カテゴリ:映画タイトル や行( 4 )

矢島美容室 THE MOVIE 夢をつかまネバダ

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<あらすじ>
 アメリカ・ネバダに暮らす,母親一人と娘二人。 母マーガレット、高校生のナオミ、小学生のストロベリー。ネバダで矢島美容室を営む一家である。 ある日、一家の大黒柱・徳次郎が家にあるお金を全て持ち去り,家出をしてしまう。あまりのショックを隠せない三人。 しかし、三人はいつまでも落ち込んでいる場合ではなく,なんとか生きていこうと考えた。 マーガレットはかつての栄光を取り戻すべく、ステージに復帰、ナオミは夢である芸能界デビューのステップとして,“ミス・ネバダ”のコンテスト出場、そしてストロベリーはソフトボールチーム,ピンクボンバーズで ライバル,ブラックボンバーズとの試合に挑む…。 家族の絆と笑いのエピソード満載の,アーティスト「矢島美容室」デビューまでの道のりを描いたの物語である。

<感想>
 ミュージカル仕立てになっているのが、まず驚いた。最初の矢島家の紹介はコメディタッチに描かれており、ミュージカル場面が一番の見所だと思った。 もちろん、ドラマの部分も面白い。 実際にアメリカの映像作品にあってもおかしくない程のリアリティが再現されている。 例を一つあげるとしたら『ヘアスプレー』である(始まりのところなど)。 個人的に印象深いのが、スローモーションにカメラだけが動いていくところである。
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by jd69sparrow | 2010-05-10 12:00 | 映画タイトル や行

ヤッターマン

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<イントロダクション>
 パラレルワールドと現実との中間くらいの感じ。 でも、ちゃんど映画の中の世界は生きている。 漫画を実写化し、その背景は漫画のように繊細だがとてもリアルで、その中に人がいても全く違和感がない。 生々しい感じが監督のカラーなのだと思った。 この世界観が好きで、子供から大人までに愛されるアニメがどうなるのかが気になり,映画を見るに至った。 子供だましではなく、世代関係なく楽しめる映画。
 三悪対ヒーローの,ヒーローものアニメの王道をゆく作品でありながらも,エンタテインメントとして見られるのはアニメそのままのイメージにあった配役と作り手が細部までこだわりぬいたからだと思う。

<あらすじ>
 玩具店の息子・ガンちゃんと電器屋の娘・アイちゃんは,泥棒をし悪事を働くドロンボー一味といつも戦っていた。 ドロンジョ、ボヤッキー、トンズラーの三人組からなるドロンボー一味は泥棒の神と名乗る,ドクロベエの出す指令に毎回従い,どくろストーンを追っている。 それを阻むヤッターマンに対抗すべく、インチキ商売をやって稼いだお金でロボを作り,ヤッターマンとそのロボ・ヤッターワンと対決するのだ。 ドクロベエからお仕置きをくらわないために。
 ガンちゃんとアイちゃんは海江田博士の娘・翔子に頼まれ,どくろストーンを探しに行ったきり戻ってこない,父親を探して欲しいという依頼を受ける。 
 どくろストーンを巡り,その行く先々でヤッターマンとドロンボーとの闘いが繰り広げられる。

