カテゴリ:映画タイトル な行( 35 )

ナショナルトレジャー リンカーン暗殺者の日記

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<あらすじ>
 アメリカのラシュモア山に刻まれた,合衆国の四大大統領の一人,エイブラハム・リンカーン。 リンカーン大統領の時代全ての始まり。 この物語の主人公 ベン・ゲイツの先祖,トーマス・絵いつは、ベンと同様,宝のありかの謎を解くことに長けた人物で、リンカーン大統領の時代を生きた人。 それから月日が経った現在、ウィルキルソンという謎の男が持つ,“リンカーン大統領暗殺者の日記”にトーマス・ゲイツの名が記されていたことにより、トーマス・ゲイツはリンカーン大統領暗殺に関わったという疑いがかけられた。 ベンは先祖の無実を証明するため,“日記”を手がかりに謎を探っていく。
 
<感想>
 今回は歴史を探求するベン、その右腕であるライリー。彼らと共に歴史の裏に隠された真実を追うアビゲイルの三人に加え,ベンの両親を巻き込んでのトレジャーハント。 そして先祖に着せられた汚名をはらすための謎解きの冒険。 歴史には多くの謎や奇妙な偶然がある。 未だに一つの真実にたどり着くことなく,続く謎が人々の“それ”に対する尽きることのない関心を呼ぶ。 “なぜ、それをしたのか?”、“なぜ、そうされなければならかったのか?”・・・。歴史に“なぜ”という言葉は数え知れなくある。 そういった謎を背景に物語が展開していく。
 ベンたちは、自らが背負うだろうリスクを恐れず、海をわたり、危険な道を歩んでいく。 謎をとくヒントは世界のあちこちに点在するのだ。 ヒントからヒントへ、ヒントから答えへと辿る道のりは長い。 けれど、そうして新たな手がかりを探し出し、答えへと近づいてくさまと、危ない橋を渡るスリルとがこの映画の魅力だ。 さらに、史実に基づく,謎解きは歴史を学ぶという点で、見ごたえがあるというもの。
 物語の舞台が様々な場所に移されるとということは、主人公たちも,また、観る側にとっても冒険(あるいは、主人公たちと共に冒険をしている感じ)である。 つまりは、景観を楽しみながら、ストーリーも楽しめるということ。 しかも、ここでは歴史的に大きな意味を持つ場所ばかりなのでその冒険物語が充実している。
 個人的に、ジェリー・ブラッカイマーと言えばド派手なアクション映画演出などが印象的なのだが,『ナショナルトレジャー』シリーズではアクションよりもストーリー,テーマを重視した内容だ。とは言え、アクション場面は磨き上げられ,また,こだわり抜いた感があり、映画の隅々までぬかりがない。
 そして、もう一つ付け加えたいのが、主要人物たちの機転のよさ。 それは個人個人のためのものもあれば、チームワークを要するものもあり、そのうち一つでも狂いがあったら、物語は全く違った方向へと傾くことだろう。 彼ら一人一人の機転があるからこそ,スムーズで無駄のない,モノ(作品)になっているのだと思う。

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by jd69sparrow | 2008-01-16 23:31 | 映画タイトル な行

