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プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂

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<あらすじ>
 その昔、ペルシャ帝国が栄えていた時代のことである。 王の一族が街を通り抜け城に行く最中、彼らの乗る馬に飛び出してしまった友人を,恐れを知らない少年が救い出し,王の部下たちに追われるも見事にその隙間を通り抜け,勇気ある行動に出た。 それを見たペルシャを治めるシャラマン王は三人目の息子,王子として少年を受け入れた。 15年の月日が過ぎ、戦士として立派に成長し,王子となったダスタンが二人の兄と共に戦の道中にいた。 
 聖なる場所と呼ばれる敵国アラムートで勇ましい活躍をみせたダスタン。 アラムートの王女タミーナを連れ、また不思議な短剣を手にしてペルシャへと帰還。 安心も束の間、勝利の祝いの最中,ダスタンは父親殺しの濡れ衣を着せられてしまう。  タミーナとなんとか逃げおおせたダスタン。 その手中にはしっかりと“あの”短剣が握られていた。 それはただの短剣ではなく,その中に入った砂の力と剣が連動し,触れたものが時を遡ることのできる魔法の力を持っていた。 それは“時間の砂”。 この短剣をめぐり,物語は大きく動き…そして真実へとダスタンたちを導いていく。

<感想>
 良き監督とプロデューサー…作り手たちが揃って初めて魅力あるエンタテインメントが出来るのだなぁとつくづく実感した。 良き船長の腕でクルーたちは力を存分に発揮するとも言える(…って偉そうなことを言える立場ではないが)。 とは言え、一つの作品が面白いと言われるかどうかは,運まかせと言えばそう。 「あの~のスタッフが!」と謳われても結局はそこなのである。 しかし、最近ではその作品が良し悪しは そう簡単に判断できるものではない。 というのも、楽しみ方が一つではないからだ。 ストーリーが一番重要になってくるけれど、それが受けがよくなくても 違う視点で、ある一点を見て,その作品を魅力的だと思うこともある。 完成度の云々は置いておいて、ここが凄い!ということろがあればイイ。 恐らく作り手からすれば「伝えたいことが伝わればいい」と考えるかもしれない。
 けど、そのジンクスはなくエンタテインメントを楽しめたのがこの『プリンス・オブ・ペルシャ~時間の砂~』なのである。
 今回話の舞台になるのがペルシャ。 現在のイラン。 城下町は映画『アラジン』の世界の如く美しく、城下町の奥にある宮殿がとても映える。 パンフの中のコメントにあるように主人公もアラジンのようなキャラクターみたいだし.雰囲気としても『アラジン』の世界に通じるものがある。 アラビアンな音楽がいっそう盛り上げる。
 作り手が言うように、今まで(または、しばらくの間)取り扱われなかったトピックを映画にするという点が映画が面白い理由の一つと言える。 期待していた以上に楽しませてくれる。
 アラビアンな世界ともすると砂漠は切っても切れない因果関係として登場する。 砂漠が画面に映っていなくても (サブタイトル関係なく)砂のイメージは消えることはない。 砂漠は人から水分を奪うけれど、それでも美しい。 海や山がそうであるように、砂漠も…砂漠の砂も良き面と恐ろしい面の二面性を持っている。 “時間の砂”が短剣を持った砂の残像をゆるやかに残しながら時間を巻き戻してくところが砂の美しさを物語っている。 砂はただ美しいだけでなく、数々のスタイリッシュなアクションをより良いものへと演出するという重要な役割も担っている。
 しかし、なんと言ってもアクションは迫力満点。 やはり壁を伝ってのスタントはとても印象深い。これはフランスの“パルクール”なるアクション・テクニックだそう。 『アラジン』のゲームを実際に体現しているかのようなスタントが目白押し。 建物から建物へと飛び移ったり、ダイブするかのように高いところから飛び降りるアクションがあったり…スピード感のある映像の中にそういったアクションをわずかの時間のストップモーションのように美しく描くところが見る者の目をひきつける。 随所に散りばめられた前後と異なるこの,特殊な時間の流れを作るという演出は、素晴らしいと同時に絵になるくらい綺麗。 ポストカードの,あるいはパンフレットで紹介される名場面としてふさわしいところがモリたくさんだ。
 こんなアクション満載な映画ともなると、特に主人公の肉体美を「どうだ!」ってくらいに見せる場面があるがこの作品についてはそういうものがないのがいい。 ここではウリではなく、背景なのだ。 『パイレーツ~』シリーズでもそう(ヒーローがガリガリだったら違和感があるけど)。  今回の作品も映画を見た後にこんなに凄かったのか!と気づかされたくらいだ。
 アクションの見所はやっぱりアクロバットなアクションである。 時に頭を使いながら剣をふりかざし、体を張ったアクションだったり…するのはダスタンだけでななく、王女もそのような活躍場面があるそい、何より小悪党の商人が信頼する,部下であり 剣を投げる名人でもある右腕的な戦士の見せ場があるということに注目していただきたい。  最初は主人公の敵としてダスタンの目の前に現れ、(主人公に)命を救われたことでその恩を返すべく戦うというのが意外だった。 小悪党の商人の仲間でありながら 実は悪い人間ではないという事実に心温まる。 さらに、主人公が体験していてもおかしくない。1対1の緊迫感あふれるバトルシークエンスが主人公意外,しかもメインキャラクター意外の人物にこういった見せ場がある事が驚きと同時に嬉しいところ。
 ここがピックアップされるのは、大切な場面をつなぐパイプだったからだろう。 しかも、彼は最後の最後までその腕は衰えることなく,自分己やるべきことをまっとうするのだから凄くカッコいい。 しかし、見事敵を撃破!とほっとする気持ちもあるが… 主役級の名場面でもある。
 数々のアクションもさることながら、個人的に注目したいのが“衣装”である。 例えば兵士のスタイル。 いくつかあるけれど、その中でも軍隊の甲冑スタイルはロシアやモンゴル、アジアのような印象を受けた。 衣装は舞台となる時代のイメージで作られると思う。 文化はその国に歴史上、関わりのある他の国の影響もあるはず。特に戦争によって支配されれば、支配した側の文化が支配された方に取り入れられる方法で。 そうすると、出来事・事件の歩について興味がわく。
 この映画の中で、一番(衣装的にも)目をひきつけるのが主人公の衣装である。 作品鑑賞中から、「もしや」と思っていた。 主人公と言えど、ここまでエキゾチックでカッコいいスタイルは、ジャック・スパロウのファッションでその実力を見せ付けた“その人”しかいない。
 今まで肉体派のイメージがなかった.どちらかというと繊細な作品のイメージの強い(個人的な印象だが)役者にその個性を失わせる事無く,演出された数々の衣装がとてもファッショナブルだ。 あるときは、ウォーリヤー(戦士)、あるときはラテン系ガンマンを彷彿させるファッション、またあるときは「SW エピソード1」にあるオビワンたちの最初の登場場面でのスタイルを連想させるものだったり…。 中でも光っていた…というか、メインスタイルと言えるのが、赤いストールのようなアイテムが取り入れられたスタイル。 赤いストール?はジャック船長のバンダナを連想させられた。 よく見ると、ダスタンの髪にジャック船長の赤いバンダナとセットになってる飾りを思わせるようなアイテムがあったりもしたのが,良かった。
 今風のスタイルが取り入れられているけれど、時代設定の中で違和感を感じないし,“衣装”っぽくなくて、オシャレなファッションとしか言いようがない。
 アクションで、ヒーローの“冒険活劇”で、代わる代わるファッションを楽しめるのは実に珍しい。 そして、その衣装はキャラクターの個性がよく出ている。 こんなにカッコいいスタイルで様々なアクションがあるのだから素晴らしい。
 ダスタンは元々、貧民街で暮らすストリートチルドレンで、当時から仲間思い。 仲間の危機を救うためならば、命を捨てる覚悟で守るという人間の良さが,そんなバックグラウンドがあってか 大人になってもその時の面影を残していて、二人の兄弟たっちとは素質が違う。  王子らしくないけれど、その精神は王にふさわしいものがある。 それは兄弟達の心を動かすほど。 
 ダスタンを敵として追う兄弟達だけど、実は二人の王子ともに優しい心を持っていて、ダスタンは彼らと血はつながってないけれど、三人みんなが血をわけた兄弟そのものだ。
 王室に迎えられても 権力におぼれることもなく、力を自分ために利用することもしない。 潔白を晴らそうとするのは唯一、自分のためとも言えることだけど、それは欲望ではなく、人に平等に与えられた権利である。
 現代、世界・国をまとめるトップにあって欲しい精神だ。 “国をまとめる追うはまわりの助言を聞き、良き国づくりをするべき”という感じの,シャラマン王からタス王子(ペルシャの王の長男)にかけた言葉は、とても心に響く。
 色んな作品などから意図的なのか、そうでないのかインスピレーションを受けているよう…と解説にある。 様々な要素が入っていると考えると、よく考えられた作品なんだなぁと思う。 そして、解説で述べられた内容で初めて知る事ばかりだ。  毛利元就の“三本の矢”、『ライオンキング』が『ハムレット』の中のエピソードからインスピレーションを受けていて,それは『プリンス~』でお同じものがあるということ。 それは、物語を動かすキーポイントだったりする。
 ペルシャにはペルシャの言葉があっただろうけど、作り手が英語圏なら,その作品も英語になる。 作り手の狙い通り、アメリカ英語ではなく、イギリス英語がこの作品に使われるのは。元々の言語(ペルシャ)が英語でなくても イギリス英語はリアリティがある。 主人公だけがアメリカ出身だったりするのはアメリカ映画だからだろうか。
 リアリティに満ちた人間模様が描かれるところを見ると、フィクションだけどノンフィクションに感じさせる物語という評価は大いに納得できる。 “時間の砂”はとても魅力的だけど、作品全体から見ると 鍵ではあるけれど、そこが物語を見るための焦点でとは違うと思う。
 不思議な力を持った宝は、人を惑わせ,狂わせる。 ダスタンはその魔力におぼれる事こそないが、どうしても時を巻き戻して,無実を証明したかった。 けれど、様々な事実を知り、いつの間にか 時間の砂を使うことよりも、邪悪なたくらみかを阻止し、民を守ることだけを考えるようになっていったのがとても逞しくて、カッコいい。 結果としては、“時間の砂”の力に助けられる事になるのだが、本当にやるべき事や果たすべき責任、そして大切なものを知る…ダスタンの成長物語に感動だ。
 エンタテインメント性が高く、映画という世界につかりたい!…という時にオススメだ。  
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by jd69sparrow | 2010-06-02 00:26 | 映画タイトル は行

