カテゴリ:映画タイトル な行( 35 )

2012

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<イントロダクション>
 いずれ地球は滅びる時は来るだろう。 地球もまた人間のように生きている、だからこそ,その命が尽きる時がくる。 原因がどんなものであれ… しかし、老いて死を迎えるように必然というのがあったとしても 少なからず,力尽きるのには人間が関わっている事だと推測できる。 明らかに今、環境問題や一人一人の意識によって傷つけているのだから。
 とは言え、この物語は天命かもしれない。 地球も一つの惑星であり、いつかその時が来てもおかしくない。人は地球が滅び行く時、何を思うだろうか。 ここがまさに主軸となり物語は進んでゆき、作り手が一番見せたいところであり、観客に問いかけたいところだと思う。

<あらすじ>
 ジャクソン・カーティスはSF作家とリムジンの運転手という2つの仕事を持っている。 彼には子どもと妻がいたけれど、今は別れている。 だけど、子供達を思うカーティスは時折、子供達の下へ訪れる。 娘リリーだけは父親が大好きである。 ある日、カーティスは息子ノアとリリーとともにキャンプに出かける。 しかし、そのキャンプはうまくは行かなかった。 昔、妻ケイトと行った思い出の場所はもうなくなっていた、その素敵場所へと子供達を連れて行くつもりだったのだ。
 そこにはある現象の兆しが漂っていた。 カーティスたちはその向こうへと進んでいく…やがて、避けがたく,またあまりにも残酷な現実を知る事になる。 それは地球滅亡。 既にこの現象は遥か昔に発展していた,マヤ文明によって予言されてものだったのだ。 そして、少しずつ亀裂は入り始め、地球の運命も大きく動き始めるのである。
 人々は滅び行く運命と思われていたが、政府ではある計画が考えられていた。それは“ノアの箱舟”のように人類が生き延びるために、一部の人たちと動物達を連れて,安息の地へ旅立ついうものだ。 しかし、これには政府の策略と欲望が隠されており、多くの人たちを犠牲にするという非情な計画だったのだ。
 人々は生き残るために、その船に乗るためにあらゆる手段に出るという争奪線が勃発する。 カーティスも家族を守るためにその渦中へと飛び込んでいく。

<感想>
 誰が必要で誰がそうでないかなんて、こんな馬鹿げたことなどあってはならなない。 なのに、ここで登場する上層部の人間はそんなことをしようとしている。 権力のある者たちと、彼らを支える資金源を持つ富豪たちなんて…。 余力、つまり救える命を見捨てるということになる。 箱舟はとても巨大でそこに用意された空間はそこへ招かれる人たちにはあまりにも広すぎる。 そんな現実があっていいのだろうかと思った。 現実に起こりうるかどうかはわからないけれど、全否定はできない。
 人に未来を予測する力があったとしても、それは100%ではないはず。 ある程度の予測を立てるけど、未知数を越えるものが押し寄せるとそこへ不安が生まれる。 予測できないゆえに恐れる。 自分達で決めた範囲を超えても大丈夫だろうかと。 そこには色々な思惑が交差する。 人の心理が見えるだけでも、この作品を見る価値という者が生まれてくる。
 最初の異変は意外なところから始まる。 しかし、それは何でもないように錯覚してしまうが それが留まらないとなるとやがて疑問は恐怖へと変わる。 卵を割れるときのようにヒビが入り始めたと認識した次の瞬間、訪れる崩壊… あまりに非現実的だが現実として映し出されている。 実際にないなんて誰が何を根拠に言えようものか。 地球の運命の時計は、既に崩壊までのカウントダウンと差し掛かっているというのに。
 地球が滅ぶのはとても恐ろしい事のはずなのに、私達は何故,それを見ることに興味を持つのだろうか。『2012』の監督ローランド・エメリッヒが世に出してきた地球滅亡をテーマにした作品のように他にも『アルマゲドン』のようなものもある。 なぜかと考えてみた。 それはまず、滅び行く姿が不思議と美しく映るからである。 ここでは砂の城が崩れるかのごとく、あまりにも綺麗に街やら建物が崩れていく。 次第にその崩壊の波はすぐ後ろに迫ってくる。 主人公たちは車や飛行機など交通手段を変えつつ,箱舟の場所を目指すのだがどちらもとても緊迫感とスリルがある。 車の後ろには道路が津波のように崩れているし、飛行機では目の前で崩れてく建物のギリギリの合間をするり抜けていくのがなんだが『スターウォーズ』のようなSF大作にも見えるし、ジェットコースターなどの遊園地のアトラクションのように見える。実際には、この感想とは真逆な思いを抱くであろうから、こんな呑気でいてはいけないのだが…
 あともう一つあげるのならば、絶望的な危機の中にいる、家族の絆と愛だ。 こんな状況下では、我先にと助かる手段へ大勢の人たちがしがみついていくという風景もあるけれど、逆に人の絆が深まっていくと言う温かいものもある。 ここではバラバラだった家族が再び、同じ輪の中におさまってくというものだ。 そこにはみんなで助かろうと言う一人一人の気持ちがある。 守ろうとする命の数が多いほど、困難は多いけれど でもやはりこれこそが、人のあるべき姿なのだと痛感した。
 この地球の異変を一番最初に気づいた人が何故こんなにも残酷な仕打ち受けなくてはいけないのか、という不条理な現実もあり、ベルリンの壁が崩れた時のような人々の一体感のようなものがあったりなど、地球崩壊の姿が強いと思いきや、こうした地球滅亡の物語というのは、実は,人間模様や人と人との感情のぶつかり合いなどを主として大事な事を人々に諭しているようだ。
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by jd69sparrow | 2009-12-04 20:18 | 映画タイトル な行

ニュームーン~トワイライトサーガ~

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<イントロダクション>
 “ニュームーン”。 今回登場するのがヴァンパイアの他に天敵である狼人間が登場し、どちらに対しても関わりのありそうである。 主人公ベラとエドワードは人間とヴァンパイアの境界を越えた恋人同士、そこへ新たな“存在”が加わった。 それがジェイコブ。 第一作から登場はしていたが二作目でメインとして登場だ。 もし、このタイトルが狼人間よりなのだとしたら、ここに意味がありそうである。 
 人とヴァンパイアという生き方の違う両者に立ちはだかる障害は前作から続いており,シリーズ通してのテーマの一つなのかもしれない。 この問題にベラとエドワードは苦しめれる事となり、距離を置いた二人は孤独を味わい,その先にあるものへと突き進むのだ。