<感想>
 ヤッターマンの変身場面や戦闘場面のかっこ良さや、勝利のダンスも楽しいのだが どちらかというとドロンボー一味に注目をしてしまう。 ボヤッキーとトンズラーというキャラクターの濃い二人に,この人をおいて他はいないのではないかと思えるほどイメージのあう配役されているからだろう。 作り手の言葉にもあるように見た目だけではなく,中身あっての面白さが魅力的だ。 ドロンジョを含め,彼らの行動はパターン化されているのに飽きさせない。 メカを作る前に何かしら商売を始める。 それに関連付けられたメカが次に作られる。 だから毎回,彼らがどんな商売をし、どんなメカを作るのかという楽しみができる。 
 印象深いのはヤッターマンに敗れて,荒野を三輪車で走るところと、三人が歌う“天才ドロンボー”の場面だ。元となるアニメは知らないのに前者の場面が「ヤッターマンと言えば」で思い出されるというか、『ヤッターマン』らしい場面に思えるのだ。 “天才ドロンボー”の歌も『ヤッターマン』における名物場面という感じがする。 そんなドロンボーという三悪に愛着がわくのもこの作品の魅力の一つ。 ドロンジョはドクロベエに忠実で、ボヤッキーはドロンジョに一途(?)で、トンズラーは情に厚い。 三人ともドクロベエからの指令がなければ、マジメに生きていたかもしれない。 というか、(プログラムにもあるが)彼らはドクロベエに逆らわず,せっせと仕事をこなしている時点でマジメなのである。
 一方、ヤッターマンの印象に残るところとしては一号が最後のほうで二号に語るところである。 「正義とは守るだけじゃない」という。 これは翔子一人の戦いの場面でのもの。 つまり、親の子供への愛情のように 手助けすることばかりではなく、子供が頑張る様子を見守ることも愛情だというのと同じことだ。 超えるべき試練のために“勇気”を出す。 結果、翔子は“勇気”を一つ,学ぶわけである。
 ピクサー作品のような楽しみ(過去の関連作品を思い起こさせるもの)があったり、何故か現実にあるモノの名前をもじってあったりと,物語だけでなく 映像に映ってるもの隅々まで見逃せない。 
 現実にないものがリアルに見える、また,これも言葉を借りるが“毒っぽさ”があるのも作品の面白いところだと思う。 

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by jd69sparrow | 2009-03-12 11:28 | 映画タイトル や行

容疑者Xの献身

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<イントロダクション>
 原作とは少し違うテイストのドラマ版『ガリレオ』は変人ガリレオこと,大学准教授・湯川学と熱血的な刑事・内海薫のコンビのミステリーである。 原作では草薙俊平と湯川の二人が事件解決に挑む。 つまり、原作での草薙の役割がドラマでは薫にあたる・
 薫は感情的で、刑事という仕事に熱意を燃やし,その刑事としてのカンを頼る。 一方、湯川は物理学者として天才的な頭脳を持ち,常に論理的な変わり者。 非現実的、不可能、ありえない事を嫌う湯川はそういった事件を聞くと、真相をとことん追求する。 マジックにタネや仕掛けがあるように、非論理的に思われることにも必ず、理由やトリックがあると証明してきた。 結果的には警察への協力しているわけだけど、湯川の目的は“ありえない”を“ありえる”と証明することというのが、おもしろいところだ。 わからないことは徹底的に解明して、自分を納得させないと気がすまない性格の持ち主で、謎解きモードになると、自分のまわりの音は一切遮断され,彼だけの世界になる…というくらいの集中力が発揮される。 そんな正反対で性格・個性の違う二人難解な事件の謎を解き明かす。

<あらすじ>
 弁当屋を営む,花岡靖子の元夫が変死体という形で発見された。 真っ先に容疑者として名があがったが、この事件には謎や不可解なことが多かった。 例えば、被害者が殺害されたと言われる日、靖子には完璧すぎるアリバイがあるということだ。
 薫や薫の先輩・草薙もかりだされるが、靖子を犯人だと決定付ける根拠はなく、捜査は難航。 そこでガリレオ(湯川),天才と言われる湯川だが、今度の事件の裏には湯川が唯一「天才」と認める石神がいた。 石神は湯川の大学時代の同期で友人。 そのために湯川は苦しめられることになる。
 仮説をたて、実験によって答えを導き出す物理学者と、頭の中でシュミレーション(して答えを出す)する数学者という,全く違うタイプの対決である。