プリンセスと魔法のキス Disney The Princess and the Frog

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<イントロダクション>
 21世紀。 時代は3Dアニメーションが主流となり、人々を魅了している。 それは画面から登場人物が飛び出したり、画面に奥行きを出すなどリアルなエフェクトだ。 しかし、手書きアニメーションの良さを忘れてはならない。 3Dなど最新技術にはない、温かさがある。 時間をかけて熟成されたワインのように味わい深く、キャラクターたちの動きも柔らかい。 手書きはディズニーとジブリ作品の伝統だと私は思う。 この二つに勝る者は中々無いだろう。 
『プリンセスと魔法のキス』は『カエルの王子』の物語を材料にディズニーが新たに生み出した,オリジナルストーリーだ。

<あらすじ>
 1920年代、アメリカ ルイジアナ州ニューオリンズ。 伝統的音楽発祥の地。 ティアナは貧しい家柄に生まれながらも両親の愛に恵まれ、温かい人々の中で暮らし,幸せな日々を送っていた。彼女の特技は父親ゆずりの手料理だ。 ティアナの夢は父親の果たせなかった,レストランを開くことである。大人になってもその夢を持ち続け,時間を惜しまずレストランのための資金を稼ぐ毎日を過ごしている。 ある日、ニューオリンズの街にマルドニア王国の王子 ナヴィーン王子がやって来るというニュースが流れた。 王子は自由気ままで、音楽やダンスを楽しむ遊び好き。 せっせと夢のために努力し,働くティアナとは正反対。
 ナヴィーンは ドクターファシリエという怪しい男の誘惑に乗り,カエルの姿にされてしまう。王子でありながら,手持ちのお金がないナヴィーンは 裕福な家の娘との結婚をするしかない。 そのチャンスを目前にしている今、一刻も早く人間に戻りたかった。
 ティアナは彼のために開かれた,シャーロットの家のパーティに料理を振舞うために招かれていた。シャーロットにドレスを借りて,バルコニーにたたずむ彼女の元に,一匹のカエル。 カエルは人の言葉を話し,自分とキスしてくれと言う。 そのカエルはナヴィーンだった。 ティアナのキスで王子に戻れると考えたナヴィーン、キスと引き換えに夢を叶える手伝いするという約束を信じた,ティアナはナヴィーンとキスをするが… ナヴィーンと同じカエルの姿になってしまう。ドクター・ファシリエの野望の影が迫る中、カエルになった二人は冒険へと旅立つ。