<あらすじ>
 ヴァンパイアに課せられた最大の掟、それは種族の存在を公にする事である。 背けば、処刑の運命を辿る事となる。 カレン家のヴァンパイアたちは人々に良心的だが、この掟,つまり秘密を隠し,そして人に悟られぬようにする事は難しい。 きっかけはカーライルの“若さ”だった。 人々の間に疑問の兆しが見えてきた事で彼らは町を離れなければならなくなった。 狂おしいくらいにエドワードを愛しているベラにとって、エドワードが自分のもとから去ることは地獄でしかなかった。
 離れてもエドワードの幻に苦しめられ、そんなベラを救ったのが親友のジェイコブだった。 エドワードとは対照的に温もりのある彼に気づけば,癒されるベラ。 しかし、エドワードを忘れる事はできない。 そして、ジェイコブにもある秘密があった。 それはカレン家とは因縁のある種族であるということだった。
 心が揺れ動くベラが出した答えとは? また、エドワードとの運命はどうなるのか? ベラの知らないヴァンパイアの世界の扉は今、開かれる…

<感想>
 『ロミオとジュリエット』は悲劇だが、究極の愛の物語である。 仲の悪い家どうしのもとに生まれた二人には障害が多いけれど、二人の恋は実に美しく切ない。 外国映画には特に、物語の内容を始め,鍵となる場面や設定(が語られる)になんらかのカタチで表現し、その隠喩がわかると面白く,また作りこまれているのを実感できる。  この名作をなぞられたところがあり、そこは物語の主軸として『ニュームーン』に描かれる。 二人の主人公の関係性や、今回起こる事件はまさにそれを連想させられる。 相手への愛のために危険に身を投じるベラ、愛する人に死が訪れたと思いこみ,自らも命を絶とうするエドワード…ロミオとジュリエットそのものではないか! 有無を問わずに自分の下から離れていった人、心がどん底に突き落とされようとも,他の誰かに傷を癒されても エドワードが自ら死へと向かおうとしていると聞くやいなや,走り出すベラはエドワード以外愛せないのだと物語っている。 そこまで強く結ばれた絆ほど美しいものはない。
 ヴァンパイアは常に血に飢えており,血を追い求めているダークなイメージを持ちやすいけれど、それが魅力だったりもする。 しかし、ここでは呪われた存在であることは変わらないけれど 人間の命を奪うのではなく,守るのだ。 もちろん、通説どおりのヴァンパイアもいる。 今回新たに登場する狼人間達も同じだということも驚きだけど、これが『トワイライト』のカラーなのだと思う。 ヴァンパイアは悪魔の化身とも言われるけれど、守護として描かれるのはとても珍しく,また美しい。 アン・ライスの描く世界もとても美しいけれど、モダンな美しさを持つ『トワイライト』も絵画のようなアートである。
 前作に続き今作もまた、新たな味を出している『トワイライト』。 新たな味というのはこれまでのヴァンパイアなどのモンスターの登場するジャンルという意味で、これまでにはない切り口で語られる部分が多い。 一作目では、前述したように人へ良心的なヴァンパイアがいて、彼らが血に飢えているなどほとんど感じさせなかったり、さらに日の下にいる彼らの肌に出る色が違うということなど多々あったが、今回は狼人間である。 これも既に述べているように人への危害を加えないという生き方をしているということがまず一つ。 もう一つは解説にも掲載されていたが、四本足で歩く、狼そのもので,しかも体の大きさもかなり大きいということである。 そしてこれもまた、興味深いのが種族として複数登場する狼人間は一人一人個性が出ていて,見た目はそれぞれ違うのだ。 ヴァンパイア族にも予知能力や読心術など様々な個性があるという,これまでのヴァンパイアモノにはない特徴が描かれていて面白いけれど。 『もののけ姫』に登場する狼のように美しい毛並みをしていて(大きさも近い)…でも顔はリアルな狼、これがとても良いなぁと思う。 性格的にも残忍とクールの二極端ではなく,熱い性格だったり,明るい性格だったりと個性豊かだ。 なので、こうだとイメージや断定付けるものがないのが良い。 だからこの作品の持つ色は他の同じジャンルのものと一線を引いている。
 二本足で立つ狼人間と言えば、カプコンの『ヴァンパイア』に出てくるガロンというキャラクターがいて、狼と人間の両方が半々だ。 個人的に見た映画にはこのようなものはなく,狼らしさというのは中々見られることはなく,どこか不自然さが残る,とても半分ずつとは言えない狼人間が多かった。 狼と化したときにリアリティがなかったのである。
 『ニュームーン』で登場する狼たちは体の高さは人間と同じくらいという大きいものだが、本物に近いのでは?と思う。 リアリティがあるからこそ,彼らがヴァンパイアと戦う様はとても迫力があった。 両者のぶつかり合いが物語で最高にエキサイティングなところ。 体格の差がありながらも,また、スピードの多少の誤差があっても互角に戦う様が、この,音楽のような綺麗な作品の中で唯一のアクション映画な部分だ。 対立したモンスターどうしだが、この関係性は時に協力関係になることもある。物語により,設定が変わるのがまた面白い。
 クラシックでもヴァイオレンスでもない、青春ともまた違う,二人の物語。 無駄がない。 エドワードはベラのハートを鷲づかみにするかのように,離さない。 相手を不安にさせることもあるけれど 愛する人の危機には敏感で,遠くにいても幻となってベラを安全へと導こうと努める。 彼が何よりも求めるのがベラの幸せ、ベラを愛しつつも自分と関わりを持ったことで異常にまで思える強い想いをよせる彼女の身をあんじている。 さらにヴァンパイアになることを熱望するベラを引き止める。 この想いの強さが第三者としてみても惹かれるものがある。 
 前に述べたかもしれないけれど、実際に文字で書かれた物語の世界を覗き込んでいるかのような,また一つの芸術のような作品だと思う。
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by jd69sparrow | 2009-12-01 17:33 | 映画タイトル な行

