カテゴリ:映画タイトル ら行( 43 )

Lost In Translation

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 海外映画では最近、少しずつ日本が映画の舞台で選ばれることがある。 とは言え,最近始まったものではないかもしれないが。 全ては日本でないけれど日本が侍の時代が終わる狭間を描いた「ラストサムライ」、パリの刑事と日本にいるその娘が東京を駆け巡る「WASABI」、「ワイルド・スピード」シリーズの第三弾「TOKYO DRIFT」などといったものがあり、この映画,「ロスト・イン・トランスレーション」もまた日本を描いたものである。 日本から見た日本という国、外(外国)から見た日本とは違うけれど、それを強く痛烈に感じさせたものの一つがこの作品だ。映画が作られたのは数年前であるが、今私たちが見る日本とは明らかに違いがあると思う。 しかし、いろいろと見方はできるけれど日本人の特徴をよくとらえているのは確かではないだろうか。100%とまではいかなかったとしても。 自分の国から見たその国と外から見たのでは違うのは両者の価値観からで、自分の国(以下、自国)からそう見えなくも外から見て写ったものは外にとっては本当なのだろう。  自国を完璧に描くのだってそう簡単なものではないかもしれないけれど、それ以上に他国を描くというのは難しいのだと思う。 「ロスト・イン・トランスレーション」という話は海を越えてやってきて,東京の大きな町に立たされた二人の男女の話である。
 ハリウッド俳優のボブ・ハリス(ビル・マーレー)はCM撮影のために,シャーロット(スカーレット・ヨハソン)はフォトグラファーの夫の仕事で東京へやってきた。 しかし二人の中にあったのは孤独、どんなに人々に囲まれていても時に孤独を感じることがある、まさに二人はそこに立っている。 互いに全く異なる文化に触れ、とまどいながらゆっくりと流れる時に,身をまかせていた。 ボブは日本人で通訳をかってでてくれた人でさえ英語があやふやに思われる中でしきりに彼にとっては理解に困難な日本語による
(仕事の中での)要求を虐げられる毎日を送り、シャーロットは自分を置いてきぼりにする夫の背中をただただ見つめていた。 そんな二人は偶然に同じホテルで出会い、お互いがそれぞれ持つ孤独感を共有していく。
 恋とは違うけれどお互いがお互いが持つその共通するものから安心感を覚え、孤独を少しずつ少しずつ時間をかけて取り去っていく。 彼らは広い広い大都会の中でよき理解者をみつけたのである。 時間が無常にただただ過ぎ行く。 
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by jd69sparrow | 2006-10-21 00:30 | 映画タイトル ら行

レッドドラゴン

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 「人間の中にはモンスターがいる」、以前このような言葉をどこかで耳にしたことがあるように思う。 それが目覚めるかどうかはその人の生き方・環境化しだい、ゆえにいつなんどき表れるかなんてその人自身だってわからない。 しかしそれは決して目覚めさしてはならないということだけは事実だろう。 悲痛といった悲しみの連続、それは時に人をそれと化すことを可能とするのではと思う。 人はそれに屈服してもならない。
 レクター博士シリーズ「ハンニバル」に続くのは「レッドドラゴン」。 レクター博士を捕らえた男,ウィル・グラハム、レクター博士、そして“レッドドラゴン”と自らを称す男。 彼ら三人の中で死をかけた駆け引きが繰り広げられる。 ウィル・グラハム、彼は元・FBI捜査官、彼の捜査の力はその優秀さゆえにレクター博士を独房に閉じ込めてしまうほど、彼は現場から犯人の意図や行動を突き止めるという能力を持っている、つまり想像力に長けているのだ。 レクター博士は頭脳は計り知れず、ちょっとやそっとでは彼の心理を理解すること、見ることすらできない。 そんな彼はウィルにとって敵であるが事件解決のための助っ人でもある。 レクターがウィルに口にすること、ましてや他の警察官に口にすることなど容易なことではない。 “物事を表面でしか見ない”、“彼(レクター博士)はなんでもないところも見る”といったことが頭に残る。 彼は一般的に見たら気違いだとか思われるかもかもしれないが的を射たことも確かに彼の言葉の中にあるのだ。 思うに、ヒーローと悪役がいるのがことの原理であるが、悪が言うことにも説得力が必要なのかもしれない。 説得力や筋の通った事実などがあるからこそ“その”悪というものにただむごいだとか、ひどいだとか言った概念をいだくのではなく、悪役として魅力があって、そしてそれが作品を盛り上げる一つの要素で引き立たせさえするのだと思う。
 知能犯、それはためらいはなく,ゲームや儀式として自分のその仕事をなしとげていくわけで善がその高い高い壁を乗り越えていくかがおもしろさへの鍵。 悪役は悪役の魅力を失うころもおおかたない。 悪であるものが善に手を貸すという点でもおもしろい。 “変貌”、“進化”そこからくる“脅威”とがある。
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by jd69sparrow | 2006-10-13 01:09 | 映画タイトル ら行