ナンバー23

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 数字には人を虜にする力がある。 それを証明し、リアルに感じさせ,気付かせたのが「ナンバー23」。 作り手が言うように私たちの生活の中には数字があふれており、また,それにこだわりを持って生きている。 占いにはラッキーナンバーがあるし、学校の授業からスポーツ競技などに至るまで順位がつけられている。 1位と10位とでは見方が違うし、数字が上であればあるほど好評価をえるし、自分自身こだわるところもあったりする。 数字が己の価値を上げるとでも言うように。 数は幸や不幸にもなれば競うためのものや結果にもなったりとあらゆる存在になるのだ。 数なくしてはいことが成り立たないと言っても過言ではないくらい。 この物語は「23」という数字にとりつかれれ,狂わされる男(人たちと言えるかもしれない)の物語である。
 2月3日、それが全ての始まりの日。主人公ウォルター・スパロウはその日,妻のアガサと待ち合わせをしていたが、動物管理局員としての彼の仕事が長引いたことにより、待ち合わせに遅れてしまう。そのきっかけはネッドという犬。 アガサと会ったウォルターは近くにあった古書店に置かれていた「ナンバー23」という本を薦められた。 早速、手に取ると 物語の主人公フィンガリングと自分との共通点とたびたびその中に出てくる数字に興味をひかれ、その本の謎を追いかける。 ウォルターは“23の呪い”にかかっていく。
 人は一度疑問に思ったことは答えという目標を達成するまでとことん追及したくなるもの。 時にそれは気が狂わんばかりに人を動かす。それが主人公によって体現されている。 確かに同じ数字が身の回りで重なることはよくあるし、そうして何度も目にすればどんな数字であり、意味があるように思えてくる。 それは数字を出来事や事実に置き換えても同じことが言えるだろう。自分自身がそういう状況であるときに特にそれが(人の目に)どう映るのなんかなんて意識しないと思う。 だから主人公が狂っているようにも見えるのではないだろうか。 物語じたいはフィクションであtっても、現実的な感覚で物語を観れる。 人間の深層心理にせまるサスペンススリラーである。ここで描かれるようなミステリーは現実世界にも多く潜んでいる、そう物語は伝えたかったのではないかと思う。 最後に明かされる真実、これは誰もが予想しえぬことであろう。 衝撃が観る者を待ち受けている。
 語らずにはいあられない魅力であるのが、ビジュアル重視の映像マジック。 吸い込まれるように物語の奥へ奥へと私たちを導いていく。 そこで観客の心をがっしりとつかみ,観客は映画にのめりんでいくのだ。 主人公がそるそうするように謎の答え・その先にあることを、観る者も一緒に追うという感覚。 


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※パンフレットに基づく。
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by jd69sparrow | 2007-11-23 23:23 | 映画タイトル な行

ナイトミュージアム

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 普段は動くはずがないものが動き出す。 例えばもしも子どもの頃から大事にしていた人形がまるで生きているかのように自由にその意志でもって動き出したらどうだろう。 主人公ラリーが勤務することになった博物館の展示物には夜になると動き出す! 聞いただけでもわくわくするファンタジーである。 「ジュマンジ」をふと思い浮かべた。 設定こそ違うけれど普段,人々の生活の中で動かないはずものが人の間近にせまりあばれまわる、それらは時に人とふれあい,時に襲い掛かる。その“動き出すもの”もそれそれ違うという共通点がある。 
 仕事が長続きせず、仕事についてはまた次の仕事を探すという日々を繰り返していたラリー。ラリーには一人の息子ニッキーがいるバツイチであり一児の父親なのだ。 仕事を帰るたびに引っ越しをするという生活を送っていた日々、ニッキーもそんな生活をよくは思っていなかった。
  「んでパパは仕事が続かないの?」。 ラリーはそんな息子の言葉の中にニッキーの寂しさを感じていた。 夢ばかり追いかけていたラリーに現実に引き戻される。 ニッキーのためにもなんとか引越しをせずに今いる場所で仕事を探すことを決意。 そして見つかったのが博物館の警備の仕事だった。 ラリーが働くのは夜。 一見、簡単な仕事のようだったが、その博物館にはある秘密があった。 それを知らないラリーはその秘密をまのあたりする。 その秘密とは夜になると博物館の展示物に命がふきこまれ、自由に動き出すことだった。 動物の剥製や蝋人形など様々な展示物がいっせいに動き出す。 展示物たちと奮闘し、その大変さにそこから逃げ出そうとさまよいながらも夢ばかりを追いかけていて何もできなかった自分がそこで働き、多くを学ぶことで自身が変わっていき,成長する。
 博物館の住人たちには原始人から歴史上で偉業をなしとげた人物などさまざま人物の人形がいた。 そして小さな小人よりも小さい人形たちなどがいるが、やっかいで手に負えない動物の剥製もいるゆえに命の危険さえある警備の仕事に自己の判断でこなし立ち向かうという命がけの仕事なのである。 