20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗

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<イントロダクション>
 作り手側の言葉によれば、「“ともだち”が誰なのかより、“何”なのか」という方が作品のポイントのようだ。 とは言っても、“ともだち”が誰なのかというのは誰もが気になっていたはず! その全ての謎の答えがついに明らかになる。 主人公ケンヂたちの子供時代の出来事が、“ともだち”へとつながっていく… 歳を経ても“ともだち”へ立ち向かい,脅威から人々を救おうと戦う オッチョやユキジたち,はらっぱの仲間達、そして力を増していく“ともだち”。 彼らの戦いに今、決着がつこうとしている。
 映画は最後の最後まで見るもの…エンドロールが流れても最後まで席を立たないで!となると、その最後の部分に大いに期待がかかる。 大々的に謳われてなくても劇場が明るくなるまではとどまっているべきだと私は思う。

<あらすじ>
 ともだち暦三年。 “よげんの書”、“しん・よげんの書”が現実となっている。 細菌兵器は世界中にばらまかれ,大勢の人間が犠牲になった。 “神”となった“ともだち”は思いのままに東京を支配している・・・、いや世界と言うべきか。 東京は大きな塀の中にあり、まさにその場所だけが隔離されているかのよう。 オッチョは漫画家と共に東京への塀を乗り越えた。 そこで彼らが見た東京は数年前とはまるで違う姿だった。 オッチョが過ごした少年時代の東京、まるでタイムスリップしたかのようなものだったのだ。 ともだち暦が来て、東京は“ともだち”の手で姿を変えられていったのだ。
 一方、カンナも氷の女王と名で知られ、“ともだち”へ反旗を翻す武装集団のリーダーとして動き、また,ヨシツネも源氏一派を率いて,“ともだち”に抵抗している。 “ともだち”のもとへ集まる者もいれば、そうでない者も大勢いるのだ。 後者である人々の希望はケンヂの“あの”歌だった。 放送されていないはずのラジオ局から流れてくるその曲が。 
 大勢の人の命が失われた今、無謀に攻撃することよりも,生き残った人々を一人でも多く守ることを知ったカンナと、オッチョやユキジ、はらっぱの仲間達は最後の戦いへ挑む。 そしてある男が、ギターをかかえた男が東京へと向かっていた。

<感想>

※ここからはネタバレになるかもしれないので、ご注意を!

 “ともだち”はこの物語の登場人物だけれど、現実に置き換えても それにつながる何かが多く存在していると思う。 パンフレットにも書かれていたことだけれど、確かに“ともだち”の生まれる過程には社会的な問題がからんでいると思う。 そもそも“ともだち”が生まれたのはケンヂたちの少年時代のある出来事によるもの。 それはいつの時代にも起こりうることである。 子供のときにやったこと、だけどそれは時に危険な何か生んでしまうことへもつながるのだ。 昨今、いろいろな事件が起こり,その犯人たちの過去にはいろいろな背景がある。そう思うと“ともだち”が受けた過去というのは他人事とは言い切れない。 映画のような“ともだち”そのものとは言わないけれど、それに近いものを作リ出されてしまうのは私たちが生きる社会の大きい問題だ。 
 シリアスに話が進んでいく一方で小ネタもところどこに隠されていて、面白い。 パロディだったり、小ボケであったり…など様々。 例えば、地球防衛軍の服がどうしても『ウルトラマン』の隊員の制服を連想させたりなど、とういうかそのようにしか見えない。 登場人物のネーミングそのものや、名前がつけられた理由など。そういったものははっきりと掲示されるものばかりとは限らない。 それは背景に何気なく隠されていたりもするものだから、そういった意味でも おさらいをしてみたい。
 時は2017年となり、ケンヂたちの少年時代は70年代。 月日は流れ、ケンヂやオッチョたちはもう還暦がすぐ近くまで迫っている。 その色は登場人物一人一人を見れば伝わってくるけれど 年齢以上の力を彼らは持っている。 心はまだ,ともだちとの戦いを決意した時のままという感じ。 ケンヂとオッチョは六十近くには見えない。 二人は体を張る場面が多い。 設定のわりになんでそこまで動けるのか?というツッコミは不要だ。 それこそがいいのだから。 特別な能力は何もない。 だけど、その勇気一つで強くはなれる、また人に力にだってなれるのだ。 ケンヂやその仲間達が私たちに勇気をくれいているような気がする。 彼らにはそれぞれ背負うものがあり,守るべきものがあったりとそれぞれに人生がある。 でも、向かうべき道は皆、一緒だ。 それは人類に再び平和を取り戻すことだ。 彼ら一人一人違った方法で。 
 “ともだち”を良く思っていない人々だって大勢いるはずなのだけれど、それが目に見える形で現れるとこんなにもたくさんいるんだなと、まるで見ている自分がその場所にいるかのように驚いた。 また、意外な味方がいたり。 第一章では はらっぱのメンバー達がいて、ともだちがいて…というふうに『20世紀少年』の世界はこうなんだ、というふうに描かれていて,その中でいろいろなことが起こっているというのがほとんどに思えた。二章では“ともだち”の信者が続々と増えていて、不気味な世界が広がっていた。 そして続く、この最終章では“ともだち”信者よりも、ケンヂを信じ,希望を託す人々が目立つ。 “ともだち”と言えど、その力が絶対ではないということだ。 よくよく考えてみれば、“ともだち”も一人の人間なのだから それは自然なことかもしれないが。
 過去が甦ってくる… “ともだち”が生まれるまでの過程がしだいにあらわになってくる。 つまりは真実へと近づいてい来る。 だけど、三部作を見通さないと答えはそう容易には出てこないし、“ともだち”の正体も最後、明確に出されるまでははっきりとは断定できないという作りになっている。 そしてその前にも仕掛けもあるから侮れない。 
 “ともだち”は次第に謎めいた存在から、少しずつ人間らしさが見え隠れしてくる。 そして、本性もが浮き出てくる。 彼は少年時代の心が大きい。 むしろ過去に傷を受けたその時のままという方が正しいのだろうか。しかし、指導力を持ち,大勢の信者を作るという人を動かす力を持っている。 それが恐ろしい点である。 たとえ、細菌兵器をばらまき、人の命をたやすく奪ってしまうという非道な人間でも人の上に立ってしまう。 つまりは、人を動かす力さえあれば、どんなに残酷な人間であっても,恐ろしいもの(・集団)を築き上げてしまうということだ。 これは現実にもありうることではないだろうか。
 ケンヂはキングマートで働いていたあの頃から見ると別人の如く、変わり勇者そのものだ。 死をも恐れないという感じ。 それはオッチョにも言える。 シリーズを通して一番アクションの見せ所が多いのはオッチョだと思うし。 二章では主人公と言っても過言ではなかった。 という主人公だろう! 将軍というあだ名にふさわしいくらいの戦いぶり。 どこを見てもかっこよくてクール。 あれほど、パワフルに戦える58歳がいたらすごいなぁと思う。 武器を持たせれば、武器と一体となり 戦士となる。 一章からしだいに渋さが増していき、と同時にかっこいい見せ場も出てくる。 カンナの実の父親は存在する。 だけど、本当の意味でそうと呼べるのはケンヂ。 ケンヂが第一の父親ならば、オッチョは第二の父親。 映画の中で見ると、一番長くいたのはオッチョだから、オッチョの方が…なんてふうにも考えられるけど、比べるものではないだろう。 カンナの親は“ともだち”と戦ったはらっぱの仲間達みんなだ。
 “ともだち”の行ってきたことは残酷なことばかりだ。 しかし、“ともだち”の過去,少年時代のある出来事は彼を大きく変えてしまった。 それはあまりに辛いものだ。 ある一人の勇気さえあれば彼の未来はきっと変わっていたことだろう。 
 とても気持ちのいい締めくくりだと思う。 最後の最後でこれほどまでに時間をかけ,そしてすっきりとしtものに,また観る者を納得させる終わり方は最高だ。 作り手たちがいうように物語のメインとは味が違い、控えめなトーンで爽やかな空気の中で幕が下りる。
 様々な謎が解明された今、やはり第一章,物語の始めから復習をしたくなる。 隅々まで描写を見て謎とその答えを見たい。