LITTLE MISS SUNSHINE

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 ミス・カルフォルニアに憧れを持つ女の子がいた、彼女の名はオリーブ、彼女の夢は“リトル・サンシャイン”のコンテストに出ることだった。 この物語は自分自身にちょっぴり自信が持てない小さな女の子の挑戦と彼女とその家族(フーバー一家)の絆の物語。
 オリーブには4人の家族ともう一人、新らたにフーバー一家に加わった家族がいる。 口げんかの絶えない両親と,全ての人を嫌い,心閉ざし口をも閉ざしているお兄さんのドウェイン、ちょっとクレイジーなエドウィンおじいちゃんと叔父さんで家族,特にドウェインとコミュニケーションをとり,働きかけようとするフランクがいる。 両親がたびたびケンカすることもあるけれどそれども賑やかで家族一人一人が個性豊かである。 ダンスコメディであり、ホームドラマとも言えるだろう。
 オリーブのおじいさんはクレイジーな部分も多いけれど温かさも持っていて、ドウェインはいつも無表情で何に対しても無関心,だけどその悪態ぶりは時にユーモラスでもあった。 彼とフランクおじさんとのコミュニケーション、つまりやりとりがおもしろいのだ。
 家族たちはオリーブを輝かせることを強く望んでいた、とりわけ父親リチャードと母親シェリーは、そしてエドウィンじいちゃんもまた同じくらい望んでいた。 そして“リトル・ミスサンシャイン”に出場させてあげ,オリーブの夢をかなえさせたかった。 彼ら(フーバー一家)には様々が襲うけれど彼らの奮闘ぶりはすごかった。 これこそが家族が一つになる瞬間なのだ。 観る者はそんな彼らの様子にたくさんの笑みをこぼすことだろう。 むしろ笑いが絶えない。 彼らは時に大胆でもあった。 数々の困難を乗り越えることで家族の絆が深まり、ふさぎがちだったドウェインにも変化が起こる。
 クライマックス、オリーブの小さなハートはまわりのレベルの高いライバルたちからくるプレッシャーで緊張感を高まらせ,押しつぶされそうだった。 しかし彼女は負けずにそのプレッシャーと戦った。 彼女は“サンシャイン”のように輝く。 彼女の“サンシャイン”のもとでは家族たちもが輝いていた。
 ハートウォーミングなコメディ。 思うにオリーブ自身が彼女の家族たちの“サンシャイン”である。 ラストはみながみなはじけ、彼らの中には切れることのない強い“絆”が見受けられた。 その瞬間,つまりその絆が見えるその時こそが本物の,一つの家族になった瞬間であろう。
 あらすじとしてはオリーブという女の子の“リトル・ミスサンシャイン”への挑戦と彼女と彼女の家族たちとの旅道中である、というかそこが主として描かれている。 そのコンテストの道のりこそがメインであり、家族の絆が大きく描かれるところなのだ。
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by jd69sparrow | 2006-10-01 03:21 | 映画タイトル ら行

