カテゴリ:映画タイトル ま行( 52 )

名探偵コナン 漆黒の追跡者

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<イントロダクション>
 色あせない魅力、進化し続ける面白さ…この二つあってこその長編シリーズなのだと思う。 そしていついかなる時もかかせないのが主人公・江戸川コナンこと,工藤新一とその幼馴染の毛利蘭の恋である。 どれくらい描かれるのかというのはその時その時であり、どう描かれるかも変わってくる。 これはシリーズを通して観る視聴者・観客の楽しみであることは間違いないだろう。
 個人的には少年探偵団が活躍する話も,もちろん盛り上がって楽しいのだが、黒の組織との対決や新一と蘭のエピソードが強く描かれているものが好きである。 後者のことを言うと、二人のやりとりというのはお決まりな部分もあるけれど、それは彼らの距離が変わらず保たれてるということだから,とても和やかでほっとする場所なのだ。 黒の組織が出るということは、蘭にも当然危険が迫るわけで コナンは守るべき人、仲間達のために命がけの戦いをすることになる。 つまり、「名探偵コナン」の第一話に描かれた,物語の本筋が出てくる…コナンは常にこんな危険にさらされているということを思い出されるのだ。 つまりは、黒の組織との対決と新一と蘭の恋は二分されているようで実はつながってるということになる。
 少年探偵団や毛利小五郎による明るい場面もあるものの,シリアスなつくりである。 アクションとサスペンスが派手に炸裂した,危機迫るエンターテインメントだ。

<あらすじ>
 全てはコナンの見た悪夢から始まる。 それはあまりにもリアルで,不吉な兆しのようだった。 広範囲に広がる連続殺人事件が発生。 そこに必ず残されていたのは麻雀牌のピース。被害者からは所持品が奪われていて,殺害方法も一人を除き 共通していた。 六人目の被害者が巻き込まれた事件が県境だったことから警察の捜査会議にはあらゆる捜査官が集うことに。 小五郎も特別に参加したことから、コナンも密かに事件の謎を追い始める。 捜査会議が終わった頃、山村警部の鼻歌から黒の組織のメンバーが捜査会議にまぎれこんでいたことを掴んだコナン。 連続殺人事件と黒の組織とが関係しているということで,コナンは彼らの影を恐れながら、謎解きを強いられる。
 事件の謎を解くたび,コナンに関わった人たち全てに危険が迫るという高いリスクのもと,コナンは事件の真犯人と黒の組織と対決する…

<感想>
 コナンの悪夢、蘭が落としたコナンの茶碗…まさに不吉な予感から始まり それは物語全体の雰囲気と方向性を物語っていた。 コナンの悪夢はいつしか起こるかもしれないものであるがゆえに,コナンにとって最も避けたい事態である。 「名探偵コナン」はちょくちょく黒の組織の影を見せつつ、少年探偵団の活躍の物語があったり,ただ単純におもしろい推理ドラマがある。 その中にはコメディの色もあり、そこが子供から大人までを楽しませる大事な要素と言える。 平行線にあるようで,ゆっくり着実と黒の組織に迫り、ある時突然とてつもない恐怖にさらされることになる。 黒の組織との接触も幾度となくあり、それはスリリングで楽しい。 銃を忍ばせている相手に対等に渡り合うコナンの強さにぐっと惹かれる。 黒の組織とコナンは敵どうしでありながらも,ベルモットや今回の映画に出てくるアイリッシュのような特別なパターンもある。 それはまるで良きライバルどうしを見ているようだ。 ベルモットとアイリッシュの二人に共通した真意が一体何なのか、この謎がとても気になる。
 物語とは常に変化があるもの。 黒の組織の存在はコナンの身近な人では,阿笠博士や灰原哀などごく一握り。 黒の組織だとまでは行き着かないものの,連続殺人の後ろに別の“何か”に察知した人物がいる。 組織との関わりのない人がこの影を察知するというのがこれまでと違う雰囲気を出していて新鮮だった(映画版でしかあまり詳しくは知らないのでこれが初めてなのかはわからないが)。
 また、謎を解くほどコナンに与えられるリスクが高くなるというのもシリアス度が増し,物語が盛り上がるポイント。 そしてそれはクライマックスにおいて最高潮に達する。 フェイクに気づかされた直後の蘭とアイリッシュとの拳を使ってのアクション。 ほぼ対等に渡り合っていて,ダークな雰囲気がさらに戦いを盛り上げ,演出する。 実写アクション並の興奮が感じられた。 そして畳み掛けるように次へ次へとバトルが展開していくのがエキサイティングで、コナンはどんどん追い込まれていく…絶体絶命ではないかというところまで。形勢逆転が続く(入れ替わり立ち代り),そして最後スカッとした感じで締めくくられるのが,爽快で劇場版ならではの清々しさを残す。 近づいたと思った瞬間,遠ざかる、「追う」というコナンの使命はまだ続き,そしてさらなる期待がかかる。

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by jd69sparrow | 2009-04-21 17:09 | 映画タイトル ま行