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by jd69sparrow | 2009-09-01 21:39 | 映画タイトル な行

ナイトミュージアム2

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<イントロダクション>
 黄金の石版の力により,博物館の展示物たちは夜、魂が宿る。 自由に動き回る彼らにはそれぞれ個性があり,意志がある。 不思議な力によって意志を持つ彼らだけれど、実際に展示物には魂が宿っているのではないかと思う。 作り手によってこめられた魂が。 第一作目ではティラノサウルスの化石がまるで子犬のように可愛らしいという意外性あるキャラクターがいたりとイメージとは違う面白い性格を持ったキャラクターが多く登場した。 二作目である本作も同様である。 舞台が大きく変わったことで、動き出すキャラクターたちの幅も大幅に広がる。 嬉しいことに一作目のキャラクターたちも引き続き登場し、活躍する。 主人公ラリーと彼と付き合いの長い自然史博物館の仲間達の新たな冒険が始まる。

<あらすじ>
 ラリーは夜警の仕事を退職し、新たなビジネスで成功をおさめていた。 博物館にいた頃とは天と地の差の如く,彼の環境は変わっていたのである。 ラリーは暗闇で光るライトを発明し、ヒットを飛ばす企業のトップである。 慣れ親しんだ自然史博物館の仲間達を思いつつも、今ある仕事から中々手が離せない。 そしてラリーの留守の間、自然史博物館にも時代の波が押し寄せた。 一部の展示物を除く、自然史博物館の展示物たちがニューヨークからワシントンのスミソニアン博物館という大きな博物館の倉庫行きとなったのだった。 それを知ったラリーはショックを隠せない。 そんな時、事件が起こった。 ワシントンに着いた,かつての自然史博物館(ニューヨーク)の仲間でジェデダイアからSOSが届いた。 ニューヨークに残されるはずだった石版をサルのデクスターが盗み出し、それによって命を吹き込まれたエジプトの王カームンラーがジェデダイアたちを危機に追いやり,悪巧みをしているというものだった。
 それを聞いていてもたってもいられなくなった,ラリーは息子の力を借り,巧にスミソニアン博物館の倉庫へ潜入し、ジェデダイアたちを救い向かう。

<感想>
 スミソニアン博物館には世界のいろいろなものが揃えられている。 そして様々なジャンルの博物館の集合体であり,敷地内には種類別された建物が複数存在する。 剥製や人と変わらぬ姿をした展示物だけでなく、絵や写真、彫刻など実に様々な登場キャラクターがいる。 偉業を成し遂げた人物、悪行によって歴史に名を刻んだ人物たちがいて、スミソニアン博物館では二つの島に分かれている。 善と悪。 実在した人物,架空の人物などいろいろ展示物があるけれど、 バラエティー富んでいて面白い。 ラリーの相棒ともいうべきなのが、今回はアメリア・イヤハート。 イヤハートは女性初の大西洋単独横断の成功者だ。 冒険好きの彼女に少々振り回されつつも,この頼もしい相棒とともにラリーは戦うのである。 一見、アメリアの方がたくましいようだけれど、ラリーも決して劣ってはいないと思う。 それはラリーにある落ち着きである。 どんなに脅されようとも相手が展示物であることを知っているラリーの冷めた感じ…というか余裕が悪の王カームンラーを滑稽にみせ,また 憎たらしいと感じさせないのかもしれない。 それがコントじみていておもしろい。
 最初は戸惑うけれど、すぐに彼ら,展示物への扱い方・付き合い方を掴み、まるで親と子、飼い主とペット、友達同士のような関係を築き上げるのがすごい。 個人的なイメージに過ぎないのだが、ラリーの第一印象としてはダメ男というものがあった。 けれど実際は違う。 展示物たちの個性が必ずしも見た目からわかるものとは限らない点にもあるのだが、ラリーはその人がどんな人間なのかを理解するのに時間がかからない人なのだろう。 そして、確実にニューヨークの自然史博物館で場慣れしたラリーは確実にたくましくなり、スミソニアンでもその力が発揮されているように思う。
 アメリカで使われている懐中電灯には丈が長く,防犯道具としての役割を持っているものがあると聞いたことある。 懐中電灯をヌンチャクのごとくさばく様子、また武器として使うラリーはかっこいい。 どこでそんな技を磨いたのかと疑問に思うくらい。 懐中電灯をベルトにおさめるときもガンマンがピストルをかっこ良くベルトにおさめると同じようにキレがある。 スミソニアン博物館潜入の糸口をつかんだときの手さばきも見事なもの。
 絆という点も見逃してはならない。 前回犬猿の仲であったミニチュア・カウボーイのジェデダイアと同じくミニチュアのローマ皇帝・オクタヴィウスをとりもったラリー。 彼ら二人はもはや戦友の仲。 小さな二人だけど彼らの活躍は大きい。 また、ジェデダイアとラリーの絆も強く、まるで親友同士のようだ。 そんなジェデダイアがラリーに語る一言に感動した。 「俺らはこんな危機何度も乗り越えてきた-助けを本当に必要としてたのはお前(ラリー)だ」という感じの言葉である。 確かに、ニューヨークの展示物を救い,世界制服をもくろむ悪を倒すという構図のようであるが、実はラリー自身を救う話というのには大いに納得が出来る。 話の前提でジェデダイアを救うというものがあるが、(大げさな言い方だが)真の話の意図はラリーの救済にある。 観る側としてもそこで初めて話の目的がそこにあると初めてそこで気付かされるわけで、感銘を受けるのである(あくまで個人的な意見だが)。 目の前にある成功が本当に自分を幸せにするものだとは限らない、真の幸せとは自分が活き活きと出来る場所だとこの作品は語っているように思う。 それを教えてくれるのが自然史博物館の仲間というところがイイ! ラストはパンフレットのコラムにもあったように,誰もが一度は夢見たことであろう、理想が現実となったという感じで楽しい。