lucky number slevin

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 世の中の常識から外れたこと,逆なことなこと,裏側のことなどダレも見向きはしない。 「“仕事”の邪魔をする者は誰だろうと消す」と男は言う。 この先に待っているものを予言するかのような幕開けである。 すべての始まりは競馬。男の口ら話されるその世界ではイカサマなど当たり前。 何が何でも“勝つ”ことがすべてで負ければ地獄行き。
 主人公スレヴィンは不幸続きで最悪な状況にあった。 しかし当人は落ち着いている。 そんな彼にさらなる不幸、いやむしろ逃れることのできない事態が彼を襲う。 人違いからギャングに協力することになったスレヴィンは事態よりいつも冷静。彼の頭のキレのよさ驚きの二文字。 そして彼の影にひそむ謎の男,二つに分かれ対立したギャングのボスたちの駆け引きが繰り広げられる。 
 それぞれ孤島のようなアジトの中で閉じこもるギャングのボスたち、憎しみあった両者の静かなる戦い,いがみ合いにスレヴィンはどう生き抜いていくかが見所。 次第にあきらかにされていく真実、終盤にかけてのどんでん返し、まさかの展開。 人物の最初のと最後の変貌、そのどんでん返しとはサスペンスだけにブラックじみたものだった。 しかしその結末は満足度の高いものとなることだろう。 すっきりとしていて最高 なラストが待っている。 最後に近づけば近づくほど興奮が高まり,真実がすべて明らかにになった瞬間 これほどまでのものだったのかと驚きと同時におもしろさやこの作品への思いがぐっと 高まるのである。 ギャングなどの悪の手下たちの中にはやはりお笑い担当がいるのがお約束ではあるが、シリアス一色のストーリーの中にあるというのはひときわおもしろいもので、“アメリカ”のスーパーヒーローの名がちらりとでた瞬間、これはおもしろいと笑みがこぼれてしまう。 このような小ネタというのは聞いているとおもしろいもので、時に豆知識にもなる。 よく耳をすまし、よく見ていると発見が多いし、知ることもできる。 やはり映画には“笑い”が必要なのだ! 
 メインキャストにはジョシュ・ハートネット、モーガン・フリーマン、ブルース・ウィルス、ルーシー・リューなど豪華キャストがいて、彼らが演じる人物の誰もがクールで頭のキレる人物である。 スレヴィンの影で動く謎の男(ブルース・ウィルス)が最高にかっこいい! オープニング、エンディングともにクールなものである。 まさにエキサイティング な作品だ。
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by jd69sparrow | 2006-09-27 02:55 | 映画タイトル ら行