マダガスカル2

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<イントロダクション>
 四匹の迷子の動物達の冒険。個性豊かの四匹に加え、彼らの旅に一緒について来る脇役的動物達もまた個性的で魅力なのがこの作品のおもしろさの一つだと思う。 前回が都会から遠くはなれた未知の場所への“冒険”だったのに対し、今回は冒険というより,里帰り。 四匹のキャラクターの抱えているものが丁寧に描かれている。 コメディとしても,キャラクターを観る上でも楽しめるのがこの続編の特徴である。


<前回までのあらすじ>
 ニューヨークという都会のど真ん中にある動物園で人気を誇っていた四匹の動物達がいた。 ライオンのアレックス、シマウマのマーティ、カバのグロリア、そしてキリンのメルマンである。 アレックスは動物園の中でのトップスターで,“キング・オブ・ニューヨーク”とも呼ばれる,ちょっと自信家のライオン。 その相棒で親友,また、前向きで芸達者なのがマーティ。 グロリアは大胆かつセクシーなマドンナ的なカバ。 メルマンは病弱で気弱,そしてグロリアに密かに思いを寄せている。 彼らはある日、動物園から脱走し、ニューヨークを飛び出す。 彼らが行き着いた先はなんとマダガスカル島。 ジャングルが広がる南国の島である。 都会育ちでセレブな四匹はそこで初めて野生というのものを知り,壮大な冒険を体験する。
 そこで出会ったキツネザルでマダガスカルの王様,キング・ジュリアンやモーリスの手を借り、ニューヨークへと旅立つ…。

<今回のあらすじ>
 アレックスたちは自分たちが育ったニューヨークへと旅立つ。 何故かその旅にキング・ジュリアンとモーリスの二匹も加わった。 動物園仲間のペンギンズたちの操縦で飛行機でニューヨークへと向かうはずだったが、その途中で燃料切れとなった飛行機はニューヨークへ付く前にアフリカの大地へと不時着する。 またまた見知らぬ土地へとやって来た四匹。 しかし、アレックスだけはこの場所に引っかかる部分があった。
 アレックスは自分の両親との再会を果たし、そこが故郷であることに気づかされる。 アレックスだけでなく、マーティたちも自分と同じ大勢の仲間達に出会い,本当の故郷を知る。
 アレックス、マーティ、グロリア、メルマンはこの場所で仲間達の出会いや出来事を通し,自分を見つめなおすこととなり,それは本当の自分の発見するのである。

<感想>
 動物達が主人公の物語の多くは人間ドラマとして置き換えられる。 特に『マダガスカル2』はそれを強く感じられるのである。 人々が抱えている問題により近い…というか、そのままかもしれない。 四匹それぞれに物語があるけれど、共感というか心に響いたのがマーティとメルマンの二人の(二つの)物語である。 
 まず最初にマーティ。 マーティはユニークな技を持っており,ニューヨークでもアレックスに引けを取らないほどの注目を集めていた。 誰にも出来ない特技であり,そんな自分は特別だと思っていた。 しかし、それはニューヨークの動物園という限られた空間でのことであり、同じ仲間達が大勢いるアフリカ,つまり外の世界では違かった。 マーティの特技は“何もかも一緒だ”というこの場所ではシマウマみんなが出来ることだったのである。 マーティは強くショックを受ける。 
 私達の世界に置き換えても,ある一つのことが得意で没頭し,ある空間で注目を浴びる。 それは自信になるが、いざ別の世界へと足を踏み入れ,周りを見渡すと自分と同じ,もしくはそれ以上の才能を持った人は大勢いて,萎縮してしまうなんてことはよくあることだろう。 一つ例を挙げるなら“英語”である。 国際言語的地位にあると言っても過言ではない。 ゆえに資格を持つ人、話せる人もたくさんいる。
 あともう一つ、マーティのエピソードで印象に残るのがアレックスとの友情の絆が試される場面である。 アレックスが見た目がまるで一緒な大勢のシマウマたちの中からマーティをズバリ当てるところはとても感動的である。 一度間違いを犯してしまったアレックスはそこで一番大切なことに気づかされるのだ。 だからこそ、“内面的な目”でマーティを見て,マーティに気づけたのだと思う。
 そういう感動的な場面がこの『マダガスカル』の続編には多かった。 メルマンについてのエピソードはとてもぐっと来た。 好きな相手がいて、中々素直になれずに思いを伝えられずにいるというのはよくある恋の話だけれど,とても人間的で素直であるがために感動せずにはいられない。 大切な人のためにどれだけのことができるかというのがわかる場面でメルマンのグロリアへの思いが強く感じられ、さりげなく告白をする場面も不器用さが心を温かくする。
 コメディ的な部分でも数多く面白い場面があるのだが、注目したいのがペンギンズと最強(狂)な人間のお婆ちゃん。 ペンギンズは頭がいいのか悪いのかという際どいところにいる。 そこがツボなのである。 その可愛さから反面してずる賢さ?は人間顔負け。 でも憎めない、と言うよりも愛らしい。 ペンギンズのチームワークの良さが最高。 決してくじけないし、どこで見につけたのかモノ作りとそれを扱う力があるところがツッコミどころでもあり、魅力でもある。 個人的には“新人”が好きである。 隊長から常に“使われえる”立場なのに美味しいところを持っていくのが最高である。
 最強なお婆ちゃん。 アレックスにしてみれば天敵である。 けど、面白いことにペンギンズにとっては敵ではない。 素手を使った勝負でライオンよりも強い,そしてわが道を行くお婆ちゃん。 その強さが面白く、アレックスはそんなおばあちゃんを上手く利用して,敵を倒してしまうのもまたコントのようでまた面白い。 アレックスに対しては厄介で鬼のようだけれど,強い精神を持ち,人柄が良い一面もあるというギャップもお婆ちゃんのキャラクターのよさである。
 最後にもう一つ。 キング・ジュリアンのインチキ?(本人はそのつもりがない)が結果的に成功に終わるというくだり。 憎めない。
 笑いの要素もありつつも感動的な,人間ドラマ的な部分が強いのが『マダガスカル2』である。