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by jd69sparrow | 2009-08-21 10:15 | 映画タイトル な行

252 生存者あり

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<イントロダクション>
 冒頭で語られる聖書の「ノアの洪水」の言葉からの引用がなんとも印象深く、これぞまさしく,この物語を表す言葉としてふさわしい意味ある言葉と言っても過言ではない。 その言葉には“私との約束を人が思い出すとき、洪水はやむ”という風な言葉がある。 “私との約束”、つまり創造主が人と交わした“契り”。 主と同じ形でかたどられ,作られた私達人間は、主から与えられた自然、人類以外の生き物たちを守ることが神と人とが結んだ約束だったと思う、
 どこかに書いてあったが、最近の異常気象はためらいもなく森林伐採をなどを行ったりなどの人の行いも一理関係があるのではないかという懸念も頷ける。 つまり、神との約束を人が守りきれていない,その結果が『252』での自然災害と考えられる。
 これも誰かの言葉にあったが、自然の驚異というのは、いくら推測をしても人間の想像を超えてしまう。 そして、突然襲い掛かる脅威にいかに向き合っていくかが、この作品で語られるテーマの一つだと言えよう。
 
<あらすじ>
 地震がおきてまもなく。 その勢いが収まり、接近とそれによる影響で海が日本の首都・東京に牙を向ける。元・ハイパーレスキュー隊員の篠原祐司は、娘の誕生日祝いをするため,仕事帰りに妻子と新橋で待ち合わせするつもりだった。 その矢先、突如として起こった自然災害に、巻き込まれてしまう。 ゴルフボール大の雹が降り始めたかと思うと、海から押し寄せてきた大量の水が洪水となって 街を襲ったのである。 篠原一家は一度それにより、引き離されている。 祐司はなんとか娘と再会するが、待ち合わせ場所だった地下鉄の奥深くまで,追いやられ 閉じ込められてしまう。 祐司たちは同じように生き残った大阪から上京した小さな会社を経営する藤井、ホステスのスミン、そして研修医の重村と共に地上からのレスキューを待つしかなかった。 長い間、溝が出来たままの祐司の兄・静馬の助けを。

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by jd69sparrow | 2009-02-23 23:23 | 映画タイトル な行

20世紀少年 第二章 最後の希望

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<イントロダクション>
 私は第一章から“ともだち”が誰なのかという疑問が続いている。 その一点について答えがわかったつもりでいたが、予想を遥かに超える展開があってか,いろんな事実が見え始めようとも,謎が深まった。 そうではないと信じて疑わなかった人物こそが“ともだち”なのかもしれない。 “ともだち”の顔、つまり観る方が求めているものが見えそうで見えないという,もどかしさが気になって仕方がない。 段取りと観る者への次回へのアピールが上手い。 謎解きと人類滅亡を阻止するための戦いの物語である。

<あらすじ>
 2000年の「血の大晦日」より15年の月日が流れた。 時代は21世紀を迎えてしばらくである。 “運命の子”と呼ばれた遠藤カンナは高校生になった。 “ともだち”の勢力が増し,日本国民のみならず、世界中の多くが“友民党”の信者になっており,ともだちの力に頼りきっている。
しかし、“ともだち”に立ち向かう人々、また,“ともだち”を好ましく思っていない人々は少なくない。 原っぱのメンバーを中心にとした人々である。 
 ケンヂの意志を継いだカンナは、世の中がおかしくなっている現実に苛立ちと疑問を隠せず,真相を掴み、世界に平和を取り戻すべく戦うことを決意する。 一方、原っぱのメンバー達も志し同じく、ともだちへ戦いをしかける機械を窺っている。 刑務所にいるオッチョも。