<感想>
 恐らく日本のアニメの9割がたはCGなどの最新技術が駆使されたクリアなカラーによるものだろう。 コンピューターで色を塗ったり、CGで作られた映像を合成したりするなどといったもの。 それは日本国内のみならず、海外でも言えることだろう。 そんな今だからこそ、手書きの良さがすごく良く伝わってくる。登場人物が描かれる曲線も丸みをおびているし、色の質感も手書きだと濃厚な気がする。 しかし、本作はそれだけではない。 90年代やそれよりも前の時代のディズニー作品にあった,ミュージカルタッチの作品構成が見事に復活している。 アニメーション本来の魅力がここにあると言っても過言ではない。
 ヒロインや王子もこれまでにないキャラクター性を持っている。 ティアナは夢を実現させるために何が必要で,何が大事なのかを知っている。 目標に向けて努力を怠らず、時間を惜しむことなく,日々働く自律した女性。少しずつ上がっていく成果を大事にするひたむきな人。それこそが本当のヒロインだと思う。現実的だ。 そんなティアナを支えるのが父親が夢にかけた情熱と家族への愛。父親の夢はいつしか娘の夢となり、その娘は夢が現実になるその日まで,ロマンティックな恋や青春を追うことなく、その道のりを足を緩めず歩くのだ。 これから社会に出る人、また今働く女性が憧れるであろうプリンセスである。
 王子と言えば、紳士で白馬に乗ってプリンセスのもとへ優雅にやってくると言う個人的イメージがある。 ナヴィーンは雄弁で派手好きという性格だけとると王子というよりも、過去のディズニー作品に登場してきた,ヒロインに恋するも破れる男たちを連想させられる。悪役で言えば、ガストンだし,そうでないとしたら『魔法にかけられて』のエドワード王子の雰囲気を漂わせる。しかし、ちょっぴり不器用な優しさは『美女と野獣』のビーストのよう。
 ディズニーの伝統を多く取り入れつつ、新しい切り口で物語を展開するなど,ディズニーアニメの新旧が同居している。
 物語の設定など全然違う話なのに何故か、いくつかの場面で私は『ライオンキング』を連想させられた。 製作者が言うように音楽の構成がまずそうだ。 物語の始まりは『美女と野獣』の冒頭シーンのようだが、主人公が夢を語り,歌う場面はシンバが王になる夢を語る場面のよう。 キャラクターで言えば、ママ・オーディがラフィキ、レイがティモン、ルイスがプンバァだ。 これまでディズニーに登場してきた魅力あるキャラクターのスピリットがこの新たなディズニー作品に引き継がれている。
 既存の物語をベースに,この映画のように作り手のオリジナルストーリーに築き上げるというのはとても面白い。 今後も名作を新たな切り口で表現されていって欲しい。 『プリンセスと魔法のキス』の場合、元ネタの作品の時代設定とは異なることも良い。 プリンセスものアニメでは珍しい近代の世界なのだ。 しかも、ミュージカル仕立ての本作の舞台がニューオリンズというところにも魅力があり、また 大きな意味を持っていると思う。 音楽に満ち溢れたこの街に行きたくなってしまうことだろう。
 冒頭に書いたようにジャズ発祥の地と知られるニューオリンズ。個人的な話をさせていただくと、この街を印象付けたのは『インタビューウィズヴァンパイア』である。 歴史ある街並みが幻想的に描かれているところがあるのだ。 ニューオリンズは、音楽と歴史の街なのだ。これも製作者の言葉で知ったのだが、ニューオリンズは他のアメリカの地域とは全く違う異国オーラを放つ街。是非行って見たい。 この『プリンセス~』では、この街の人々や歴史、音楽と様々な視点から魅力を語っている。
 男女が結ばれて めでたしめでたし、と終わるのではなく 実写映画で見受けられそうなどちらかというとサクセスストーリー的な締めくくり。 意外な展開で結末を迎えるのがとても楽しい。 なるほどな、って感じにティアナとナヴィーンの二人が幸せをつかむ展開も従来のディズニーにはない。
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by jd69sparrow | 2010-03-09 17:06 | 映画タイトル は行

バレンタインデー

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<あらすじ/概要>
 一年に一度訪れる,恋人たちにとって特別な日。バレンタインデー。15人の男女はそれぞれの愛を確かめ合う…。 境遇の違う人たちが老若男女の人々がそれぞれのバレンタインデーを楽しむ。たった一日しかない,その日には人々の様々な思いが行きかうのだ。 バレンタインデーが“愛を確認する日”と呼ばれるように、ここでは15人が本当に大切な人を発見したり、確認したりする話である。 バレンタインデーは人それぞれ,かける思いが違う。特別に思う人、またこの日を嫌う人などなど。 “バレンタインデーは皆が主役”。 15人の主人公たちの話がリンクする心温まる。ほかほかな映画である。