『マダガスカル』の感想

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by jd69sparrow | 2009-03-19 16:32 | 映画タイトル ま行

ミーンガールズ

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<イントロダクション>
 中学生や高校生時代など子供の頃のモノの見方を覚えているだろうか。 “その頃の考え方は大人になると忘れてしまう。ゆえに子供の気持ちをわかってあげられない時がある”というような感じの作り手の言葉にあるように、人は大人になるにつれ,少年少女時代のモノの見方を忘れてしまう。 そんな忘れてしまった少年少女時代を見直すことや自分が子供を持つようになったとき、見ると良い作品と言えるだろう。 主人公は高校生。 彼らがどんな目で社会を見つめ、友達との関係を始めとした,考えを持っているかをコメディとヒューマンドラマというテイストであがいてる。

<あらすじ>
 アフリカからアメリカへやって来た,ケイディは家族教育の中で育ち、突然 高校へ通うこととなる。 両親の愛情のもと,育ったケイディ。 彼女にとって全くの異空間へ飛び込む。 そこで最初に出来た友達が変わり者と呼ばれる,ジャスミンとダミアンだった。 そしてケイディの目に入ったのが“レジーナ”をリーダーである,学園アイドル三人組。 三人に声をかけられたケイディは,ケイディだけでなくジャニスたちに,過去に嫌な経験をさせた彼らに復讐の話を持ちかけられ、ジャニスたちとレジーナの間を行き来するようになる。 ケイディは早速復讐を実行にうつすのだが…

<感想>
 多くの面で共感のできる映画である。 特に主人公と彼女を取り巻く人たちに対して。 一番共感できるのが友達どうしの人間関係についてだ。 相手にどんな気持ちで付き合っているのかや、影響されること、相手にどんな思いであっても不思議と生まれてくる感情などなど。
 主人公ケイディもにんげんだから、間違いも犯す。 間違いや目の前の問題にどいう向き合うか、そして逆にそんな間違いを起こしてしまった経緯にも理解できる。 
 はじめての環境でもそうでなくても、自分を見失わず、常に自分を持っていることは難しい。 ケイディがそんんなところに入った時、感じたのであろう,心細さは心にしみるようだった。 自らコミュニケーションをとろうと努めても,報われないとき感じる感情、周りに溶け込むことで必死になることは,とてもわかるような気がする。 特に後者は誰にでも一度は経験があるのではないだろうか。 
 この作品のテーマは自分を容姿から考えに至るまでつくろわないで、また,自分を見失わず 自身に正直になることの大切さだと思う。 自分らkしく、そして素直になって気持ちを相手に伝えれば,相手も理解してくれるし、その場にいなくても理解してくれる人はきっと現れる。 自分を偽るということは重荷を背負うことになる。 それをやめたとき、縛られた鎖が取れるかのように解放され、身も心も晴れることだろう。 人の心理描写が鮮明に,コメディ風に描かれている。
 楽しみながら、共感できるストーリーである。 レジーナは“ミーンガールズ(意地悪な女の子)”だけど、それは最初,表に出ているに過ぎず、ライバル心を抱く相手・ケイディへの友情は信じていたと思う。 ライバル心が意地悪なことをさせてしまうといった具合だろうか。 本心では表とは逆のことを思っているのだろう。 ケイディもレジーナに対して、良い感情は抱いていないけれど、どこかでレジーナを認めている。 だからこそ、影響を受けたのだと思う。

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by jd69sparrow | 2009-02-16 23:30 | 映画タイトル ま行

MAMMA MIA!