ライオンキング

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 生命のサークル、全ての生き物―強き者も弱き者も―がこの中で生きている。 野生の動物たちは捕食者と被捕食者とが同じ大地で息をしている。 百銃の王ライオンがプライドランドをという動物たちの王国を統治している。ライオンに食べられてしまう動物たちも王国の王を敬い,王子の誕生にも盛大に祝う。 作品の中にムファサ王が息子シンバに語る内容“命あるものは全て関わりを持っていて和でつながっている、(ライオン)我々が死ねば草となり その草をシマウマが食べる”とさらにライオンはシマウマを食べる。 こうして“生命のサークル”で命と命でつながっているからこそ生き物は生き物を敬うべきであるということから、被捕食者である動物たちはライオンの王を敬い そしてライオンの王も彼らを敬うということ、敬意を持つ必要があるのだ。
 「ライオンキング」は“生命の尊さ”などに対し、強く,見る人たちに訴えかけている、そういったテーマがあったからこそ人々の心に伝わり,映画がロングランになったり再上映が行われたり,さらにはミュージカルになるなどして世界に広がっていったのだろうと思う。さらにもう一つあげるなら作品中に歌が取り上げられ、それがキャラクターたちの口から発せられる。ミュージカル要素がたくさんつまっていたというのもあるのだろう。 ディズニー・アニメーションにはこうしてキャラクターたちによる歌が数多くあっておもしろい。 そして、動物たちが登場し、それはディズニー風味で親しみやすくちゃんとリアルさも追究されているのだ。
 「ハクナ・マタタ」という歌は明るくにぎやかな曲。主人公シンバの仲間ティモンが言うように“過去は忘れ去るもの”ということである。 つらいことがあっても忘れてしまうことも大切、うじうじしても何も始まらない、というこおtだと思う。 しかし、時にはつらい過去の出来事と向き合わなければならない時がある。それがクライマックスで描かれている。 シンバは大人になり,学んでいく。
 ストーリーはプライドランドの王の息子としてこの世に生を受けたシンバがつらい困難を乗り越え、楽しみも学び,プライドランドの王になるまでという内容。 シンバの冒険であって、感動ドラマなのだ。 シンバが直面する問題というのはとても現実的で、それは私達にも共通することであり、この作品はその問題というのも一つ 見る者に問いかけていると思う。
 実物の動物を見て再現される,動物たちじたいや彼らの動き、アフリカという舞台を自然の背景、あるいは配色がより駆使されているといった特徴もい「ライオンキング」の魅力、前者に関してはディズニーの魅力である。
 字幕版キャストには大人のシンバにマシュー・ブロデリック、シンバの友ティモンにはネイサン・レインと「プロデューサーズ」コンビが共演、さらにシンバの叔父スカーにはなんとジェレミー・アイアンズ(「仮面の男」など)、そしてスカーの手下でハイエナ・トリオのリーダー的存在であるシェンジにはウーピー・ゴールドバーグ(「天使にラブソングを」など)とバラエティーに富んでいる。
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by jd69sparrow | 2006-08-21 23:59 | 映画タイトル ら行

ROCK YOU!

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 これは運命を変えた騎士の物語。 QUEENの“We wlll Lock You”に彩られ物語は始まる。 中世が舞台でヨーロッパでは貴族の血筋を受け継ぐものだけに許された競技があった、それは“ジュースティング”、馬上槍のゲームである。 勝負は三本勝負、先に得点を奪い取ったもに勝利が授けられる。馬にまたがった騎士、その手に握られるは槍。 いかに速く相手に狙いをつけて自分の槍が粉々になるほどの一撃を与えられるかで勝負が決まる。 先に二点を入れられれば残された一回で相手を落馬させたりするしか勝利と栄光を手にすることはない。 スポーツ競技なるもの貴族のみ楽しめる時代だったのだろう。 日本の歴史にもサッカーとバレーとが合わさったような遊びのようなものがあり、確かまりを蹴り上げバレーで味方の間でトスしあうといった感じのものである。 スポーツや遊びは貴族などの間で流行し、そこへは位の低いものは足を踏み入ることは許されない。 それらはまずこうした道のりを経て人々へと渡ってくるというのが一つの歴史だと思う。 “ROCK YOU”とはそのゲームと主人公が一目ぼれした美しい女性ジョスリンに向けられたものではないだろうか。 
 ウィリアムはエクター卿というジュースティングの選手に従事する身であった、彼にはローランドとワットという仲間がいて共に使えていたのだ。 道中チョーサーという物書きに出会い彼を招きいれ、ウィリアムは貴族になりすまし自分の運命を変えるためジュースティングの試合に挑んでいく。 幼き頃父親と交わした会話で彼は“自分の運命を変えたい”と願うことを父親に打ち明け、その願いを現実のものとするために運命に立ち向かい、そして恋もする。 恋と挑戦の二つの要素の合わさったスペクタクルである。 ウィリアムの心にはその二つが強く刻まれ、恋もしつつ騎士との栄光をつかみ運命を変えるために前へ進む,まっすぐな気持ちは着えることはない。 例え身分を偽ってもその心は、いや 彼そのものが騎士なのである。 愛と栄光をいとめられるかどうかというのが見所であろう。 貧しい身分にあったウィリアムは身分や出身で縛られた社会と世間を見返す、その姿がたくましく,かっこいい。
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by jd69sparrow | 2006-08-19 00:49 | 映画タイトル ら行