<感想>
 主人公の不在。 回想かで出てくるだけちうのが、とても珍しい。 主人公が中心に物語が進み、準主役や脇役たちの奮闘は普段見えにくい。 その見えにくい部分が全面的に表に出ているのが『第2章』である。 ケンヂの良き友で“ショーグン”という名を持つ,オッチョとケンヂの姪のカンナ。 この二人が主人公不在の穴を埋め,活躍する。 どちらも危険を顧みないたくましさがある。 カンナは間違っていることは間違っているとはっきり言える,強さと勇気が武器。 オッチョは体でぶつかっていく感じ。 2つの視点から“ともだち”に支配された世の中を見ることになる。 ともだち信者でともだちの下で働く人々の異常なテンションとノリ、セリフは『TRICK』などを監督した人ならではのものだと思う。 
 “ともだち”の真実を知るためには「よげんの書」が書かれた過去が重要。 何があって ともだちの今があるのかが第二章以降を見るポイントだそうだ。 ともだちの配下にある人物達は神出鬼没だ。 追跡力警察並みで、思わぬところに潜んでいる。 ともだちの不気味さはいろいろあるが、今回それを象徴するものとして、印象に残るのが,ホクロの刑事。 恐ろしくもある。 13番(ともだちの配下である囚人)の存在も侮れない。
 “ともだち”は少年時代のまま、大人になったような人物であるが,同時に相当な切れ者で計算力のすごさに度肝を抜かれる。 それには絶対トリックがあると思う。 そのトリックの種はとても気になるところ。 ともだちにまつわるエピソードや謎は次第に見え始める。 まだ全ては明かされず、わからない点が多いが オッチョたちには確実に何かが見えていて、彼らが見えなかった過去に気づき、わかり始めている様子がおもしろい。
 オッチョは年老いてもかっこ良さやするどい眼差しは変わらない。 ケンヂと堅い絆で結ばれている彼はその親友の姪・カンナを守るという強い思いがあり、それが戦うための動力となっている。 だから、体をはってカンナを守る,“運命の瞬間”はすごくインパクトがあり,ハリウッド映画を見ているようだった。 “最期の希望”を失わないために。
 ともだちの過去と真実。 ともだちには謎が多く、神になったとされる瞬間,何があった(起こった)のか。 何かトリックがあるだおる…それも含めて最終章、白いマスクの下が楽しみである。 真実を知らずに得体の知れないモノに頼るしかないという現実の虚しさが恐ろしい。 さらにはメディアの言うことが全てではなく、また真実とは限らないということにはリアリティがある。

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by jd69sparrow | 2009-02-13 13:46 | 映画タイトル な行

007 慰めの報酬

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<イントロダクション>
 MI-6が実在する組織であることを初めて知った。 ジェームズ・ボンドはここに所属する諜報員。 そもそもMI-6とは英国のCIA的なもののようだ。 ただ、システムなどは異なるかもしれないが。
 プログラムにもあるように、“人間ジェームズ・ボンド”という感じで 人間らしい弱さを持つジェームズ・ボンドが『007』の新シリーズである。 個人的にジェームズ・ボンドのイメージとして強いのは、ピアース・ブロスナンが主演したシリーズで、いかにも英国女王に仕える紳士の中の紳士というもので,色気を武器にしているようにも思えた。
 そういった意味でダニエル・クレイグのジェームズ・ボンドは『007』に変革をもたらしている。 これまでのようにエージェントという,色が強くないし、まだ未完成である。 その未完成さが魅力なのだ。 もちろん、敵を追跡したりする実力は充分にあるが、感情に動かされている面もある。 そんなボンドボンドが“007”の称号にふさわしい器となる兆しが見えはじめるのが『慰めの報酬』であwる。

<あらすじ>
 心に傷を負ったボンドはまだ心が癒えきれない。 “復讐”という強い感情に押されながら,荒っぽくも任務を遂行していく。 上司であるMもそんなボンドに手を焼くばかりで、MI-6の問題児(危険分子)のようなものだった。 
 ボンドは任務で悪の組織を追う中で、自分と同じように大切な人の命を奪われ、復讐に燃えるカミーユに出会う。 カミーユとの出会いで…つまり、感情に流されるという欠点を自ら見出し、成長するということ。 
 今回追うのはグリーンプラネットという慈善団体を装うドミニク・グリーン。 グリーンを追うボンドだが、その背後にはある“存在”、そして“新たな謎の発見、そして次回へ”という締めくくりとなる。

<感想>
 コマーシャルにある印象強いアクションを最初に持ってきたのはとてもインパクトがある。 ボンドが本格的にMI-6の諜報員として動きはじめてから二作目である,『慰めの報酬』。 ボンドの門出より,二人目のボンドーガールは『カジノロワイヤル』のクールビューティなヴェスパーは違い、ワイルドさのある,また、荒削りな今のボンドを映し出しかのよう。
 まず、作品の構造として一番印象に残ったのは2つの,それぞれ違った映像を重ね合わせ,ほぼ同時進行に画面に流すという手法である。  片方は背景に過ぎないもの、そしてもう片方ではジェームズ・ボンドが動いているというものである。 これは作品中に箇所にあって、どちらかというと注目すべきは二つ目の方だ。
 一見、無関係に見える2つの映像は実のところ、関連があって“二つ目”の方、つまりトスカというオペラ?のシーンではトスカの中にある様々な場面の強弱に合わせるかのようにボンドの物語も進んでいくのだ。 ちょっと意味が異なるかもしれないが、トスカの方が用例だとしたら,ボンドの方は実例・応用例というところ。
 悪の組織は金と権力ため、大勢の人々犠牲にし、支配するため 頭脳を使い、あらゆる手段に出る。 悪役のその目的が改めて知る事ととなった。 ちなみにそれはアクションものということで、人の命を奪うという狂気に目的が変わるとミステリーやホラーになることも。
 監督マーク・フォースターが語る『慰めの報酬』のテーマは“信頼”。 これはボンドとカミーユの間にも言えそうなことだが、Mとボンドの上司と部下の間におけるものと言った方が適切かもしれない。 それだけにMがボンドのことを初めて“信頼している”と言った場面はとてもよく印象に残っている。
 ヴェスパーを失ったことへの悲しみや彼女のための復讐念を忘れたわけではなくても、あくまで使命を果たすことを感情以上に成し遂げようという姿勢を断固として崩すようなことはしない、命令に背き、そこでMから障害を受けても敵を追うことをあきらめない。 自分の命を惜しんだり利しない。 多少手荒でも与えられた任務は確実にこな。だから、彼女からボンドへ“信頼”という言葉が出たのだと思う。
 今回も主題歌に乗せてアニメーションによるオープニングがとても珍しいし、楽しませてくれる。 『慰めの報酬』ではエキゾチックで、話の鍵ともなる,砂漠が常に背景(色使いもきれいでセクシー)にあり、『007』のオープ二ング=物語のポイントというのが意味が深い(当たり前かもしれないが)。
 人は大切な人を何物かのの手で失ったとき、復讐を考える。 復讐は自ら,自分自身の悲しみを拭い去る慰めかもれない。 しかし、それで何になるのか(どんな報酬が得られるのか)。本当に自分がその報酬が自分を救うのか。 復讐でその相手の命を撃っても大切な人を死に追いやった相手とそんな自分は何が違うのか(同じではないのか)。 いろいろな疑問が湧き出てくる。
 復讐はまやかしで何の意味もない。 早い話、復讐から良いことは生まれないというのが物語のメッセージだと思う。 それをボンドが学ぶのがこの『007』新シリーズ第二作目なのである。 『慰めの報酬』という題の中にはとても深いものがこめられていて、意味が理解できた時,“映画を見た”という実感が湧いた。 “James Bond will return.”というメッセージに期待がふくらむ。