<感想(解釈)>
 バレンタインデーに女性から男性へチョコレートを贈るという習慣が日本独自のものだという事実は知っていたけれど、欧米では男性から女性へ花などの贈りものをする日という,日本とは全く違うスタイルだということに驚いた。ここで思ったのは「バレンタインデーを舞台にした恋愛モノ」という単純なくくりにしてはならないということ。 見終わった後に解説を読み、思い返してみると確かに男性が皆、告白をしたり花束を贈っていたりしていたなぁと今更ながら気付く。 その単純なくくりで見ていたの自分が甘かった。 
 バレンタインデーの習慣を知ったとき、七夕を思い浮かべた。織姫と彦星が年に一度再会する…愛を誓い合った二人が離れ離れにされ,7月7日の年に一度に許されるというのがこの日が持つ意味であるが、これは簡単に言えば織姫と彦星が愛を確かめ合う日ということになる。 つまり、天における“バレンタインデー”だ。
 日本人の感覚だとバレンタインはイコール“告白の日”なのできっとギャップを感じると同時に男女の立場が逆ということに新鮮さ感じる人も少なくないだろう。 アメリカなどでは花屋を営むリードのようにバレンタインデーに合わせてプロポーズをする人も多いだろうし、むしろ風習的と言っても過言ではないだろう。 そういう愛を理想とする人にとっては,とても勇気のいる日ということになる。
 私の記憶する限り、複数の男女のラブストーリーものは『ラブアクチュアリー』以来。どのような位置づけかはわからないけれど このような話のジャンルにもやはり鉄則がある。 それはそれぞれの話がリンクすること。 当たり前なことかもしれないけど、リンクしていなければ話がごちゃつくだけで意味がないからであり、意外なところでつながっていることが見所なのだ。ただ、出演者が多いだけじゃない。『オーシャンズ』シリーズのように全くの一つの物語でもない。 もちろん、『オーシャンズ』も出演者が多いので一つの話とは言え、それぞれの役割があるのでいろんな角度で、見れるのが楽しいのだ。 『ラブアクチュアリー』と似たジャンルではあるけれど、違うのは“バレンタインデー”の持つ意味が大きく影響している。 
 ここでは皆がハッピーな状態から始まり、一度恋愛の挫折をし、またハッピーになるというドラマティックな展開になっている。 もっと詳しく言うならば、主人公たちの多くは愛する相手がいる状態から始まり、それが違っていたことを思い知らされ 失恋したり,また思いも寄らぬ事実を知りショックを受け,戸惑う。そして、彼らは人を愛するということはなんなのかを学んだり、また 本当に心から愛せる人が誰なのかを知るというい運びだ。“恋愛のバイブル”だ。
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by jd69sparrow | 2010-02-17 00:11 | 映画タイトル は行

パブリック・エネミーズ

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<イントロダクション>
 大恐慌時代。アメリカの人々が貧困に苦しんだ時代であり、貧富の差が激しい世の中でもあった。満足のいく生活が出来ていたのはごく一握りの人間だけで大半の人々が明日の見えない日々を送っていた。多くの人々が混沌の中にあり、苦しんでいたこの時期が銀行強盗にとっては“黄金時代”ということにまず驚かされた。その中の一人であるジョン・デリンジャーは“活躍した人物”とされている。世の中には平和と混沌の二つの時代に分けられるだろう。 それぞれの時代にその真逆の状況の人たちがいるということになる。 苦しい時代でも、この状況をうまく利用・活用できる人たちがいるのだと思う。 しかし、一度は苦しい思いをする日が来るだろう。
 アンチヒーローと謳われたデリンジャーは全てとは言わないにしても,大衆と仲間たちに慕われたカリスマで、唯一の敵は汚れた金を欲しいままにする金持ちたちだ。そんな伝説的な人物の活躍から最期までを追った“真実の物語”、それが『パブリック・エネミーズ』だ。

<あらすじ>
 1930年代、アメリカが苦しんだ時代の只中,人々に希望を与えた犯罪者がいた。ジョン・デリンジャー、世紀の銀行強盗だ。彼は汚れたお金を奪い、一般人からは一銭も奪わない強盗で 仲間思いで大切な人のために危険を顧みない,“社会の敵”と呼ばれても大衆からは愛されていたアンチヒーローである。
 脱獄を繰り返し、そして何度も銀行強盗を成し遂げたデリンジャーはある日、一人の女性に惹かれる。 彼女の名はビリー・フレシェットだ。 デリンジャーはビリーに“イエス”を言わせるまで引き下がらず、彼女を自分のものにした。 これはお互いにとって運命的な出会いだった。 銀行強盗を繰り返す日々。 順調かに見えたが、既に名が広く知られていたデリンジャーを捜査局が放っておくはずがなかった。 シカゴへ新たに送られてきた腕利きの捜査官メルヴィン・パーヴィスがデリンジャー逮捕の計画に加わったのである。追いつ追われつの濃密な物語である。

<感想>
 ジョン・デリンジャーの生き方は波乱に満ちつつも,幸せだったかもしれないし 学ぶべきものがある。 ジョンには暗い過去もあるけれどそれを引きずってはいない。だが、現状につながるものが過去にはある。彼の人生は他人の手によって閉じられることになるけれど、銀行強盗として活躍し、人生の終盤には“運命の人”に出会い、その愛する人のために生きることができたわけだかがら たと激動であっても幸せだったと思う。 後ろを振り返らず、常に自分に自信を持ってわが道を貫き,歩くというのは中々難しいだろう。 だけど、ジョンはやってのけた。 自分に関わってきた人たちに裏切られることはあっても 自身は決して見捨てたりはせず、また愛する人を裏切らないところに人間的な魅力がある。また、一般人には決して手を出したりしないところも。 ジョンの美学は人を魅了する。 それは当時の人々も現代の人々に対しても同じこと。 
 ジョンは1分40秒あれば、仕事をやってのけられると断言し,それは事実だと思う。 これ程まで昔にこんな怪盗がいただなんて… ましてや 当時を知らない人たちにまで愛されるとは 偉人のようだ。しかし、何度か捕まってしまうのは何故だろう。やはり そこは人間だということか。鮮やかかつ速やかにお金を奪い、危険を察知したら,どうあろうと即撤収という潔さがすごい。脱獄手段も然り。 ジョンの頭のキレの良さは銀行強盗にしておくのはもったいない…というのは納得できる。表社会で成功をしていてもおかしくない。 
 捜査官であるメルヴィンはジョンを逮捕に執念を燃やし、彼もまた優秀な頭脳の持ち主で、ジョンとの頭脳対決という駆け引きが見物である。 
 ジョン・デリンジャーはいかなる時もカッコいい。 “仕事”をするきはもちろん、人柄や大切な人への気持ちである。 初対面の人をすぐさま信用のおける人物だと見ぬく力はズバ抜けている。 自分の職業というのはジョンの場合は普通は明かさないけれど、ためらにもなくビリーに打ち明けるということがそれを証明している。 自分の信念に絶対的な自信を持っているところが,すごい。 “ノーをイエスに変える”ことができるのはその自信が確たるものだという裏づけとなる。 決して恵まれた人生ではないけれど、見ず知らずのビリーに自分の人生をごく,わずかな言葉でまとめた上で 最後にビリーへの思いで締めるという…これは“イエス”と言わざるをえないだろう。
 ジョンには慕っていた人物がいて、彼はその人から「欲の強い人間とは組むな」という言葉を受けている。 これを自らのビジョンに取り入れ、実行している。 ジョンの言葉の数々には格言のようなものがある。 欲が弱い人間は相手への配慮を持っていて,協調性が強い。 よって良きパートナーとなるのだと思う。 これはあくまで推測だが、欲の強い人の中には自分のことばかりが大切で 何か道を阻まれたとき感情的かつ衝動的な行動に出てしまう。 チームの足を引っ張る結果となってしまうのだ。 だからジョンはそういう人間とは極力組まないし、いれば切り捨てるのだと考えられる。 
 ジョンの最期ははかないけれど綺麗だ。 甘い言葉に屈してしまった,大切な人の一人の働きにより追い込まれることとなってしまった。 だけど、それはきっとジョンは気づいてたかもしれない。 ジョンの見た映画が彼の気持ちを代弁していたようだ。 そして自分の運命を悟っていたに違いないというのも納得。 だからこそ、あれ程無防備にできたのだろう。 始めからそのつもりだったと言わんばかりに。 その潔さがまたカッコいい。 
 最も大切な人への気持ちは揺らぐ事はなく、最後まで思い続け…そして、守り抜いた。 ジョン・デリンジャーは“社会の敵”とされていたが果たして。 社会とは、大衆を含めた,全ての人たちへ対して向けられるはず。
“敵”と考えたのは、ジョンを良しとしない政府だと思う。 本当の“社会の敵”は他にいると見て思ったのは私だけだろうか。  
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by jd69sparrow | 2009-12-15 22:06 | 映画タイトル は行