ラストサムライ

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 明治時代、西暦にして1870年代の日本(東京)がこの映画の舞台だ。 明治時代は日本が日本古来の文化から西洋文化へと転進し近代国家を目指した時代である。 刀を持った侍たちはまさに行き場を失いつつあった。 これは新撰組がたどった道からもよくわかることだろう。 日本には国家は帝国軍なるものを築き上げ、同時に侍を排除すべく“廃刀令”により彼らを追いやったのだ。 新撰組の最期をみてもこの映画に登場する侍たち同様,侍スピリットは持ち続けたのだろう。 とは言え 侍スピリットは消滅したわけではない、それはきっと私たちの中でも気づいていてもいなくても生き続けているはず。 日本から世界へと挑戦していく人々の心に宿っていることが見ている私たちの胸で感じられると思う、そしてその炎が消えない限りそれは世界の人々にも伝わるのではないだろうか。現に日本の“侍”は海外でも広く魅了し 心をつかみ、こうして侍の映画がハリウッド映画で実現されているのだから。 武士の映画と言えば黒沢明監督や山田洋次監督という巨匠がいて、両者ともに偉大なる人だ。 特に黒沢監督の影響はとても大きい。 日本の古きよき時代の文化が海外の映画人によって映画化されるなんて素晴らしいことで、同時に認められたわけでもある。 その完成度というのも高いもので、日本,ニュージーランド,アメリカの三カ国にわたっての撮影が行われたそうだ。 勝元たちが暮らす村、主人公オールグレンたちが帝国軍と戦う大地が日本ではないのは少し残念だけれど、日本家屋が立ち並ぶ村の背景はとても美しく本物らしさがあった。 さらに勝元や勝元の右腕的な存在である氏尾が身にまとう鎧兜の勇ましさには驚いた。 本当にいたかのように思えるのである。持ち主の強さを象徴する兜、そしてそれに面をかぶるというスタイルは迫力があった。
 南北戦争で戦いを遂げたオールグレンは母国でかつての輝きが消え,魂が抜けたかのようにさまよい落ちぶれていた。 日本の帝国軍の兵士の指南役として日本にやってくる彼だが帝国軍に反旗を翻す勝元率いる反乱軍に身を投じることとなる。 オールグレンはそこでは招からざる客人であった、敵であったはずの勝元や村で暮らす人々、そしてのどかな生活と自然やしきたり己が信念を貫く彼らの精神とに感銘を受け,だんだんと安らぎを取り戻し そして侍として成長していくのである。 
 オールグレンが勝元と対峙したとき、見せた戦いぶりは“名誉”を誇りとする侍,勝元の目をひきつけて離さない、オールグレンの闘志に燃えたその目には侍スピリットが宿っていたのであろう。 侍スピリット、あるいはそれに似た戦士としての精神に国境はないのだと思った。 彼は確かに軍人から侍へと変身をとげたのだ。 
 この映画には様々な“美”が存在する。 それは神社とかお寺といった背景にあるものも,もちろんであるがここで描かれる“武士道”そのものにある。 言葉なくしても何か物語る場面、その沈黙こそが物語の雰囲気をよりよいものにしている。 何もしゃべらないで人と人とが視線を交わしあい,その無言の中で互い会話するかのようだ。 退屈の言葉など存在しない、むしろ引き込まれていくのだ。 武士道には心得のようなものがあり、その中でひときわ印象的なのが“言葉で表すことは実行すること”。 つまりは自分の言葉に責任を持つということ、普段何も考えずに言葉を発することがよくあるけれど、こうして考えてみると侍たちは物事をよく考えて言動をおこしていたのだなとつくづく感じさせれる。 侍たちは目の前の協力な敵たちへと刃を向け,自らの命果てるまで戦いを挑み続ける、この姿がなんとも美しかった。 オーグレンや勝元たちが敵と戦うときの刀の立ち居振る舞いもまた美しかった。 武士の時代の幕が閉じても勝元たちが貫いたような信念が生き続けたとしたらどうなっていたのだろうか。  戦で名誉の死を遂げる侍たちも美しく,目に焼きついた。
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by jd69sparrow | 2006-08-16 02:59 | 映画タイトル ら行