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by jd69sparrow | 2007-08-27 01:59 | 映画タイトル な行

ナチョリブレ 覆面の神様

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 幼い頃から強くなることを夢見ていた少年は当時から夢中だったレスリングへの思いを秘め、大人へと成長した。 彼の名はイグナシオ、修道士の中でも少し浮いた存在。 神の僕として働くものには,それをすることを禁じられているレスリング。 レスリングをする者たちは虚栄秦から戦っていると見られているからだ。 そうして禁じられていながらも彼はレスリングをあきらめることはできない。  そんな時,イグナシオが神に仕える修道院にシスターがやってきて一目で彼は恋に落ちてしまう。 そしてレスリングをし、その舞台に立つ夢はイグナシオの中で拍車がかかり、スティーブという相棒をつくり,彼と共に強いファイターを目指すのだ。
 ラテンの街が舞台。 そこではレスリングが普及し、強いものは街の人々から注目を浴び,敬られ,憧れの存在となる。 子供たち,孤児として修道院で暮らす子供たちはそういった者たちに憧れる 。 イグナシオのリング名は“ナチョ”、これは少年時代から心に決めていた名前だった。 
 水色と赤をモチーフにした覆面(衣装)とパツパツのパンツというスタイルでリングに立つイグナシオ(以下、ナチョ)は小さい頃からからの夢をパートナー(スティーブ)と共に少しずつ少しずつ実現させていく。 盗人だったスティーブといつの間にか友情が芽生え、そんな友情パワーとシスターへの思いがナチョを強くした。
 ナチョの少年時代を思い起こせるようで,分身のようでもある少年がいた。 少年もまた修道院で暮らす孤児の子供の一人である。 そこでナチョは少年のためにも,それまで誰かに憧れるだけの自分から,子供たちの憧れの対象となるようその道を目指す。
 ナチョは強くなることが最大の目標。 自分だけのためでなく大好きな子供たちのため,好きな人のため,タブーであることも恐れず,レスリングに没頭していく。 修道院発の修道士レスラーの誕生だ。
 メキシカンな色に染まり,ブラックお得意のユーモアも炸裂し、ほのぼのとしたコメディドラマという味を出している。 修道士を脱げば,とても修道士とはかけ離れた,レスラーをただ純粋に目指している,男なのである。 修道士仲間から中々受け入れらなくても修道院の子供たちに希望をあたえ、夢をかなえるヒーローであることは不変の事実である。
 ナチョは志の違うスティーブ(ちなみにリング名はヤセ)とやがては分かち合い、お互い助け合いながら友情を深めていくのはとても温かい。
 肌の色が違うことで同僚からは冷たく見られていても決してへこんだりはしない。 その姿こそがヒーローなのだ。 そんな前向きな性格なナチョ,それを演じるジャック・ブラックとが見事にマッチしているように思う。

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by jd69sparrow | 2007-07-30 11:40 | 映画タイトル な行

ニューヨークの恋人(二回目)