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<イントロダクション>
 青く透き通った海を見渡せる,白い建物が並ぶ島。 同じ星の下であってもそこは別世界。 楽園のような場所で理想郷。 ここで暮らすだけでも心地よさそうだけど、まるで水彩画のような美しい島で四季が挙げられたりしたら、とても幸せなことだろう。
 主人公たちがハッピーになり、観ている側も同じ気持ちになれる,アバの曲を聞きながら… 母と子の二人の物語であり、またそれぞれが自分の気持ちに素直になる大切さを知るヒューマンドラマでもある。
 
<あらすじ>
 ソフィとその母親ドナはギリシャにある死まで共に暮らしている。 ソフィには愛する人がいて,その人との結婚式まであとわずか。 彼女は式にあることを望んだ。 それは父親と共にヴァージンロードを歩むこと。 しかし、父親と思われる候補は三人もいる。 三人のうち誰がそうであるかを確かめるべく,誰に話すこともなく,こっそりと三人を式への招待状を送り島に呼び寄せる。ソフィははドナを驚かせようとするが、父親候補 サム、ビル、ハリーの三人とドナは思わぬタイミングで再会することになってしまう。 ソフィの計画は裏目に出て、大騒動を引き起こしてしまう。

<感想>
 歌にはそれぞれテーマがあり,その中にはストーリーも隠されている。 既存の曲を物語にそって起用できたのは、それぞれの歌のストーリーと作り手が伝えたいこととが一致するからだろう。 歌とダンスの両方が一緒になっている曲がほとんど。 ストーリー性を作り出しながらアバの名曲の数々を乗せていくのは素晴らしい。
 登場人物の感情が大胆かつ丁寧に描かれていて、感動や笑い、ロマンティックといろんな顔を持つ,『マンマ・ミーア!』。
 ホテルを切り盛りするドナは支払いに悩まされていて、それを迫られている。 ピンチかと思いきや、次の瞬間には街の人達を引き連れて、ダンスのパレードが繰り広げられている。 主人公たちが辛いであろう場面があっても、必ず明るいところへ戻る。 それが良い。 ドラマティックとエンタテインメントショーという異なるタイプがバランスよく盛り込まれている。
 ストーリー性はあるが、エンタテインメントがメイン。 ミュージカルの舞台のプロもいれば、あまりこういう場には出てこないイメージの人もいる。 サム、ビル、ハリーを演じる三人ともが後者だ。 ジェームズ・ボンドやブーツストラップから,どうやったら歌って踊れるエンターテイナーを想像できるだろうか。 最後の最後のショーのはじけっぷり…良い意味でこれまでの役柄のイメージを壊せるのはイイなぁと思う。 はまり役というモノがあるけれど、決して型にはまりすぎないで欲しい。 
 女手ひとつでソフィを育てたドナ。 とてもたくましい。 人間的にとても惹かれるところの多い人だ。 母親としての包容力もあれば、少女のような若々しさもあり、ユーモアもある。 そんなドナのもとに招待された三人が三人とも来るなんてそれだけドナという人物が魅力的なのだと言える。 どの角度kら見ても素敵な,理想的な人物像である,ドナの魅力がたっぷり。 ソフィとドナの二人の物語。 どの登場人物を観ても最高の締めくくりだ。
 二十年越しの素敵な恋があって、自分が招いたこと、幸せになるための試練がある。 とても見ごたえのあるエンタテインメントである。

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by jd69sparrow | 2009-02-12 11:37 | 映画タイトル ま行

マトリックス(二回目)

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<イントロダクション>
 今、自分のいる世界が現実ではなかっと考える恐ろしい。 機械,コンピューターによって現実の世界は支配され、世界全体が荒れ果ててしまう。 太陽の光も失われ,空には暗雲が広がっている。
 機械が人を生産するというのも,かなり衝撃的だが、人の行いにより地球から太陽が消えてしまったのも驚くべき現実だ。 まるで『猿の惑星』のように人間の立場が一変している。 人間と機械の戦い,戦争が宣戦布告される。

<あらすじ>
 アンダーソン氏は大手企業で働くプログラマー。 彼にはもう一つの顔がある。 ハッカーとしての顔が。 そこでは彼はネオと名乗っている。 その実力は確かなものであったが、アンダーソン氏こと,ネオ(以下、ネオと表記)には“眠れない”という悩みがあり、孤独の中に生きている。 そんなある日、自宅のパソコンに一つのメッセージが届く。 それがきっかけでネオの運命の歯車は大きく動き始める。 モーフィアスに,トリニティー…コンピューター上でしかその存在を知らなかった二人が目の前に現れ、ネオが現実だと思っていた世界は仮想現実世界“マトリックス”だということを知らされ、本当の現実世界を見る。 そこは、もはや人が生きる世界ではなく,機械と人とが逆転している。 この現実、人類を救うべく,選ばれたのがネオだった。 何もかも衝撃的な世界に足を踏み入れたネオは次第に覚醒していく。