ロミオとジュリエット(1968)

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 1564年から1616年まで生きたウィリアム・シェイクスピアの中で悲劇,それも愛の悲劇として有名なのが一つとして「ロミオとジュリエット」があげられるだろう。 レオナルド・ディカプリオ主演の「ロミオ&ジュリエット」、さらに現代版「ロミオとジュリエット」とされる「ウエスト・サイド・ストーリー」でだあったりなどあらゆる演劇の場で登場し、影響の大きい作品なのだ。 
 オリビア・ハッセイ主演によるシェイクスピアの作品そのままの「ロミオとジュリエット」がある。偶然にもロミオ役のレオナルド・ホワイティングと「ロミオ&ジュリエット」のレオナルド・ディカプリオとレオナルドつながりである。
 15世紀半ば頃、イタリアのルネッサンス期、ヴェローナという町には二つの対立した家々があった,キャプレット家とモンタギュー家,ジュリエットはキャブレット家、ロミオはモンタギュー家の人間である。 そんな中、ロミオとジュリエットは互いに初対面で,しかも人目で恋に落ちるのだった。 両家のものどうし誰かが居合わせただけで争いが起こるわけでふたりの恋はそう簡単にはいかなないのだ。 二人の若者たちは本当に若かった、ロミオとジュリエットは互いを好きになり恋をする。 しかしその恋を実らせるのには障害は多く,大きすぎた。 両家で彼ら二人だけが間に争いがなく、一人の人間として互いを見るのである。 二人は目の前に障害があっても恋を愛へと変えようとしていく。 二人の間というより二つの家々に同じ分だけの悲劇が襲う。
 セリフ一つ一つがシェイクスピアの口からじきじきに出たのかと想像できうる,美しい言葉の羅列が並んでいる。 ロミオとジュリエットは互いにメロメロになり二人の愛の仕方というのも深い深いもの。 悲劇であるはずなのに時々 喜劇を思わせるかのようなシェイクスピアによる表現が見れる、それは主に彼らの愛のセリフなどに多く見られ,とりわけロミオの様子を見てそう思うことだろう。 ジュリエットと出会う前にロザーラインという女性に恋焦がれたがそれが実らないことに彼は悩んでいると思いきや、ロミオの想いはジュリエットへといつの間にやら向けられている。 若者ならではとい言うべきなのか、恋の切り替えの速さにはびっくりである。
 “あともう少しこうだったら”とじれったくもなるのだけれど この作品が親しまれるのはここ(物語の中)で使われる言葉の美しさとシェイクスピアの作品の描き方の美しさとがあったからなのだろう。 有名なセリフ「...あなたはどうしてロミオなの?」というのも独特というか、それを一歩置くことなく見れるのはその理由かあるからなのだと思う。
 キャスティングも実によく出来ていると思う、それぞれが本を飛び出してきたかのよう。 二つの家々の憎しみは悲劇を生み出してしまう。
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by jd69sparrow | 2006-07-21 13:39 | 映画タイトル ら行