<感想>
 ドラマシリーズにおいても、毎回の事件のトリックはとても凝っているが、『容疑者Xの献身』での敵の仕掛けるトリックはそれらをも上回るかもしれない。 湯川も石神もお互いの実力を認め合っているだけに、手ごわい敵どうしとなる。 石神は湯川の鋭さを軽快し、事件の謎を複雑化するし、湯川はその複雑にはりめぐされた謎の中に気がかりな点を見出し、それを追っていく。 そんな二人の頭脳戦の描写が凝っていて,おもしろい。
 湯川、内海、草薙の三人の場面はこの作品を明るいものにsていると思う(基本的にこの映画版はドアラマ版よりシリアスで、三人のやりとりのところでも真剣なものもある)。
 言い合いをする湯川と薫を草薙が間に入ってフォローする感じになったり、湯川の意外な一面が見れたりするからだ。
 今まで見ることのなかった,湯川の感情的な部分、石神の行動の理由という二人の人物の物語が中心にストーリーが展開という二つの局面から見ることが出来るのが、映像化ならではの見ごたえだろう。
 山登りを数学にたとえたり、スポーツの物理的に考えたりする場面はとてもリアリティがある。 学問的には難しいジャンルだけど、日常のことなどが、こうして数学や物理学で考えられるというのは、この二つの学問が(また、日常の出来事)おもしろく見えるような気がする。
 印象深いのは、二人の男の涙。 愛や友情という温かいものを目の前に彼らから冷静さが消え、感情がどっとあふれる。 “愛する人のために自分の人生という大きな代償をはらう”という人を思う強さ、そんな友を思う優しさが、この作品の人間ドラマとしての深さを物語っている。 登場人物が何気なく言う一言が謎を解く鍵になっている,どのシーンも見逃せない作品だ。

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by jd69sparrow | 2009-02-02 23:13 | 映画タイトル や行

妖怪大戦争

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 「ゲゲゲの鬼太郎」など妖怪作品の巨匠水木しげるによる「妖怪大戦争」。 CGアニメーションではなかう実写としての映画作品、出てくる妖怪たちのほとんどが人の演技によるもので、着ぐるみを着ているわけでもない。 CGアニメーションにするとただ可愛い妖怪たちとしか移らないかもしれないけれど、それを人が体を張って演技をするという妖怪たちがよりリアルに見えるという要素であると思う。 いったんもめんや ぬりかべといった「ゲゲゲの鬼太郎」でお馴染みの妖怪たちの登場のほか、日本のありとあらゆる妖怪たちが画面いっぱいに登場する。 不気味なものから可愛らしさがあるものなどそのタイプも様々であるが多くが愛されるべきキャラクターなのだ。 人のような温和な心も持ち、楽しむときも人間たちがやるのと同じである。 次々と妖怪が出てくることでちょっとした驚きだったり恐れが印象づけられるが、決して背筋が凍るようなものとは違う。 恐さを追求するのではなく、妖怪のおもしろさを人に伝えようという作る人たちの意図が考えられる。 妖怪たちの個性も様々でどのキャラクターも魅力的であり、彼らの役を多くが日本の歴史にひそむ妖怪たちが勢ぞろいである。
 少年タダシは大天狗が住む山の近くに暮らしている、彼はお祭りの日「麒麟送子」に選ばれた。 「麒麟送子」に選ばれた者は人々を救うといういわれがあった。 弱虫とずっと言われてきたタダシはその勇気を試されることとなる。 人々が生活を送る一方で妖怪たちは毎日を過ごし、妖怪たちが暮らす影では人間に対して強く怒りを持った加藤保憲の姿があった。 彼はもとは人間であったが、魔人としてこの世に蘇り、怒りの対象である人間たちに復讐をとげるため妖怪たちを集め,ある手段にでていた。 それは人間たちにより見捨てられたガラクタたちと妖怪を怒りのパワーで融合させ、東京の町を攻撃し,そこは妖怪たちが大戦争を繰り広げる戦場と化すのである。
 様々な日本の妖怪たちが見れることも楽しみのひとつ、そして妖怪たちを演じる俳優たちも個性派ぞろいで目白押し。 演じる俳優たちの持つ個性が生かされているし、またその個性にあった役柄であるように思う。 小豆を数えることに余念がないもの、顔を大小できることのできるもの、遠く離れた場所のビジョンを見ることの出来るものと役も演じる役者も個性がすごく強いものもあるし,妖怪の定番、傘の妖怪、雪女、ろくろくびなども登場したりと妖怪の仲間たちは実に様々。  妖怪は日本にしかなくて決してマネのできることのできない貴重なもので,だからこういった作品というのは日本の財産ともいえるし、誇りにすべきでもあると思う。 
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by jd69sparrow | 2006-11-21 17:54 | 映画タイトル や行