<感想>
 ネオは救世主としてマトリックスが現実世界に呼ばれてくる。 モーフィアスの言葉からネオはモーフィアスを始めとする人類に希望を与える,創造主(マトリックスの?),イコール,ネオだということを表しているようだ。 ネオは創造主の生まれ変わりとも考えられる。
 ザイオン(現実世界で生まれた唯一の人々が集まる町)の子のような(人から生まれてきた)人々もいれば、言い方は悪いが,機械に栽培され,この世に生を受ける人々もいる。後者はマトリックスから現実へやってきて,現実世界で新たに生を受ける。 創造主の生まれ変わりかもしれないネオを仮にその通りだと仮定すると、現実世界で死を迎えた人はマトリックスで再び目覚めて(生まれ変わる)、再び現実へ戻ってくるというサイクルにあるのかもしれない。
 不思議の国に迷い込んだネオは自分をあるべき場所へと導いた,モーフィアスが自己犠牲をしてまでネオを守ろうとした時から,自分の使命を知り、また,運命を受け入れ、救世主として動き出す。 まさにその瞬間からネオがとてもカッコイイ。 本当の意味で目覚め、動き始めたネオは救世主にしか見えない。
 CG技術を駆使した様々なアクションシーンがあるけれど、一番かっこいいと思ったのはネオがネオにしか成しえない技でもってエージェント・スミスに一撃を食らわすラストシーンである。トリニティの愛で持って,死の底から帰還したネオはスミスより圧倒的な力の差をつけるわけで、銃弾をとめるシーンがとても斬新かつ革新的である。
 ネオとトリニティの絆がネオに与えた,力の大きさがわかる。 ネオはマトリックスにいて,トリニティーは現実世界にいて、現実世界で眠るネオの体の側にいる。現実世界において,危機にみまわれ、死に近いネオを必死に救おうというトリニティー…その場面がとても美しい。
 マトリックスでネオが傷つけば、現実世界で眠るネオの肉体も傷つく。仮想現実にいても,そこに意識がある以上,マトリックスでの傷は心が現実にして,現実世界の体が傷つく。 マトリックスと現実世界はつながっていて、マトリックスへ潜入する時、“意識”がマトリックスへ飛ばされ、マトリックスではその意識が自分の体と形を作り出す…まるで人が眠る間に夢をみるように。この設定もまた斬新。
 シリーズ第二作・第三作と続き、それらもまた,おもしろいけれど,この第一作目で終わっていた方が良かった…かもとも思える。 しかし、この『マトリックス』、映画界に革命を起こし,その後の映画に与えた影響は大きい。

前回の記事

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by jd69sparrow | 2009-02-10 17:50 | 映画タイトル ま行

Mr.インクレディブル(2回目)

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<イントロダクション>
 スーパーヒーローはテレビの中だけのもので、現実的な存在としてぇあないと考えられそうだが、実は違うと思う。 スーパーパワーはなくても、時代を変えた立役者から身近な人生の先輩達など、身近にいる。 人から見て輝いて見える人がスーパーヒーロー。 例えば幼い子供から見た父親である。
 スーパーヒーローの需要は様々にしても人々にとって必要な存在と言えるだろう。 ここでは人々 世界の平和を守るというのがスーパーヒーロー達のへの見方が変わり、表舞台ではなく、身を隠すべく,普通の人々の中に紛れ込むという大きな変化がある。

<あらすじ>
 Mr.インクレディブルは町で自分を求める声がないか常にアンテナを張っている。 大きな事件でも,また小さな親切であっても、助けが必要なところにはすぐに飛んでいく。 輝かしい日々に思えたが人助けのつもりでビルから飛び降りた人を助けた時、「助けはいらなかったのに…」と大きな批判をかうことに。 その日を堺にMr.インクレディブルの人生は変わり、やがてヒーローたちは人々からバッシングされるようになり、人々の目の前から姿を消した。 その後、同じ超人であったイラスティガールと結婚し長い年月が経った現在、Mr.インクレディブルはかつてのヒーローの面影をなくし、ストレス社会に生きるサラリーマンとなっていた。 そんなある日、自分がヒーローだったことを知る,謎の人物からMr.インクレディブルにヒーローとしての仕事の依頼が来る。 しかし、それは罠であった。 インクレディブルがヒーローをやっていた頃、彼に冷たく突き放されたと思い込む当時、ファンだった少年,自称・インクレディボーイ、現在のシンドロームの逆襲・逆恨みなのである。
 父親と同じくスーパーパワーを持つインクレディブルの家族達はシンドロームにはめられて身動きできない父親を救うべく、危険を顧みることなく 戦いの旅に出る。

<感想>
 超人が出てくる話とあれば、その能力というのが一つの魅力。 その見せ方というのは、格好よく見せたり、また,コミカルに見せたりと様々である。 後者の方はとてもユーモアがあり、コメディのようでもある。 前者は物語が進むにつれ,ステップアップされるのが楽しい。
 ヒーローものとしてだけでなく、家族の絆を描く話としての魅力もある。 Mr.インクレディブルの家族は幸せな家庭でありながらも個人個人が悩みを抱えている。 戦いを通し、家族で危機を乗り越えることで(一致団結する)、彼らは壁を乗り越え、絆が深まるのである。 つまり、家族で力をあわせれば困難を乗り越えられるという強いメッセージがある。

前回の記事

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by jd69sparrow | 2009-01-23 22:06 | 映画タイトル ま行

