方は悪いが)犯人側に寝返る場合があるという話をどこかで聞いたことがある。この映画の場合は寝返るという言葉はふさわしくないし、共感とも違うかもしれないけれど共感に近い何かを保たちの作戦の過程の中で芽生えたのかもしれない。 みなで共同して何かを成し遂げていくというのはみなの心を一つにし,絆が生まれる。 成長もできるし人として変わることもできるだろう。 どんな状況であれ、チームで汗を流して協力をすることは人を良き方向へと導く。 人生には何が起こるかわからないし、未来の自分が何をしているかだってわからない。いつどこで何を得られるかだって未知である。 
[PR]

by jd69sparrow | 2007-05-17 00:43 | 映画タイトル さ行

それでもボクはやってない

d0058606_2412585.jpg
 考えさせられ、また“知る”ということで非常に学ぶことのできる映画である。 ただ映画を見て単純に楽しむものではなく、現実を一つ知ることが重要。 「裁判」の姿をリアルにこだわり,追求されていて、とても身近なことが取り上げられている。 やってもいないことで疑われ、無罪なのに有罪へと導かれてしまう。 罪に問われ罰せられる可能性は非常に高く、その反対である確率はほぼ無といっても過言ではないだろう。 しかしゼロではない。 日本の裁判のシステムの姿がここにある。 映画では冤罪,無実の罪をきせられることが大きく描かれている。
 金子徹平は会社の面接を受けに行く途中だった、その最中電車を利用していたが女子中学生に袖をつかまれる。 彼は中学生を精神的に苦痛をあたえるに値することをしたとしてその中学生自身に現行犯逮捕される。 徹平は何がなんだかわからず事態がはっきりとつかめない。けれど見に覚えのないことで訴えられた。 自分が何もしてないというのは紛れもない事実、だから案ずることはないと信じていた徹平だがそれは全く違う方向へと進んでいった。 自分の意志が伝わりにくい明らかに不利な状況下にあって真実を主張してもそれは偽りとして受け取られてしまうという徹平自身にとってもとても辛い局面に陥ることとなってしまう。 「一体、なぜ?」という言葉が絶えない、けれどこれが本当の一つの裁判の実体なのだと思い知らされる。 不利な状態でどう戦っていくかも見ておきたいところだと思う。 「裁判とはなんなのか」ということが取り上げられている。
 何かがおかしい、けれどそれが実際なのだと思うとやっぱり恐ろしい。 裁判では様々な質問が浴びさせられる、その質問の種類は様々であるがそこでは発言がモノを言う、下手に動くとますます自分を不利に追いやってしまうという緊迫が続く重い空気は晴れない。 もちろんそれは罪の疑いがかけられたその瞬間から始まるものである。 被害を訴える側も精神的ダメージを与えられるけれど、冤罪であることは自分でも感じていて,現実では有罪であると主人公を追及してくる人々に疑われ続ける側にも苦労と苦痛があるのだということがよくわかる。 どうしたらそういうことを導かせてしまうのだろうかと観ている側も考えさせられる。 このおかしな日本の裁判のシステムを作品の中だけでなく,観る側もふくめて共に考えようというのが特徴である。
 信じていることへの期待がだんだんと崩れていく、罪があると言われ続けるが真実を知っているのは自分しかいない。 その強い精神が主人公自身を支え続ける。 結果はどうあっても,ずっと信じ,不利でも屈指さえしなければ可能性は消えたりはしない。 すべてを完結させることではなく、厳しさを知る知識を広めることや現実を見るというのが大切なことである。 人を裁く代表的な機関である裁判所、人が人を裁く場所なわけだがこの物語では観ている側にもそのことについて今一度考えることが大切だと言っているのではと思う。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-02-06 01:02 | 映画タイトル さ行

SHINOBI-Heart Under Blade-

d0058606_025567.jpg
 古くは平安の時代から“忍”は存在したという。 また、“忍”には伊賀と甲賀という2つの有名な一族がいた。 彼らは山里に暮らし主君のために忍術を持って任務を果たす影に生きていた。戦うことが彼らの生きがいかのようでそれが定めのように思える。 時代は徳川家が天下をとり戦国の世から泰平の世へと変わろうという時代だったのだ。 「SHINOBI」では対立する伊賀忍者と甲賀忍者の戦いと敵同士である各々の上に立つ二人の若者どうしが愛をお互いに心にいだきつつも戦わなければならないという運命へ立ち向かい戦う物語であり、日本史風「ロミオとジュリエット」といったところだろうか。
 伊賀忍者・朧(おぼろ)と甲賀忍者・弦之介は二人とも400年もの間お互いを憎み,敵対してきた忍者の里で生き,棟梁の後を継ぐ者どうしである。 しかし敵どうしでありながらも二人は恋に落ちる。 けれど現実は厳しくてそれはカタチのなさない“夢”そのものでしかないように思われた。 定められた運命、敵対する関係にある二人の環境は厳しいもの。 戦いをのぞまない二人は2つの忍の里をたばねる代々その名が受け継がれている服部半蔵を通して下された命により,主君というべき徳川家康の跡継ぎをかけて戦いを余儀なくされる。 朧(おぼろ)と弦之介は愛を守ることができるのだろか、そして二人を待ち受ける運命とは-。
 モダンな風味で色づけされた日本史を背景に描かれた物語。 主人公の二人は鮮やかな色に包まれ、そして全体として時代の鏡ではなくその時代をもとにされながらも自由に創造された忍という感じである、そして徳川家康や服部半蔵などの実在の人物たちを見ると泰平の世へと変わる時代のものと考えさせられながらも現代的でもあり、歴史を語るものでもあると想像できるものである。 この忍の忍術や能力は人間離れしたような力を持っていてまるで漫画の世界を思わせるものが見受けられた、しかしその忍術一つ一つを見るのもとても楽しいかもしれない。 忍は同じ仲間の一族であっても実に様々。 これは和風「X-MEN」とでもいえそうなものである。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-01-21 03:10 | 映画タイトル さ行