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by jd69sparrow | 2009-02-04 12:00 | 映画タイトル な行

20世紀少年 第一章

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<イントロダクション>
 “終わりの始まり”と謳われる『20世紀少年』は、この言葉を耳にした瞬間、興味をそそられる。 また、新しい発想だと思った。 時代背景は主に20世紀,プラス近未来。 恐怖やアクションならではの迫力がある一方で、1970年代という時代背景が描かれていて、楽しさと懐かしさの両方が一度に味わえる。 それが『20世紀少年』である。 SFアクションと『ALWAYS三丁目の夕日』のような古きよき,時代との組み合わせは言葉で聞くと意外だが、少年時代に空想していたことが未来で現実になるという,バランスがとれていると言えるだろう。

<あらすじ>
 1970年代、少年たちは原っぱの真ん中に秘密基地をつくり、夢や空想を語り合ったりして,友情の絆を深めた。 彼らは“正義が悪を倒す”という話で盛り上がり、そうして空想を楽しむ中で、その空想を形に残した。 それが後に惨劇を生むことも知らずに。
 それから月日は流れ、少年たちは大人になり、それぞれの人生を歩んでいた。 ケンヂは友の勧めで小学校の同窓会へ行く。 そこで持ち上がったのが、世間を騒がしている事件にケンヂたちが少年時代に考えた“マーク”と空想を書いた“よげんの書”が関係しているということだった。
 その後だった。 思いもよらぬことが現実になったのは。 “世界各地で細菌による被害が広まる…”というのは“よげんの書”に書かれていることだ。 “よげん”が次々と現実のものとなり,世界は恐怖に包まれ、ケンヂは戦わざるをえなくなった。 かつての友、オッチョ、ユキジ、ヨシツネ、マルオ、モンちゃん、そしてフクベエという原っぱの秘密基地のメンバーたちを仲間に,“ともだち”と名乗る,“悪”に立ち向かう。

<感想>
 一番印象に残った言葉がある。 「人間、無謀とわかっていても戦わなきゃならない時があるんだ!」というもの。 これはケンヂが少年時代、いじめっ子たちに言った言葉であwる。 その時のケンヂの目は恐れを感じさせない,強く、大切な仲間達への思いが宿っていた。 そんな頼もしい少年が こぶしとなまりの効いた,「いらっしゃいませ」を言うコンビニ店員になっているというギャップがなんともおもしろい。
 話は戻して、そのケンヂの名台詞は、“よげんの書”が現実となった時,ケンヂに課せられた運命的な言葉だ。 また,“ともだち”というリーダーのいる団体により,全ての罪をかぶせられた
ケンヂたちの(少年の頃)友情の印は世界を滅ぼそうという,“ともだち”たちの手に渡っている。 “よげんの書”を書いた責任をもtって、ケンヂたちは立ち上がり,彼らの“友情の印”を取り戻すために、そしてケンヂのもとには原っぱで遊んだ仲間達(つまりは、“よげんの書”と“友情の印”を知る者たち)が集結して戦うわけで、子供時代に友情を深めたみんなが一丸となって戦うというのが素晴らしいと思った。
 自分のところに仲間が続々と集まってくるというのはどんなに嬉しいことだろう。 
 頼りなく見えた主人公が頼もしいリーダーとなり,戦う。 何か特別な力を持っているわけでもなく,仲間達とそれぞれ,己の力だけでもって、力の限り敵に立ち向かうのが、かっこいい。
 “ともだち”の正体や、また,“よげんの書”に記されたことが全て現実となった後に.何が待っているのか気になる。

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by jd69sparrow | 2009-01-03 16:22 | 映画タイトル な行

ナルニア国物語 第二章 カスピアン王子の角笛

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 第一章の公開から三年という月日が経った。 “ナルニア国物語”の新たな歴史の一ページを私達は目の当たりにする。 しかも、全くその姿が変わり,同じ世界であることを一瞬,目を疑ってしまうくらい。 物言うケモノたちが暮らし,豊かな自然に恵まれた素晴らしい国“ナルニア”。 とは言え、前回に負けず劣らずのVFX、壮大なアクション、それぞれ成長しているぺベンシー兄弟…そしてディズニー映画の中で今までにないと言う,男性主人公など,おもしろさが一味違う『ナルニア国物語』がここにある。

<第一章のあらすじ> 
 一年前 ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーの四兄弟は疎開して訪れた(つれてこられた)カーク教授の家の,衣装ダンスを通じて魔法の国・ナルニアにやってきた。 ナルニア国はアスランという偉大な王によって建国された国。 魔女の呪いで冬の国に変えられたナルニアを、“ナルニアの伝説の王・王女”であることを初めて知らされた四人の兄弟たちはアスランたち,ナルニアの民たちと力を合わせ救った。

<第二章のあらすじ>
 その後、自分たちのが暮らす,元の世界と戻った四人。 それから一年。 彼らは再びナルニアへと呼び寄せられる。
 ぺベンシー兄弟が暮らす世界とナルニアとの時の流れは大きく異なっている。 兄弟たちの一年は、ナルニアでは1300年なのである。 一年前、ナルニアに訪れた彼らは、魔女との戦いの後(すぐには元の世界には戻らず)、大人になるまでナルニアをおさめ続けたが、元の世界に戻るとナルニアに初めて訪れたときと同じ子どもの姿に戻っていた、つまり,衣装ダンス入ってから,わずかの時間しか(元の世界では)経っていなかったのだ。
 1300年経ったナルニアはかつての輝きは失われ、魔法の力さえほとんど感じられない。テルマール(戦いの民)という人間たちの国の圧力により,大きな打撃を受け、わずかに生き残ったナルニアの民も希望を失いかけている。 しかし、完全に希望が絶たれたわけではない。 希望の光をナルニアに呼んだのは敵国の王子・カスピアンだった。
 ぺベンシー兄弟とカスピアン王子…彼らの勇気を信じたナルニアの民たちがナルニアを守るため,立ち上がる。