ハリー・ポッターと謎のプリンス

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<イントロダクション>
 最終決戦への扉が開かれ、今 その道のりを歩みはじめている。 闇の魔法使いヴォルデモートを倒すためにハリーに何が必要なのか。 それは敵を知ることである。 敵を知ることが強力な武器になる。 いわば、最後の戦いの準備というのがこの,『ハリー・ポッター』シリーズ第六作目『謎のプリンス』なのである。 重要なつなぎ目だ。 シリアスな世界はさらに深みを増す。
 ハリーたちが動き,またハリーの知らぬところで、ヴォルデモートの計画が実行されている。 この二極化された物語が展開し、見る者に少しずつ真相を見せてくれる。 まさに“光と闇”の話なのだ。

<あらすじ>
 闇の帝王の脅威はますます強大とな、マグルの世界にもその影を落とし始めている。 そして 魔法使いの世界でもヴォルデモートの下につくデスイーターたちがあちらこちらでその脅威を振るっており、ハリーたちも油断できない状態になってきた。 ヴォルデモートを打ち破る唯一の希望がハリー・ポッター。 そう信じるダンブルドアはハリーに最後の頼みごと・試練を与え、ハリーに全てを託す。
 その一方で、ヴォルデモートに選ばれし,ドラコ・マルフォイが自らに与えられた任務・責任を果たすべく動いていた。

<感想>
 第六話『謎のプリンス』。 (謎のプリンスは、)映画ではあまり多くは出てこなかったが、ハリーが試練を乗り越えるために一役かっている。 試練をクリアするためのキーパーソンになるのが魔法薬学に復職したホラス・スラグボーン。 ヴォルデモート、かつてのトム・リドルの謎を紐解くのに重要な人物だ。 スラグボーンを動かすための鍵となるのが“謎のプリンス”の存在で彼の残した魔法薬学の教科書なのだ。
 ヴォルデモートにより残る額の傷。 これはヴォルデモートとハリーとをつなぐ絆である。 傷が刻まれた時,それがハリーとヴォルデモートが戦う,未来の宿命が下されたのだろう。 闇の魔法を受けてしても死することのなかった,ハリーだからこそヴォルデモートと戦える者に選ばれたのだと思う。 ヴォルデモートと幾度となく戦ってきたハリー。 偶然ではなく“定め”だったのではないだろうか。 そして額に傷というヴォルデモートとのつながりが出来たハリーは,ヴォルデモートと戦うべきも,戦えるのも自分だと自覚していただろうとストーリーを追うごとに伝わってくる。 ヴォルデモートと長きに渡り,戦い続けたこと、また,ダンブルドアから様々なことを教えられたことで次第にハリーは自分の辿るべき道を感じ取っただろう。 ダンブルドアから「最後の頼みじゃ」と言われたことで,ダンブルドアではなく 自分が決着をつけるべきだということに確信を得たと思う。
 『不死鳥の騎士団』から既に感じられたことだけれど、ハリーはほぼ大人の魔法使いと言っても過言ではないだろう。 デスイーターとの戦いぶりを見ても、仲間を守る姿からしても。 ヴォルデモートとのつながりに悩まされながらもたくましく,敵と向かい合う。 そのつながりは時に助けにもなる。 ヴォルデモートの失敗はハリーを死へ追いやることが出来なかったことだけでなく,自分への手がかりを残したことにも少なからずある。つまりは、“額の傷”はハリーにとっても,ヴォルデモートにとってもいいように悪いようにもある。 
 もう一人の主役をもし挙げるとするならば、ドラコ・マルフォイだろう。 ホグワーツ入学以来、ハリーとは犬猿の仲であるドラコは父親のような邪悪さはないが,純血ということにこだわり そうでないものを軽蔑する意地悪な一面を持つ。 “ちょっと嫌な奴”という感じである。 「謎のプリンス」ではそれまでのイメージと違うマルフォイが見れる。 認められたい一心でヴォルデモートからの任務を遂行するけれど、本心ではその内容は望んでいないし、闇の魔法を好ましく思っていない。 できることなら避けたいと願っている…そう読み取れる。 つまりはドラコ・マルフォイはヴォルデモートの支配下にあるとは言えない。 その証拠にドラコは苦しみ,己と葛藤している。 そんなドラコの人間らしさが一つの見所だと思う。
 魔法を抜きにした人間模様も描かれ、原作を読んでいて,とても想像がふくらむであろう場面の映像化という楽しみもある。 確信は持てないが映画オリジナルな部分もあるのでは…?と思う。 しかし全体的に見ると、シリアス度は増し,先へ進めば進むほど…つまりは対ヴォルデモートへ近づくにつれ、その代償がついてくる。 何かを失う、でも悲しんでいる暇はない。 ハリーの頭にはダンブルドアの意志がしっかりと受け継がれ、ハリーはダンブルドアの言葉とその言葉に込められた思い、そしてハリーに託した(ダンブルドアからの)期待を信じ 前へ突き進んでいくハリーに後の偉大なる魔法使いの姿が見える気がする。 二人の親友達との友情の絆も厚く、そこに感動。 ハリーは恵まれ、また強い。 それは彼を支えた頼もしい仲間達の力あってこそ。ハリーには本当の家族はいないけれど、ロンやハーマイオニーを始めとした人々がハリーにとっての家族なのだ。 ダンブルドア、シリウス、ルーピン…ハリーには父親的な存在がいた。 ロンの母親が母親同然。 彼らに囲まれた場所がハリーの“家”。
 ダンブルドアは過去に一度選択を誤ってしまうけれど ハリーを物置部屋から解放し魔法界へ誘ったのは正しかった。 それはハリーに何か魔法界の行く末に関わる何かを感じたのかもしれない。 こういう言い方はおかしいかもしれないが、過去の選択の過ちを挽回。 トム・リドルという恐ろしい力と未来を持った少年を選び,それが闇の帝王を生むという最悪な事態を起こしてしまった。 ヴォルデモートの魔の手から“生き残った少年”ならば…という期待があったかもしれない。 聞こえは悪いが、過去の過ちが生んだ悪への対抗手段。 話し外れるが、意外にもハリーとトムとではその過去や状況に共通する点があるのに驚きである。
 最終決戦へ道はそう遠くは無い。 原作は既読であるが、これがどう映像化されるのかが楽しみである。 最終章『死の秘宝』は二部作となり、2010年の秋と2011年の夏の公開となっていたかと思う。