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 運命の相手や自分が心から求めていた人は人が人生を歩む中で訪れるものなのだろうか。よく恋愛ドラマでそういった言葉は出てくるけれどそこで理想とされる運命の人との素敵な出会いというのはごくまれなことなのかもしれない。 だけど恋愛にしろ,友情にしろそれぞれの運命の糸がどこか交わるからこそ出会いがあるわけで人生を共に生きるのにも同じことが言えると思う。 運命の人、それはいつどこで出会い,お互いはどんな時を生きるのか。 そういう出会いができたとき、奇跡,信じられないような不思議なことにめぐり合えることもあるだろう。 その出会い自体が奇跡なのだから。
 1876年、ニューヨーク。 レオポルド公爵はブルックリン・ブリッジの式典の場にいた。 親戚に結婚相手を決めるようせまられていた。 レオポルドの屋敷でのパーティーが行われる中,怪しい男を見かけ,レオポルドはその男を追いかけた末,未来へタイプスリップしてしまう。 怪しいのその男の名はスチュワート。 スチュワートは現代社会の人間。 未来と過去をつなぐもの,時間の裂け目を探し求めていたのだ。 レオポルドは自分がいた世界とは全く姿・形の違うニューヨークを目の当たりにし、ケイトと出会う。 ケイトはスチュワートの隣人。 そして仕事に生きる仕事人間。 彼女には心の落ち着ける場所、心をゆだねられる人はいなかった。 レオポルドとケイトの共通点はそこだった。 まわりに人がいても“独り”だったのである。 恋愛をすることもほとんどあきらめ仕事に没頭するケイト、紳士に重んじるレオポルド、相反しているように見える二人はしだいに恋に落ちていく。
 違う時を生きる者どうしの恋愛。 異なる時代を生きている二人、価値観が違うこともあれば共通なことだってある。 様々な時代に生きた作家たちが彼らの思う価値観を書き連ね,物語を描く。 全く異なるようで現代につながる,あるいは現代と共通の筆者たちの考えがあったりする。例えば「高慢と偏見」で描かれる恋愛感は現代とそう変わるものではないだろう。違う時を生きるものどうしであっても出会えたことには何か意味がある。 それは「運命」と言っても良い。 ケイトとレオポルド、お互いがそれぞれの時代には決してなかったものをお互いに見出し,心・気持ちのどこかで共鳴することができたのだ。 一度つながった運命の糸は離れることはない。
 レオポルドは自分が生きていた時代の数百年後のちょうど同じニューヨークにやってくる。 時代がどんなに変わり,また姿を変えようとも変わらず,そこにあるものを目にする。 ブルックリン・ブリッジ。 過去から未来、変わらないその橋が,その下を流れる川が,未来と過去をつないでいるだなんて素敵なことだろう。 ブルックリン・ブリッジがケイトとレオポルドを引き合わせ,二人の運命の糸を重ねた,恋のキューピッドといっても過言ではないだろう。
 時代が変わってもそこにありつづけるというのはとても素晴らしいことである。 もしマリー・アントワネットが現在にやってきてベルサイユ宮殿を見ても,あるいは豊臣秀吉が現在にやってきて大阪城を見ても(戦国の武将たちが今ある城を見ても),改装などがあったとしてもきっと感動することだろう、と私は思う。 もしタイムスリップができたとして自分が未来の世界に行って,自分が生きる時代で慣れ親しんできたものがそこに変わらずあったとしたらやっぱり感動するだろう。 未来に生きる人々にとってはそれが当たり前にそこにあるものあって何も思わないかも分からないが。 しかし歴史を振り返り,そのものがどうやってできたのか、その作り手たちのどのような努力があったかを知るべきである。 そうすることでそのものの素晴らしさを理解することもまた素晴らしきことなのだ。

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by jd69sparrow | 2007-06-20 16:42 | 映画タイトル な行