Ray

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 レイ・チャールズ・ロビンソンは実在の大きな功績をあげたアメリカン音楽の歴史に刻まれる偉大なスターである。 彼は盲目という障害を乗り越え、そうであるとは感じさせないほど大きな成功をおさめたのだ。 そんな彼を演じたのが「コラテラル」でトム・クルーズと共演したジェイミー・フォックス、その演技や歌唱力は素晴らしいもので、(役に入った姿も)本物のレイ・チャールズとてもそっくりだとか。 実在の人物の生涯を描いた映画は多くあるけれどこれほどまでモデルとなる人物に近づき,そして絶賛されたのも一重にフォックスの築き上げた力なのだろう。 歌声と演奏に聞き惚れてしまう。
 1940年代後半、レイはミュージシャンのプロセスの第一歩を踏む、マクソン・トリオとして始まった彼の人生はその後,様々なカタチに変わり 成功をつかんでいく。 しかし、一方では多くの苦難が忍び寄ってきてた。 試練というべきかもしれない。 数々の試練は簡単には乗り越えられるものではなく,それは彼の少年時代から始まっていたのである。 彼が(音楽の道を)歩み始めた頃というのは人種差別というのが生活の中でも大きかったようだ。 レイ・ロビンソンという名から後にレイ・チャールズという名で一躍を浴びるようになる。
 私はレイ・チャールズに大きな拍手を送りたい。 彼はオリジナルの音楽を次々と生み出し、複数のジャンルを合わせたりとか,その中で非難を浴びることがあっても,それども人々を魅了し続けたのだ。 さらに長年にわたり続けた薬物との闘い、そして社会的にも貢献し ミュージシャンとしての彼の人生は40年以上も続き,活躍し続けたのだから。
 レイははじめ利用されたり(見世物のようにされたり)、冷たくあしらわれていたけど、やがて成功を自身でものにして、薬物とも戦い、その後も何十年とヒットを飛ばし続けたとは天才であり,尊敬すべき人だと思う。
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by jd69sparrow | 2006-06-11 19:27 | 映画タイトル ら行

リーグ・オブ・レジェンド 時空を超えた戦い

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 1899年、19世紀末のヨーロッパの地に超人たちが集結した。 彼らはみな文学史上に残された名作の数々から出た主人公などの登場人物たちだった(例えば「ドリアン・グレイの肖像」からは主人公ドリアン・グレイというふうに)。 冒険家のウォーターメイン、ドリアン・グレイ、吸血鬼ニーナ、ネモ船長、透明人間スキーナー、ジキル博士とハイド氏、そしてトム・ソーヤ。 ほとんどの人物が名前を聞いただけでその作品がわかるような人物ばかりだ。
 主演は英国の名優ショーン・コネリー(ウォーターメイン役)、謎の人物“M”にリチャード・ロクスバーグ(ロクスバーグ出演作を見ると彼はいつも悪役で味方の役というのはめったにお目にかかれないというか、まだ いまだに見たことがなく,悪役で彼が出てくるのは定番であるのではと思ったほどだ)、「クイーン・オブ・ヴァンパイア」(原題「呪われし者の女王」)であの,現代に生きる,レスタトを演じたスチュワート・タウンゼントが美男子ドリアン・グレイを演じている。 さらにはジェイムズ・フレミング(「スナッチ」など)という英国のイケメン俳優がジキル博士とハイド氏役で出ていたりとかジャンルのさまざまの役者陣である。 
 謎の男“M”に集められた超人集団一行はヨーロッパ各地で悪事を働いているファントムという男を倒すべく任務を命じられ戦いの旅へと出る。
 この映画の登場人物たちはよりどりみどりであり、一人一人が一筋縄ではいかないつわものなのだ、見せ場はそれぞれに用意されている。 もちろんジキル博士とハイド氏の変化にも注目であるが、ネモ船長の強さに今回特に目をひいたといか驚いた。 単なるサポート役ではないのであって彼も一戦であり、戦いぶりは中々かっこいい。
 めぐるめく場面展開は観る者の興奮を冷めさせない。 7人(いや、8人というべきか)の戦士たちの戦いのさなかのショットはどれもかっこよく,目に焼きつくようである。
 この映画のポスターが絵の具のようなもので力強く描かれているように映画そのものもまた同じ強さが多く見受けられる。
 ショーン・コネリーはこの作品が最後の主演(出演?)作という。 「小説家をみつけたら」のようなおとなしい作品への出演もありば「007」の(初代
かな?)ジェームズ・ボンドというハードボイルドなものもあり、いろいろだがその最後をアクションとアドベンチャーの二つが合わさったこの作品で飾るというのはコネリーらしいかったのだと思うし、観る側としても嬉しいし きっとコネリー自身にとっても嬉しいものだっただろう。
 異なった作品のそれぞれからその人気のある登場人物が集まりそこに新たな作品がこうやって実現するというのはなんて楽しいことなのだろう、こういったものをたまにでも作って欲しい。
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by jd69sparrow | 2006-05-19 10:58 | 映画タイトル ら行