過去の記事はこちら↓
ハリー・ポッターと賢者の石
ハリー・ポッターと秘密の部屋
ハリー・ポッターと炎のゴブレット


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by jd69sparrow | 2009-07-25 23:21 | 映画タイトル は行

ヒラリー・ダフのハート・オブ・ミュージック

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<イントロダクション>
 夢を持っているのにそれを叶えるための第一歩を踏み出せないでいる。 強く望んでいるはずなのに父親の反対を押し切って前に進む勇気が持てず、胸を奥にとどめたままな主人公。 夢を叶えたいと思っても中々それを叶えられないでいる人は少なくない。 それにこの主人公のような人も多いはず。
 “ハート・オブ・ミュージック”、心の音楽。 劇中にも似たようなセリフがあるが、音楽とは自分の心で感じたことを人に伝えるもの。 そう主人公は学ぶという話ということで、こういう邦題が付いたのかもしれない。 一方、原題“raise your voice”はそのままだと“あなたの声を出して”だが、“勇気を出して”や“あなたの歌声を聞かせて”など,いくつか解釈が出来る。 主人公に足りないこと,必要なものと考えるとこちらが言葉が表す通りの物語だと思う。 と言うのも、せっかく音楽に恵まれた環境にいてもいまいち本当の自分を発揮することができず、また自信がもてないでいる主人公が大切な人たちとの出会い,そのパワーを受けて音楽の道を歩んでいく自信と勇気を得る話だと思うからである。

<あらすじ>
 テリーは歌うこと,音楽が大好きな女子高生。 夢は音楽院へ行き,音楽を極めてステージで歌うこと。 父親からは家から遠く離れた場所にある音楽院に行くことを反対されるも,他の家族、特に兄のポールからは音楽の道,夢を応援されている。 ポールは兄弟であり,親のように温かく妹の夢を応援している。 “才能を閉じ込めることなく,何が何でも音楽院に行って夢を追いかけて欲しい”、それがポールの希望であり願いだった。ある日、そんなポールと二人、ライブに出かけた帰り道交通事故にあってしまう。 自分は助かり,ポールは命を落としてしまったことに強くショックを受けるテリー。 落ち込んでいると、なんと行きたいと望んでいた学校からの手紙が届き、テリーにチャンスが訪れる。 そのきっかけを作ってくれたのが誰でもない,ポールなのである。 音楽を楽しむ妹をビデオに収め、密かに音楽院へ送っていたのである。
 大好きなお兄ちゃんの望んだことを,せっかく愛するお兄ちゃんがくれたチャンスや優しさを無駄にしないために,テリーは音楽院へと向かい,夢へ道を歩き始める。

<感想>
 音楽院にやってきてもまわりとも馴染めず,また大好きなはずの音楽も何故かうまくいかないテリー。 音楽院に進むという最初の夢をいざ叶えられたということに戸惑いや緊張感を覚えたからかもしれないし、まだ兄の死を乗り越えられないでいるのが,音楽にそのまま出ているからかもしれない。 テリーの課題は悲しみを乗り越えることと,自分らしさを出して自信を持つということで、これが『ハート・オブ・ミュージック』なのだと思う。 いろんなことが頭の中を漂い,自分らしく音楽を楽しむということを忘れてしまっている(というか出来ずにいる)。
 でもそれは、自分の気持ちの持ち方と人との出会いで変わるものだということがわかった。 時間ではなく人とのつながりが大切なのだ。 大切な人たちの言葉があったからこそ,テリーは前に進むことができるのだとと思う。
 テリーにとってポールは自分の音楽を一番に応援してくれた,また (テリーの)夢を叶えるための道を切り開くきっかけを作ってくれた大切な存在。 だからこそ失った悲しみは大きく,事故で自分だけが助かったことをとても悔やみ,それはライトが当てられた瞬間,フラッシュバックされ甦る。 そんな心の傷を負い,ステージのスポットライトを浴びて自分の力を出し切れないのだ。 ポールが望んだことはテリーが望む夢でもあり、その夢を叶え、また大切な人を失った悲しみを乗り越える話。 そして乗り越えた先に自分らしく生きる未来がある。 “自分らしく”というのが夢を叶えるための鍵。 それは自信へもつながる。 そう主人公は学ぶのであり、この映画のメッセージでもあると思う。
 いろんな人といろんな経験をし、テリーの音楽は完成していく…歌うことの楽しさを再びかみしめ,新たに自分というものを発見していく。 仲間と出会い、その仲間達と音楽を楽しみ,また作っていくという青春ストーリーもあり,映画じたいが音楽そのもので楽しめる。

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by jd69sparrow | 2009-03-05 00:00 | 映画タイトル は行