NANA2

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 二人のNANAは偶然同じ時刻に同じ電車でめぐり合った。 正反対な二人だったがお互いの恋を励ましあい、友情をはぐくんでいった。 ナナは人なつっこいけど世話がかかる奈々(以下ハチと表記)の性格から彼女をハチというあだ名をつけた。 ハチにとってナナは光のような存在でナナの放つ光の中で生き,その光をずっと浴びていたかったのだろう。 そしてナナは薄暗い心の中に奈々によって光を灯されたかのように彼女が人を見る目や心を開く勇気をもらい確実に心が変化していった。 ナナはブラスト(=ブラック・ストーンズ)というロックバンドのボーカリストとしてプロを目指し,ナナが思いをよせるレンがいるプロとして既に活躍しているトラネスを越えること目標として掲げ、夢をかなえることを強く望んでいる。 ハチはそんなナナを応援しともに夢をかなえようと心に誓っていた。 今度の“NANA”は二人のNANAに大きな変化が起きる。 それは突然でどんどんとめまぐるしく変わっていく。 ナナのプロデビューとハチの新たな恋の進展である。
 夏、七夕の季節ブラストの面々とハチは短冊に願いを書きとめていた。 彼ら一人一人に夢があり、共通の願いはプロとなり新天地を切り開くことだった。 ブラストはインディーズとして活躍を続けていて,そこに一つの希望という光が舞い込む。 それはレコード会社からのメジャーとしてデビューをすることができるという知らせだった。 彼らにとって何よりの希望であるプロとしてステージを踏む機会がやってきたのだ。 ナナたちは急ピッチでそこまでの道へと進んでいく、しかしその一方では寂しさを感じるハチがいた。 寂しさのつのる一方のハチだったが,憧れていたトラネスのメンバーの一人タクミとの距離が一気にせばまる。 友情を深めてきた前回の「NANA」とは違い,二人のNANAのすれ違いをも描いている。 
 大きく変化をとげていくブラスト、そんな中でナナとハチはお互いがお互いにとって大事な存在であるという思いを持っていながらも友を思う気持ちがすれ違ってしまう。 本当はどちらにとってもお互いが大事な存在で決して切れない友情の絆で結ばれているはずなのにお互いがお互いを見る目、思いが相手に届かない。 だけどどんなことが起きてもその相手を思う気持ちだけは変わることはなかったのだ。 ナナはハチにとって手の届かないところへどんどん登りつめていってしまう、ハチは寂しさのあまり少しずつハチの中のバランスがくずれていくようになってしまう。 人を信じることのできなかったナナは初めてそこから抜け出し友との問題にぶつかる。 どうしたらいいのかわからないでいる。 登場人物一人一人が複雑な思いを抱え,それを乗り越え前へ進んでいく。 思い悩んだナナは自分の行き着いた先を歌にこめ、ハチはナナの出した結論の気持ちがこもったその歌をナナが伝えたい友への思いを聞くかのようにナナの歌声響く光の中で立っていてる。ナナが最高に輝くその空間の中で、確かにハチはその光をあび,確かに同じ場所にいた。
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by jd69sparrow | 2006-12-29 19:18 | 映画タイトル な行

NANA

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 同じ日、同じ時間,同じ電車に居合わせた二人の“NANA”。 名前も歳も一緒で偶然が重なりに重なったちょっと素敵な二人の良き友の出会い。 漫画が原作で本当の歌手が歌手の役をやり、プロを目指すバンドのボーカリストの役と、そんな見所もある実写版・映画「NANA」は2005年に公開された。 二人の“NANA”のそれぞれの物語、恋をして,つらい思いをしてそんなドラマがある作品であり、NANAたちの友情を描いた物語。 性格やタイプも違う二人だけど不思議と通じ合うものあった。 だから二人の出会いは偶然ではなく運命だったのかもしれない。 二人は友であり、姉妹のようでもあった。 
 ブラストというバンドのボーカリストとして仲間のレン、ノブ、ヤスとで雪ふる大地のもとで旗をあげていたナナ、彼女はプロとして頂点に立つことを目指している。 もう一人の奈々は恋をただ純粋に楽しむ女の子で、思う人を追って上京してくるほどの一途な人。 そんなNANAが列車の中で出会うことによって全てが始まる。 二人は部屋も同じ“707(なな)”の部屋で共同生活をすることになった。 ナナは心に秘めた思いをかかえながら今はプロとなり遠くはなれた存在になってしまったレンを越えることを目標に前へ突き進もうとしている、奈々は思う人を追ってわざわざ彼のいるところへとやってきてしまうような献身的な女の子らしい女の子でいつも思う人,章司に思いそそぐ。ナナから“ハチ”という名をつけられる。二人にはそれぞれ目的を持っている。
 ハチはナナと初めて会ったその日からのナナとの友情の軌跡をふりかえり友から授かったもの、自分の進むべき道を見つめる。ハチはナナとの出会いで先への目的を持たなかった自分に目的を持つようになる。 ハチにとってナナといつまでも近くで肩を並べ、一緒に笑えることが一番の幸せだったのだと思う。 またナナも友情からくる温かさを知るのである。 自分に正直ではないナナはレンへの思いを心の奥底に残していた。 ナナはハチから自分に素直になれるきっかけをもらったのかもしれない。 ナナは閉ざしていた心の扉を開くのである。
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by jd69sparrow | 2006-12-27 00:53 | 映画タイトル な行