名探偵コナン 戦慄の楽譜

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 『名探偵コナン』と言えば、コナンや少年探偵団たちの推理と冒険の物語であり,工藤新一(コナン)と幼馴染の毛利蘭との話であるが、もう一つ(特に劇場版で)印象に残る,魅力なのが“音楽”である。 作品の後ろで流れる音楽は物語を演出するもので、第二の主役的な役割を担っていると思う。 その“音楽”が今回のテーマ。 
 今度は後ろで流れる音楽があって,物語に影響を与える,登場人物的なポジションにある。 そうした,スポットライトがあてられた曲には意味がある。 いつ,どんな場所・状況で…というふうに思考をめぐらすと,きっとそれがわかってくるのだろう。
 映像マジック(最新技術)がふんだんに使われ,アニメーションと言えど,とても迫力のある,スリリングなストーリー展開だ。 
 あらすじ。 音楽の名門,堂本アカデミー、そこで今度 コンサートが開催されることになった。 コナンや蘭たちは園子のつてでコンサートのリハーサルから本番までを見学させてもうらうことになった。 美しいヴァイオリンの音色が響き渡るステージ…この楽しいひと時の一方で、事件は起こっていた。 死傷者が出た事件から始まり,連続殺人へと続く。 共通するのは被害者たちが皆,堂本アカデミーの関係者であるということ。また,コンサートでソロを歌うソプラノ歌手・秋庭怜子も堂本アカデミーの卒業生である事から、見えない殺人者の標的となる。 コナンは標的となった人たちを守るために,事件の真相を追う。
 コナンの映画の中には推理やアクションがメインとしてあり、ストーリーが進んでいく。 アニメーションならではのアクションもあるけれど (前述したとおり)実写映画に劣らない、あるいは実写映画なみ。 アニメーション技術が発展していく中で『コナン』もまた、進化をしていくわけで,平面的にしか見えなかったものが,実写で映し出された映像のように立体的に映し出される部分があり,描かれる。
 『戦慄の楽譜(フルスコア)』では、コナンが持つ推理力などの探偵としての力以外の,意外な能力が明らかにされたり,新一と蘭との過去がクローズアップされる。 そして、その二人の過去がある事とつながりをもたらしているという…。 無関係だと思われた物事が,思いもよらぬところでつながっていたり、つながったりもする。 世間は広いようで狭いということもある。 今回のこの“つながり”はとても素敵なものであり、現実にもあったらと思う。
 アニメーションつぃての技術、シリーズの話ごとに異なる,各々の作品の特色、毎回大胆なアクションなど、いろいろな魅力がある中で、にさん気づいたことがある。 毎度お馴染みのオープニングである。 第一作からだとか,シリーズをかかさず連続で見ている人には見慣れているが、とても親切だと思う。
 実写のシリーズもの、あるいはドラマからの映画化では中々見られない光景だ。 前作を見なければ,あるいはドラマ版を最後まで見ていなければわからにあ部分がある作品は それはそれで良いと思うが。 そのとは言え、今夏も目だって変化がない(オープンニングが)と思いきや…。 長い間似たようなパターンを見た後の変化は新鮮で,なおかつ面白い。 良い意味でふいをつかれたサプライズ?がいい(『コナン』の場合、劇場版での一つ一つの話が独立した話だから前の話を知らない上での混乱もないに等しい)。
 今回の話の終わりはしんみりした…また,綺麗で今までの中で一番良いかもしれない。

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by jd69sparrow | 2008-05-28 00:16 | 映画タイトル ま行

魔法にかけられて

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<イントロダクション>
 なんと言っても特徴的なのが、アニメから実写へ移るというコンセプトである。 一つの映画に二つの全く異なる世界が存在しているのだ。 ドリーミーな世界と広い世界だけど、リアルな世界(現実世界)である。 おとぎ話の住人と現実にいる人、どちらも相手に自分の世界に通用しないこと,共通することとある。 この2つの世界観がミックスされ、新しいジャンルをつくったのがDisneyの『魔法にかけられて』である。

<あらすじ>
 ジゼルはいつものように小鳥やリスといった,森の動物たちと会話をし、素敵な王子様とめぐり会えること、そして真実の愛のキスをすることを夢見ていた。 そんなある日、ジゼルはトロールに襲われ,そこをエドワード王子に救われる。 二人は一瞬で恋に落ち,翌日には結婚をする約束まで交わした。 それを良しとしない人がいた。 エドワードの継母で女王のナリッサである。彼らの結婚で、ジゼルに自分の地位を奪われるのではないかと恐れた女王は結婚式の前にジゼルを騙し,城にある井戸へ突き落としてしまう。 女王の正体は邪悪な魔女だったのだ。
 井戸の奥へ奥へと落ちたジゼルがたどり着いたのは、なんと現実世界,現代のニューヨークだった! そこで彼女はバツイチで弁護士のロバートに出会い、異世界に来て,初めて 人の優しさに触れる。 ジゼルが異世界に(おとぎの世界から)追放されたことを知った,ジゼルの友達,リスのピップと、エドワードはジゼルを追って ニューヨークにやってきた。 しかし、その背後では魔女の目が光っていた…。 果たして、ジゼルは王子と再会し、彼女の国,アンダレージアに戻れるのだろうか。