ファイトクラブ

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<イントロダクション>
 衝撃的なラスト、だけどとても美しくはかない、すっきりした感じ。 後味は悪くも良くもない。 すっと流れていったようである。 要するに、消化にいい映画である。 バイオレンスだったり、コメディだったりといろんな味を出しているが,最後には蝋燭の炎がそっと消えたように幕を閉じるのはとても良いと思う。
 デビット・フィンチャー監督作品だから…と断言ができるものかはさておき、良い意味でクリアな絵に汚しをかけたような映像がなんとも印象的で物語全体の雰囲気を演出しており、それはイコール,この映画というものを表している。 また、新聞記事のようなちょっとぼかしが入った映像にも思える。 よく、時代モノが製作される際に,衣装に汚しをつけて雰囲気を出すという方法が取られるがまさにそんな印象を受けた。
 悩みを抱えた主人公がいて、でも,その悩みは周囲から理解されない。 そして精神的に追いやられていった矢先に一人の人物が現れ,その影響で全く環境に違う世界を作り出し,無意識に足をふみいれることになる。 そして戦う。
 主人公は全編を通し,戦う。 そして自分が抱えるものへの解決法を探っていく…そういう物語だと私は解釈する。 “ファイトクラブ”、それは主人公が自分と戦うための居場所である。

<あらすじ>
 主人公は不眠症に悩まされているサラリーマン。 彼は医者から病の患者が集う会を紹介される。 それは彼とは全く関係のない病の患者たちが集まる場所だったが、不思議と彼は癒されていった。 安定した日々が続くと思っていた、マーラ・シンガーが“会”に現れるまでは。 再び辛い現実に戻された主人公が次に出会ったのはタイラー・ダーデンと名乗る,自分とは全く正反対で自由な男だった。 それから間もなくして、何物かの手により,突然主人公は家を失い,頼った先はタイラー。 タイラーと再会した主人公。 タイラーが主人公を助けるために言い放った一言は、“自分を殴れ”ということだ。 そこから、“ファイトクラブ”生まれた。
 再び癒される場所を見つけた主人公だったが、“ファイトクラブ”の会員達は増え、次第に彼が追いつけないほど“ファイトクラブ”は成長し,その活動も思わぬ方向へと暴走し始める。

<感想>
 男たちは互いを殴りあうことでストレスを発散していく。 だけどそこにはちゃんとしたルールがある。 その一つが正々堂々としたファイトをすることである。 血を吐くほどのヴァイオレンスで過激的ではあるが、それはストレス社会で生きる一つの解決策といえなくもない。 
 だが、ここでも定理はある。 何かある種の人のためのものが生まれる。 それはやがて組織化され、活気付いてくる。 そこまではいい。 だが、活気がつき過ぎ,進み続けると良からぬ方向へも行きかねない。 もちろん、全てがそうというわけではない。 ただの一つの物事の定理だ。 だが、しかし裏のビジネス的な活動と考えるとあながちこれは間違いではない…と思う。 悪い方向へと進んでいった先には崩壊が待っている。 (偏った意見かもしれないが、)ここまでの過程に多少の時差があったにせよ、いつか悪事が法の下にさらされるときが来る(つまり、悪いことをすればいつか明らかにされ,罰せられる)ということには変わりはないだろう。
 タイラーの言う言葉の数々には説得力があり,また筋が通っている。 着目する点がおもしろい。意表をつくところもあり、彼の考え方や行動は極端で過激的、だけどそれがカリスマ性を放っていて影響力がある。 彼の言葉には力がある。 それが、どんなことを指していようとも。 筋が通っていて言葉や考え方に力があるからこそ、タイラー・ガーデンという人物に魅力を感じられるのだと思う。
 ある事実を知った主人公が、その真実に向き合ったときの光景が滑稽で、また不思議な感覚だった。 真実というのは目には見えないものだけれど、それがまるで実体があるかのよう。ミステリアスだ。 
 たいてい、謎は最初に提起され、後半に進むに連れて謎が解明されていくというパターンが多いが、ここでの場合は後から後へと謎が浮かび上がっていき,終盤に差し掛かったところでフラッシュのようにぱっと,一瞬にして,というかいきなり真実が見えるのだ。 まるで閃きがきたかのように見る者は全てのことが一つに頭でつながり,「なるほど」とすんなり納得をすることだろう。 事実が明らかにされた瞬間、その場面と同じように炭酸飲料の炭酸が口の中で広がるかのように,じわじわと謎と答えがつながり、理解していくのだ。 もちろん、最初に二、三謎は挙げられるのだが。 例えば、タイラー・ダーデンという人物について。 これに関しては最初の場面から,事実が明らかにされるまで常にあった謎なのだが。
 主人公が不眠症から解消され、自由にのびのびと暮らしたいという願いが、この物語のベース。 いろいろな方向へと転がるが、またそのベースへと戻る。 主人公は自由を得るための答えを追い求め、意外なカタチではあるが辿り着く。 探していたところに。 そして見事に決着をつけるのである。
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by jd69sparrow | 2009-03-04 17:11 | 映画タイトル は行

フォーチュン・クッキー

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<イントロダクション>
 だいぶ前になるが、日本でも同じようなドラマがあった,母親と娘の入れ替わりのコメディ。 どう入れ替わるのかという設定の部分で異なる部分があるが,理解しあえずにいる一組の親子が互いの体が入れ替わることで理解しあっていくというヒューマンドラマでもあるというところは共通だと思う。 『フォーチュン・クッキー』は意外にもリメイク版だ。 この映画の第一印象は、浅野温子が以前、主演したドラマを思い出させ、個人的に懐かさを感じたということだ。 
 ロックを愛する娘とカウンセラーで子供に少し厳しい母親の話ということで、その二人の立場が逆転するのはとても面白い設定だが、最後には心温まる充実した物語である。

<あらすじ>
 口うるさい母親に,口の悪い娘。 二人は常に口げんかが絶えない。 ロックバンドの活動に没頭する娘のアンナをあまり理解できないテスに対し,アンナもまた自分(アンナ)のスタイルを認めてくれず,理想の姿にしようとする母親にうんざり。 アンナの父親,テスのパートナーは他界し、テスは新しいアンナとハリー,子供たちの父親となる人と結婚しようとしている。 その前の新しい家族との食事会。 テスとアンナはいつものようにもめていた。 するとレストランの店員から二人にそれぞれ一つずつクッキーを渡される。 占いつきクッキー,“フォーチュン・クッキー”である。 二人が占いの御籤を開けた瞬間,地震が起き,翌朝気付くと二人は…なんと体が入れ替わっていた!! テスになったアンナは,暴走しロックンローラーのように振る舞い、アンナになったテスは超マジメで…しかしバンドのライブというプレッシャーに追いやられることに…