南極物語

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 南極は雪と氷の大地、見渡す限り白の世界。 氷点下が極めて高い、南極の氷にも季節がある。 氷が厚いときもあれば薄く,危険なときもある、さらにブリザードが生き物を凍えさせ、雪の嵐のまえでは人も無力、自然の力には人の力は及ばないことと思う。 主人公ジェリーは一年のうち半分をそこでの生活などに費やす。 南極にある基地には数人の人たちがいて彼らは南極の様子を見守り,常に危険がないかを把握する。 氷にある程度のあつみのある場所には訓練された犬たちの存在は不可欠である。 南極の季節は変わり、南極では最も厳しい季節,冬が訪れようとしていた。 八匹の犬とまわりの人間たちの話で人間模様と犬たちの寒い地で生き抜いていく記録をつづっている。 
 南極で仕事をするジェリーには八匹の犬たちという大事な存在があって彼は彼ら犬たちの力を借り仕事をすることもあった。 犬ぞりである。 氷の多い南極の地で遠出するのにはいくつか手段があり,そのうちの一つがそれである。八匹の犬たちが元気よくそりを引っ張り、ジェリーの運転により走り続ける。 彼の合図で犬たちは走り,立ち止まったりする。 犬たちは忠実だった。 南極の冬もさしかかったとき、雪の嵐の影響で南極の基地を離れることを余儀なくされたジェリーやその仲間クーパーたち一行は自分たちにつくしてくれていた犬たちをおいて南極をたたなけえればならなかった。 しかし、南極を離れ大地につくと南極へもどることが困難となり、おいていった犬たちを連れ戻すこともまた困難とされた。 リーダーであるマヤをはじめとする犬たちは寒い地に事実上おいてきぼりということになってしまう。 彼らをなんとかして連れ戻したいジェリーと取り残された犬たちの長きにわたり人間抜きに行きぬいた軌跡の物語である。
 大好きな犬たちを連れてくることのできなかったことを悔やむジェリーがその現実を受け止めることに格闘し、彼らを連れ戻すことを必死で願ったその人間サイドの物語、そして取り残された犬たちが主人たちの帰りを思ってか、自分たちだけの力で生き抜いていこうという姿勢とが描かれていく。 ジェリーには後悔の念が消えず、癒えない傷のように彼の中で彼自身を苦しめた。 その一方で八匹は気力を失うことなく生き抜いていく。 犬たちにはセリフがないのは当たり前であるが、言葉なくとも語らえるものがあるように思えた。 彼らの行動一つ一つと表情が言葉を発しているかのようで、無言で語っているかのようだった。 置き去りにされても人と人とが励ましあい生きていくように彼らもまたお互いを励ましあう、その風景はとても温かである。 励ましあう言葉が聞こえてきそうなのだ。 犬たちを置き去りにしてしまった人間たちの後悔と犬を思う気持ちといった内面的な部分と必死で生きる犬たちの感動な物語。
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by jd69sparrow | 2006-12-25 01:25 | 映画タイトル な行