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<感想>
 おとぎの世界からやってきた,その住人たちは、まさにおとぎの世界から飛び出てきたというくらい,そのままで形を崩さない。 滑稽にも見えるが、純粋で素直、そして夢を大きく持つ,ジゼルの心は現実の世界を和らげる力を持っている。 ジゼルとロバートはそれぞれ、理想主義と現実主義という正反対な性格の持ち主。 ロバートが夢見心地なお姫様にあっけにとられる以上に、ジゼルは現実世界の広さや、人々の様子、そして,自分とは全く反対の考えの持ち主にカルチャーショックを受けたことだろう。
 ロバートとジゼル,お互いはお互いに影響を与え,心も変化し始める。 全然気が合わないように思われた二人にも一つ共通することがあり、それは真実の愛を知らず,互いに恋人がいるということである。 そんな状況にあった二人は,はじめは互いの価値観の違いに驚くばかりであったが、次第にそれぞれが持つ良さを見出し、そこから多くを学んでいく中で二人は変わっていくのだ。
 特にジゼルの変化は大きい。 後半になるにつれ、シンプルで控えめなスタイルになるけれど、同時に女性らしく,また美しく成長していくのである。 それは外面的なものだけではない。 変化していくジゼルにもなお,好感が持てるのは、やはり彼女の根本的な部分が変わらず残っているからだ。
 様々なディズニーの(過去の)作品をまとめた感じであるというのが映画を見た直後の感想であるが、実際,いろいろなディズニーアニメのパロディやオマージュということがわかった。 あらゆる面でディズニーファンを喜ばせるものであwり、とにかく(この作品について)知れば知るほど,すごいところに気づくと思う。
 そういった細部にいたるまで,施されたこだわりを発見することや媒体が変わって登場する,これまでのディズニーを見て楽しむなど、ストーリーの他にも見所はたくさんある。 このパロディはとても楽しく,見ごたえがある。
 ジゼルの変化、ディズニー作品による,ディズニー作品のパロディやオマージュ、リスのピップ…笑いあり、ロマンティックありの物語である。 そして、ジゼルの可愛らしいキャラクターが魅力的だ。

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by jd69sparrow | 2008-03-30 23:00 | 映画タイトル ま行

ミス・ポター

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 1900年代初期。 世界的に有名なウサギが産声をあげた。 その生みの親はビアトリクス・ポター、「ピーター・ラビット」をはじめとする数々の動物を主人公にした絵本を世に送り出した人物である。 舞台はイギリス。 この頃はまだ女性が自由に世の中を動きまわれなかった時代で、それ以前の文化の名残りがまだ強く残っていたのである。 少し前に映画化された「プライドと偏見」とそう変わらない時代背景なのである。 月日で換算すれば間は長いのだが、「プライドと偏見」で主人公エリザベスが生きてきた世界とほぼ同じなのである、しかし時は20世紀。 時代が変わろうとしていた頃で、物語が進むにつれ時代の姿は少しずつ変化していくが、女性の生き方はビアトリクスが生きた時代も長く続いたようだ。 女性はほとんどまともに働くことが叶わず、母親の決めた,自分の身分に合う相手と結婚しなければならないという現状は「プライドと偏見」の時代とまるで変わらない、つまり女性は窮屈で限られた空間の中で暮らしていたということになる。 そんな時代の中で、現代的な考えを持つビアトリクスは“行動”に出た、それは当時では考えられないことだろう。 身分違いの相手と恋愛をするだけでなく、仕事を手にしたのだから。 長い間、“一人”の生活を送り続けてきた彼女に訪れた一つの“運命的な出会い”。それがこの物語の重要なキーワード。 女性にとって厳しい社会を強く生きた女性、それがビアトリクス・ポターである。
 当時のイギリスでは女性が職を持つということは中々困難なものだった。 それゆえ、早くから絵を描くことに興味をいだいていたビアトリクスは簡単には彼女の“友達”を理解してもらうことはできなかった。 しかし、そんな彼女にチャンスがやってきた。 原稿を手に訪れた出版社,ウォーン社を経営する兄弟の末の弟を通して,ビアトリクスはようやく仕事を手にするのだ。 彼女についた編集者はノーマン・ウォーン、彼はビアトリクスとの仕事が彼にとって編集者としての初めて仕事だった。 この出会いがビアトリクスの未来を切り開くこととなった。 彼女は様々な出会いを重ね、彼女自身の持つ想像力(インスピレーション)で次々と愛らしい動物たちが生まれ、子供たちに届けられるようになる。 彼女を成功に導いたのは、(くどいようだが)“出会い”なのだ。 彼女が経験した“出会い”が一つでも欠けたら今とは違っていたことだろう。 この物語は「ピーター・ラビット」ではなく,ビアトリクス・ポターの半生をつづった物語である。
 人生をつづるというとドキュメンタリーとか固いイメージができるかもしれない、実際はファンタジーやラブストーリー、そしてドラマがそれぞれ入り混じったものなのである。 ビアトリクスが描く動物たち、それはみな,彼女の友達。 彼らはまるで生きているかのように絵の世界の中で生き,動き回る。 その世界がとてもファンタジー。動き・表情、どれも生き生きしている。 
 ビアトリクスは動物たちと彼らを取り巻く自然を愛した。 その愛情は深く、愛情は形へと変わったのである。 それはイギリスで大変美しいとされる自然である。 彼女はたとえ,目の前に大きな成功があっても決して欲におぼれることなく,それらを自分のためにではなく人・自然のために使ったのだ。 今でも彼女の描いた物語のインスピレーションが得られた思われる場所や、彼女自身に直接つながる緑豊かな場所は残されているとか。
 話で聞くと、彼女の描く物語は子ども向けであるのだが物語の随所には機転の利いた場所があり、それはきっと大人でも十分に楽しめる仕掛けであると思う。
 イギリスから発進したビアトリクス・ポターが生み出したキャラクターたち、世界的にそれらが広まり,日本でも絵本が出版されたり大きな反響が起こる。 私事であるが、幼い頃はこの「ピーター・ラビットのものがたり」の世界などビアトリクスの描く物語をよく聞かされ,また読み返したりととても身近な存在だったのだ。 まさにこの物語で育ったと言っても過言ではない。 ウサギたちがかわいい服を身にまとう、けれどそれは不自然ではなくて,むしろ愛らしい。
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by jd69sparrow | 2007-09-16 23:52 | 映画タイトル ま行