<感想>
 テスとアンナの入れ替わりは、レストラン店員の心遣いであり、いたずらにより起こる。 でも、それが二人の溝を埋める特効薬となる。 他にも方法はあったかもしれないが、とてもユニークな方法である。 ぶつかってばかりで上手くコミュニケーションが取れないのは互いに知らない部分があること、また正直になれないところがあるからだと思う。 二人の体が入れ替わり、それぞれ相手の視点に立って初めてその相手の気持ちや状況、どのように周りが見えているかがわかる。 “相手の立場になって考える、そして理解する努力をする”という点でとても重要なこと。 当たり前なことだけど、難しい。 理解している“つもり”となりがちだが、それではいけないのだ。 窓越しに外を見ているようなものである。 どれだけ真剣に相手に向き合えるかが大事。
 入れ替わっておもしろいのは、やはりテスになったアンナの方である。 カウンセラーをする医者で,子供の心配を常にしているようなマジメでインテリなテスがアンナ風になるというギャップが最高。 そんなアンナが終盤あたりでギターを披露するさまは,本当にかっこいいし テスの著書についてトーク番組で話す場面で語る内容ははちゃめちゃなようで説得力のあるように思える。
 原題“Freaky Friday”。 直訳すれば「おかしな金曜日」になる。 邦題と比較すると原題の方が全体を表していると思う。 邦題『フォーチュンクッキー』を本題に,また原題“Freaky Friday"を副題というのも良い…かもしれない。 が、しかし重要なのは親子が互いの目を通して理解しあうことであって,入れ替わったということやクッキーは“きっかけ”に過ぎないと私は考えている。 そのきっかけで何があったかというのが原題がもたらす意味で,この作品というものでははないだろうか。
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by jd69sparrow | 2009-03-01 11:17 | 映画タイトル は行

ヘルボーイ:ゴールデンアーミー

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<イントロダクション>
 確かにこれまでのアメコミ映画とは味が違う。 まず第一に、現代劇でありながら異世界の住人達が多く登場すること,第二に“ヘルボーイ”は地獄生まれであって人ではないが、とても人間味のあるキャラクターで人間界を破壊する運命を持っているが、人のために戦っている。 第三に近年のヒーローものというよりも『スターウォーズ』の旧三部作を思い起こさせる点である。 現代的なカラーもあるけど、古き良き時代のカラーも組み込まれていると感じられるからだ。 作り手の少年時代から愛し続けたというモンスターもののインスピレーションがここに活かされているのだろう。 
 ヒーローたちの戦うかっこ良さだけでは心には残らない。 随所にドラマ的な部分や笑いが用意されている,そんな作品だ。

<あらすじ>
 ヘルボーイこと,アヌン・ウン・ラーマ,通称レッドは体から炎を出し,それを操るリズと、良き理解者で人の心を読む能力を持つ水棲人エイブと共に秘密機関BPRPの指揮下で日々,魔物たちから人々を守る使命を果たしている。 一方で遥か昔人類により仲間達の多くを滅された,エルフ族のヌアダ王子は人を恨んでいる。 彼はかつて,そのあまりにも強く恐ろしい力のために封印された軍団,ゴールデンアーミーをを復活させ,人類から大地と人により失われし,過去を取り戻すことを誓う。 どんな手段を使ってでも。 世にも恐ろしいヌアダの計画をヘルボーイたちは新しい仲間,ヨハン・クラウスとヌアダの双子の妹で善良的なヌアラ王女と阻止するべく立ち上がる。

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by jd69sparrow | 2009-02-24 01:56 | 映画タイトル は行

Blonde Ambition

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<あらすじ>
 ケイティは一つの恋に裏切られてしまう。 気が落ち込むケイティが友人の励ましで失恋をたちきり、大人にになるため,企業への就職を考える。 礼儀やマナーをあまり知らないケイティだったが、仕事を見つけ,勤めることになった。 上司のロナルドのもと、早速仕事を始めるケイティ。 だが、身なりなど何から何までまだ子供のままのケイティを見た上司達はケイティを長いブロンドの似合うオフィスレディに変身させた。 しかし、まだ右も左もわからないような状態のケイティは中々思うように仕事をこなせず、壁にぶつかる。 そんな時、彼女の力になってくれたのが、初めてオフィスに行く日、工事現場に突っ込んだ彼女を助けてくれたベンだったのだ。 ケイティは恋をして、失敗を繰り返しながら次第に成長していく。

<感想>
 ケイティが働く職場には優しく,彼女にとって頼もしい上司もいるが、意地悪で腹黒い上司達もいる。 後者の上司達はまるでハゲタカのごとくで、欲がつきない。 当然、最初は仕事で足を引っ張っていたケイティの成功は気に食わない。 彼らは最後までその意地の悪さを崩さないのである。 彼らにとって手荒な手段に投じることなく,正々堂々仕事でケイティたちが打ち負かすことがとても爽快だ。 その上司たちの嫉妬心がむき出しになり、感情が爆発する場面もある意味おもしろいというか見ものである。
 ケイティが彼女だからこそ出せる力で、また奇抜な方法で失敗かと思われたプロジェクトを成し遂げるのもおもしろいし、何より最初と最後ではケイティは大きく変化していて、何も知らない状態からたくましい大人へと成長していて,見た目と中身に差がなくなり(彼女が会社に着たばかりは見た目こそ,オフィスレディだが、中身がともなっていない)、ゼロからキャリアウーマンへと進化を遂げるというのが一番の見所だ。
 恋と仕事を両立させるという一言で終わるものではなく、恋と今までに培ってきた経験とがケイティに力を与えているのだという瞬間、とてもキラキラ輝いている,そのときがとても印象的でこれもまた魅力的。
 ラブストーリーとサクセスストーリーとのコラボレーションである。 ここで一つ思うことは恋の力は仕事への成功へもつながるのだということだ。
 ケイティへ彼女が失ったもの以上に、彼女にとって大きな大切なものが贈られる。 それがこの作品において、何より最高だ。

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by jd69sparrow | 2009-02-22 22:22 | 映画タイトル は行