007/カジノ・ロワイヤル(2006)

d0058606_0313141.jpg
過去を振り返るとなんと20作品ものシリーズがあって、時間の長さにして半世紀分という驚くべき記録である。 2006年、新しい「007」で6代にわたったこととなる。 ピアース・ブロスナンのボンドが記憶に新しい。 ショーン・コネリーで始まった「007」は歴史の一部であるかのようだ。 歴史を辿ってみると、「007」には様々な分野があって,シリーズの中にはSFのジャンルに近づいたという作品もある。 たいてい、一人の役者あたり2作品以上の割合でボンドを演じているが、その中でも目覚しいのがショーン・コネリーのようである(しかし、回数にして数えてみると ロジャー・ムーア,ショーン・コネリー,ピアース・ブロスナンという順番でボンド暦が長い)。 というのは「ロシアより愛をこめて」が多大な評価を受けたからであり、コネリーの演技力のすがさがあったのだろう。
 今回、第21作目となる「007」では、ダニエル・クレイグ(「トゥーム・レイダー」などに出演)がニュー・ボンドとして活躍をうする。 ちょっとハードボイルドなイメージただようクレイグのボンドは恐いもの知らずで向こう見ずさも感じられるもので、荒々しさもあるが、人間味の深さ、人間らしさがうかがえる。それはこの「カジノ・ロワイヤル」がボンドの「00(ダブル・オー)」(という資格)昇進後,最初の任務につくというものだからであろう。 クールよりもワイルドなボンド。 冷静さよりも情熱的という印象もうける。 ボンドの真剣なラブ・ストーリーが見れるのもこの第21作目の特徴なのだろう。 この,まだ人間的でまだ華麗さのないボンドは今後、様々な経験が刻まれるのだ。 そして、アクション映画のヒーローから華麗なる,スパイ映画における,戦う英国紳士へと進化をとげていく。
 ボンド・ガールは「キングダム・オブ・ヘブン」のエヴァ・グリーン。 艶やかな美しさとミステリアスな雰囲気のあるヴェスパーを演じる。 ヴェスパーボンドが最初に愛した人で、ボンドとしだいに恋仲になっていく役どころであるが、同時に複雑さも大きい。 敵であるル・シッフルはあまり感情の読めないけれど知的な感じである。
 ストーリーについて。 「00」の試験を経て,ついに「00」へ昇進し、“007”という称号を得たボンドは“007”として最初の任務へと向かう。 その様子を監視するために派遣されたのがヴェスパーという女性。 さらに上からの配慮でマティスという協力者を得る。 ボンドのいる組織の責任者“M”が困り果てるほどボンドの大胆さと荒々しさで危険くぐりぬけながら任務を遂行していく。 ボンドの任務で大きく決めてとなるのがル・シッフを含めてのゲームである。 これはお金ではなく世界の命運をかけた戦い(ゲーム)と言えよう。
 任務遂行の裏にある複雑さがボンドを苦しめる。 そして容易には抜け出すことのできない迷路のように,ことは思わぬ展開へと進み、さらにまた複雑さの糸がからまっていく。
 アクション・シーンも多く、大きく動いたり、敵と戦ったりとスパイ・アクションとしてのおもしろさもあるけれど、ボンドが主に敵の頭と戦うのは銃でも素手でもなく,“(カジノの)ゲーム”。 彼らの戦いの場はテーブルの上。 腕力ではなく、頭脳戦なのだ。 銃の弾丸の代わりとなるのがトランプのカード、代償となるものがチップといったところだろうか。 テーブルの上での駆け引き,作品の見せ場の一つになるおもしろさ、ボンドの勝負士としての強さがうかがえる。,第21作目であって,新しく生まれかわtっての第1章「007」が幕をあげる。
 ジェームズ・ボンドが銃を放つところから始まるお約束から華麗なるオープニングがとても綺麗。
[PR]

by jd69sparrow | 2006-12-30 01:12 | 映画タイトル さ行