ナニー・マクフィーの魔法のステッキ

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 7人の子供と一人の父親の物語を描いたのが「ナニー・マクフィーと魔法のステッキ」。 言い換えるとこれは頭は賢いがいたずらばかりで行儀知らずの子供たちに四苦八苦する父親の話。 彼ら家族のもとにやってくる謎にみちた新しいナニー(ベビーシッター)は子供たちに大事な教えを伝え、子供たちに学ばせるためにやってくるどこからかやってきて突然目の前に姿を現す、魔女のようなミステリアスな部分を持ったナニーが悪ガキ7人とどうわたりあっていくかだ。
 ブラウン氏には7人もの子供がいる、しかし彼一人では養いきれないほどの数の子供たちで、しかも手に負えない。 人からの援助なしでは生きていけないのだ。 何度もナニーを頼むがそのたびに失敗に終わる。 それは子供たちの手によるものである。 ある日ナニーの紹介所で“マクフィー”という名のナニーを紹介される。 マクフィーの正体は謎につつまれているゆえどうコンタクトをとっていいかもわからない。 だがブラウン氏にはマクフィーの存在が必要であったのだ。 子供たちは父親の言うこともまとも聞かず大暴れ、ブラウン氏が困り果てていたその時、マクフィーは現れた。 その容姿は恐ろしげで不気味であったがただものではない空気が彼女のまわりただよっていた。 新しきナニー,マクフィーはブラウン氏に「子供たちに5つのことを教える」と伝え、子供たちには「必要とされる限り、例え嫌われてもここにいる。 必要とされず、役目が終わったときなんと言われても私は去ります」とだけ告げた。
 大人に対し,いつも勝気だった(子供たちのリーダー)サイモンをはじめとする子供たちはいつもように追い出す作戦に出るが彼女には中々たちうちができない。 マクフィーはミステリアスではあるが彼女の子供たちに対する目はまるで親が子を見るかのような優しい目であった。 強い姿勢で押しつけることはなく、いつも穏やかなマクフィーだが決して甘くはない。 マクフィーの施しにより、子供たちはだんだんと成長してく、そして大人を見る目も変わっていく。
 ブラウン氏、子供たち、マクフィー。 何らかのカタチでそれぞれに変化が訪れる。 マクフィーにおとずれる変化というのはおとぎ話特有のものであるように思う。 それぞれの変化というのは同じ並行線上にある。 変化というのは目に見えるものであったりそうでないものだったりもする。 そして時には中々気づきにくいもので合ったりもする。
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by jd69sparrow | 2006-12-10 01:44 | 映画タイトル な行

2046

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 1960年代のことである。 一人の男はある光景を思い描いていたのであった。 「2046」。 それは人が失くした記憶を探し求めに行く場所。 秘密を持った者たちは木のある場所へと行き,そして木に穴をあけてそこに向けて秘密を告白し 土でその穴をふさげば秘密は永遠に誰の手にも渡ることもなく,知られることもない。 男は「2046」を出た。 「2046」へ行く人はその心しだいで「2046」から戻ってくることもそこに留まることもできる。 それはそこへ行く者へ突きつけられた選択肢なのだ。
 チャウ(トニー・レオン)は新聞記者、しかしマジメな彼も“遊び”を糧に一日一日を生き始める。関わりを深く持つことははく 楽しみはほんのひと時に過ぎず、その時が過ぎれば再び現実へ戻され 長く恋をすることもない主人公。 利点もその逆もある。 チャウはたびたび誰かから好かれ、誰かを愛す。 相手の時間を自分の時間を代償にし,その時間を手にするように。 優しいけれど悲しい男であると思った。 
 「2046」という数字はチャウにとって特別な数字だった。 “終わり愛や恋が始まり,別れも告げる”。 チャウは,とあるホテルの住人たちと交じり合う。
 小説を書くチャウ、彼は一つのSF小説を書くため筆をとった。 日本人の姿で主人公と重なるチャウ,彼の愛した女たちがそこにはいた、ただし 本物ではなかった。つまりチャウに行きとどまることのない恋、届かない想いが彼の描く物語の中で反映されていたというか代名詞のように,確かに彼がそこにいた。
 壊れかけたオルゴールのように物悲しさがこの映画にはあった。 しかしそのものの姿,世界観はつばきの花のように綺麗である。
 トニー・レオン、チャン・ツィー、木村拓哉をはじめとする面々が揃った。 木村拓哉という日本の役者が中国の中に溶け込む。 「2046」の列車に揺られる男の姿が印象に強い。 そして日本人の姿チャウが愛する人とそっくりなアンドロイドにアプローチするシーンもまた同じように心に残っている。
 三人の役者たちがその実力を競うかのように,それぞれの演技のすごさはただ者ではないし、斬新でもあった。
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by jd69sparrow | 2006-07-02 14:22 | 映画タイトル な行