<感想・コメント>
 1300年という長い年月が過ぎ,ルーシーがナルニアで初めて出会った 半神半獣のタムナスさんやぺベンシー兄弟を支えてくれたビーバー夫妻もいない。 兄弟たちはその現実に驚き・ショックを隠せない。 千年以上経っている事がわかっていても寂しいものがある。 しかし、今回も小さな勇者・リーピチープや、ナルニアに再び平和が戻ることを疑わないトリュフハンターなど愛らしい,物言うケモノたちがいる。
 昔は敵どうしであったナルニアの民たちも互いに手を組んで戦い,アスラン不在の中でも全力を尽くすという見所満載だ。 作り手たちが前作とは違うビジュアルを見せるという工夫は、時を経てナルニアの文化が変化していったというふうにも考えられる。
 ピーターなど,主要人物の四人の(前回の旅からの)成長がしっかり,彼らの中に刻まれているのがよく描かれている。 つまりは、前回の旅のあとが彼らの中に残り,留まっているということ。 特にそれが鮮明なのがルーシーとエドマンド。 ルーシーは誰よりも落ち着きがあって,聡明さが増しているし,思慮深さや冷静な判断能力が備わっている。 エドマンドは“正義王”とされるように、まさに,その言葉どおりである。 エドマンドもまた,冷静さが宿り,最初の冒険のときは悪の誘惑に屈したけれど,そんな過去を感じさせないほど大人へと成長している。 常にそういった経験から得た力を失わず,ピーターよりも大人(で冷静)にさえ見える。
 テルマール人の中で数少ない,ナルニアへの思いを持つ,カスピアン。 叔父で欲深き王。ミラースのもとから,逃れナルニアへとやってくる。 ナルニアへ平和をもたらしたいという気持ちを持ちながらも,最初はどこか頼りないように見えるが、その思いは強い。 彼がナル二アの民や伝説の王たちとの出会いを果たし、王としての器を養っていく過程も見所の一つ。
 話は変わるが、今更ながら知ったことがある。 この“ナル二ア国”がある意味で“ネバーランド”のような感じであることと、物語が辿り着く場所・展開である。 いずれにせよ、物語の続きが楽しみだ。

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by jd69sparrow | 2008-05-30 21:47 | 映画タイトル な行

ナインスゲート

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<イントロダクション>
 本には読む人を虜にする不思議な魔力がある。 特に何かの答えが隠され、謎に包まれた書物は。 本は記録であり,物語の世界に誘ってくれるものであったり,謎を解くヒントをであったりする。 表紙は入口であり,門(ゲート)である、また,裏表紙は現実へ戻る出口専用の門(ゲート)。 つまり、表紙をめくることは門を開け,その中の領域へと入るということだ。
 “ナインスゲート”。 それは“影の王国”へ続く九つのゲートのうち、九番目のゲートには他とは違う何かが眠っていて,また,それぞれのゲート何かを暗示させるものが描かれている。 九つのゲートをくぐり抜けた先に待っているものはなんなのか。 これは悪魔の秘密が隠された,悪魔の本をめぐる,命がけの謎解きゲームである。


<あらすじ>
 悪名高く、お金で動く鑑定士 ディーン・コルソ。 彼は本に対しての異常なまで執念を持ている。 コルソは、出版社を持ち,古き書物の収集家であるバルカンから、ある以来を受けた。 それは世界に わずか三冊現存している,悪魔の秘密の書のうち、本物一冊を見つけて欲しいというものだった。 コルソは、多額の報酬を条件に依頼を引き受ける、これから起こる危険を知らずに…。

<感想>
 一つ謎が解けると、人はその先の謎の答えを王。 それも続けば、取りつかれてしまう。 狂気なまでに。 “人は知りたがる生き物”である。 (そして本は人を引き寄せる。) 本に取りつかれてしまえば、正気を失いかけないし,命に関わる危険すら襲ってくる。 本に書き記されたものの価値が高ければ,謎の答えを探すのは一人とは限らないし、本をめぐる戦いすらある。 人の欲と欲のぶつかりあう戦い。 時折、笑いや滑稽さを入れながら、物語は進む。
 主人公は、普段から様々な書を鑑定し、観察力が優れている。 その鋭い目から依頼を全うすべく,コルソは“本の探偵”となり、世界を渡る。 その旅は恐ろしくもあるが,謎が解かれていく楽しさもある。 そして、新品とほとんど変わらないほどの保存状態の本(悪魔の秘密の書)は、コルソの身に起こることをどことなく表しているようである。そして,さらに旅の途中,幾度となく現れる謎の女性。 彼女もまた何かの暗示のようであり、主人公とのつながりを目立たせない。 その瞳は妖しく光り、相手を引き寄せる。 でも、美しさや目、さらにその存在は人間離れをしていて、天使の顔を持つ,悪魔のよう。 “悪魔の書”の話だけにこの本をめぐり,人々が争うことで呼び出された,悪魔のようにも思える。
 本に描かれている版画が謎を解く最大のヒントで、三つの本の細々とした箇所にまで,コルソは目を光らせる。 こういった,何かを示す本を読みたくなる気持ちに駆り立たせる。
 主人公を演じる,ジョニー・デップが語るとおり、“コルソは途中,善人に見え(謎を解くのに熱心な人に見える),最後に裏切ってくれる”。
 物語の最初と最後で主人公で主人公の人柄が変わるというのはよくあるけど、ここでは違う。確かに綺麗にセットされた髪が,旅の中で崩れていくに連れ、人間味が強くなってくるように見えるけど、原点が,というか、全般的に主人公が変わらずにいるということを思い起こされる。 ある意味で期待を裏切らないと言えるかもしれない。 
 衝撃と謎に包まれたラスト。 これは謎が残され,見る人の解釈に託されるが、すっきりとした締めくくりのようにも思える。

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by jd69sparrow | 2008-03-31 00:00 | 映画タイトル な行