マザー・テレサ

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  生涯を貧しい人々を愛を注ぐことで救うために捧げた一人の女性、マザー・テレサ。彼女は神に使え,そして神を信じ行動した。 彼女はインドのカルガッタで貧しく飢えや病に苦しむ人々や子供や老人のために無償の愛を注いだのだ。 孤児の子供たちを始めとし、見捨てられた人々は山のようにいる。 一人の命を救うのも決して楽なことではない、しかしマザーは大勢の人々のためにそれをやり遂げた。 人々を救うことがどんなに大変なことなのか、宗教でぶつかり合うその場所で、自らの力で自分のためではなく人々のために何かをやることは難しいことなのかが思い知らされる。 誰に見守られることなく、静かに死へ向かわざるを得ない人々をマザーは決して見捨てたりはしない、しかし そこに暮らす人々もその日を過ごすことが精一杯に違いないと私は思う。 助けたくても助けることができない、他人の苦しみを見ても目をつむり自分の目の前の困難に立ち向かうしかない。 だからその苦しむ人々に対して思う気持ちがあっても中々行動にうつすことはできないのだろう。
 マザーの行動には決して偽りはなく、一人でも多く人々の命が虚しく消えることのないよう,救うことが彼女にとって全て。 自分の下に集まってくる孤児の子供たちを“自分の子供”だと言い、貧しい人々を“いつでも救う”と言うという彼女の言葉はまぎれもなく彼女の心の底からの言葉なのである。 マザーの言葉一つ一つに愛があり、雨の雫のように心にしたたり,しみる。 
 マザー・テレサはインドにある修道院で修道女として神に祈りを捧げていた。 インドという国ではヒンズー教とイスラム教とがぶつかりあうという内紛が起こっていた。 マザーには宗教に対する差別という文字なかった。 誰か傷つくことがあれば例え誰であれ救う。 しかしその彼女の行動はこの国にとっては大問題。 その行動に賛同する者もいれば、異を唱える者もいる。 だから彼女の行動は小さいようでインドの国にとっては大きなものだったのだ。
 マザーは貧困に苦しむ人々の中で彼らと同じように暮らした。 彼女の信じるもの神の慈悲であり、自分のためではない。ただひたすら神による救いにより人々が少しでも豊かな生活を送り,笑顔でいられることが彼女の願いなのだ。 強い機関に頼ったり、利益を考えるよりあくまで“人の手”に直接触れ合うことで,自分たちの力で人を救うことに重きをおいた。 決してそれらの行動を大きくしようとはしない。自分のためであってはならない、そこに彼女の強い意志がある。
 彼女は新しい修道院を作り、また“平和の村”を築き上げることを熱心に考え、行動した。小さくこつこつと少しずつ。 “神はせっかちではないのだから”。 彼女の決意の象徴と言うべきだろうか、着飾ることのない衣を身にまとう。 それは清らかな白に聖母マリアをさす青、そして足元には自由をあらわすサンダルを。 裕福なものではないのその衣こそがその後に起こす彼女の行動の真実の印。
 マザーは“祈り”が人々を救う手段であると言った、つまり誰もができる他人に対してできること(これはこの役を熱望していたオリビア・ハッセーの言葉でもある)。 “一人が誰かのために何か一つでも良いことすれば、また祈ることをすれば世界は変わる”という言葉はシンプルで心に響く言葉である。 シンプルであることが大切、シンプルだからこそ伝わりやすいからだ。
 世界には資本主義や社会主義とあるけれど、世界全体で見れば資本主義国に等しいのではないだろうか。 社会主義は人々に貧富の差はない、資本主義(言い換えれば実力主義)は良く言えば努力した者が救われる素晴らしい世界。 逆に悪く言えば貧富の差が激しいということになるだろう。 その資本主義の短所がつまるところ、世界を表すとも考えられないだろうか。
 聖書にはいろいろな偉業を成し遂げた人物がいる、まさにマザー・テレサは聖書に刻まれるべき女性だと思う。 “聖母マリア”という言葉が出てくるが、マザーもまた聖母という言葉がふさわしい人物である。

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by jd69sparrow | 2007-09-13 23:28 | 映画タイトル ま行