カテゴリ:映画タイトル か行( 75 )

借りぐらしのアリエッティ

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<あらすじ>
 14歳のアリエッティは、身長10センチ程の小人である。 彼女の仲間達は“床の下の小人”と呼ばれ、人間が住む家の“床下”で慎ましやかに暮らす種族だ。 彼らの掟は、「人間に自分たちの姿を見られてはいけない」というものだった。 つまり、関わりを持てば自分たちの暮らしに危険が及ぶと考えているから。 アリエッティたちは、人間の使うものを“借りて”生活を送っている。 
 ある日、父親のポッドに付き添って、“借りデビュー”を果たすことになるアリエッティ。 初めて見る世界に驚きと感動を覚えるのも束の間、事件は起こる。 アリエッティは、借りをしようとしたその姿を、人間の少年・翔に真正面から見られてしまう。 しかも、一人で遠出した昼どきの時点でもう既に姿を見られていたという,事実までも知ることになる。 アリエッティと両親との三人の平和な生活もいまや、危険にさらされることに。 引越しを考える一家だったが、アリエッティと翔との距離は近づきつつあった。

<感想>
 小人が本当に実在して、どこか人間の目の着かない場所に住んでいるかも知れないと信じたくなった。 設定は, おとぎ話なのに、何故か不思議と現実とリンクさせてしまう。 よく“小さい人を見た”と話題になったりするけど、人は自分が目にしたもの以外は中々信じることが出来ないし、ましてや 現実離れしたことなど 語り手の幻想だと信じることじたい難しい。 だけど、そういう作り話だと言われたこともなんだか、本当な気がしてきた。 何故なら、“床下の小人たち”は、人間には見られないように生きているという話の流れがあるからだ。
そうかもしれない…と思うことが出来る。 
 普段の生活の中で床の下の世界など覗こうなどとは考えた事がない。 アリエッティが暮らす,床下には小人たちの立派な家があって, 人では入れない隙間はアリエッティたちにとってインディ・ジョーンズが冒険するような険しい道が広がっている。 しかも、色々なところが意外なところでつながっているというのも中々面白いところだ。 壁の隙間かと思ったら、いつの間にか食器棚の中にいたりとか。 私たちが何気なく使っているものが,小人たちから見るとこんなふうに見えるのかぁと、角度を変えるだけど違う姿を見せる世界に感動したりする。
 彼らは人間に劣らない“つくる”技術を持っていることが凄い。 彼らの冒険を象徴する道具(だと思うの)は、なんと言っても高いところと低いところ行き来する,ロープ。 食器棚がまるで人間の世界で言う、岩肌とかに見えたりする。 アリエッティたちにとって人間の家はアドベンチャーに富んだ世界なのである。
 机をロッククライムするのに、両面テープを足につけるなど凄い工夫に満ちている。 解説にもあったけど、実際に実験してみたくなる。
 マチ針が長剣になったり、葉っぱ一枚がレジャーシートくらいあって(しかも、それを一年かけて消費するなんて!小人の世界と人間世界の差だなぁと)、角砂糖が鞄にちょうどよく収まる大きさだったり… 家の屋根から外の景色を見るとそこは,まるで広大な大草原のようで,アリエッティの立つ人間の家は山の頂のように見える。 人間は、戦隊モノでヒーローが乗り込む巨大なロボットみたいだったり…と、私たちの世界と彼らの世界とのギャップを楽しむことが出来る。
 翔がアリエッティに宛てた手紙。 小さく小さく髪を切って,字もその分小さく書いたんだなぁという“心遣い”の絵図を想像するとなんだか微笑ましいものがある。
 何もかもが小さい床下の小人たちの使うものの中で、個人的に好きなものがいくつかある。 一番がティーセット。 ポットでほんの一滴のハーブティを入れるアノ場面が好き。 水がとても柔らかくてこぼれそうに見えるけど、すっぽりとカップの中に納まるのが凄く印象に残っている。 他にもヨーロッパで見受けられる,紐に洗濯物をつるす場面もいい。 つまり、何がいいかって,彼らの衣服である。 それから、穂のものの景色に見える青空や夜空の“絵の景色”。 これは、アリエッティの母親・ホミリーの特別な思いがこもったものだ。 そのエピソードを知りたくなる。
 物語の前半から登場するドールハウス。 これは翔の曾おじいさんが家具職人作らせた,小人のための家なのである。 とても心温まる話である。 小人の存在をしった彼が小人たちへのプレゼントとして作ったもの。しかも、どうやって作ったのか,実際に使うことの出来る家具が勢ぞろい。 奇しくも彼らには曾おじいさんの思いは伝わらなかった。 人間を危険視する小人たちだが、こういう人間がいるということを知らないのはあまりにも寂しい。 
 とても穏やかで静かな映画だ。 アリエッティと翔は、互いが互いに恋をするも叶わないのが,とても切ないけれど、アリエッティという存在が心臓の弱い翔…一人の人間に生きる勇気を与えたという,とても感動的な話でもある。 ちょっと危なっかしいアリエッティだったけれど、翔に力を与え、さらにアリエッティも翔に助けられ… そして、翔がかけたアリエッティへの最後の言葉も心に残る。 “君は、僕の心臓の一部だ”という感じだっただろうか。 この言葉に翔がアリエッティたちに対してとった行動の全てが詰まっているような気がする。 きっと、アリエッティがあげた髪を束ねる洗濯バサミ?は、お守りであり,一生の宝物になるんだろうなぁと思う。小人が存在するということの唯一の証拠であり,“つながり”だから。
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by jd69sparrow | 2010-07-21 17:00 | 映画タイトル か行

キンキーブーツ

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<あらすじ>
 チャーリー・プライスは父親の靴工場を父親の死の後、継ぐことになる。 他の仕事へ進むことを考えていた彼は右も左もわからないまま,責任者として15人の部下たちの上に立つ。紳士靴を作る由緒ある工場であるものの,時代にもまれ、経営難だった。 優柔不断なチャーリーは「どうしたらいい?」という言葉を繰り返し,従業員を解雇するという方法をとってしまう。しかし、ローレンの一言でチャーリーの中で何かが動き始める。
 街で男たちに襲われている女性を見かけたチャーリーは、勇気を出して 立ち向かう。しかし、結果KO。気がつくと見知らぬ楽屋に横たわっていた。 そこにはチャーリーが助けようとした人物の姿が。 しかし、彼女は女性ではなく、男性だった。 彼女の名はローラ。 彼女のような人たちは女性モノの靴を買うしかない。だから、中々快適にブーツを履くことができない。 その様子を見たチャーリーはあることを思いつく。男性のためのブーツを作ることだ。 最初は失敗はあるものの,ローラの力もあって,父親が大切にしていた,工場を守るためのミラノ見本市への道が開けてくるのだった。

<感想>
 ノーサンプトンの紳士靴工場で父親の財産を守りたいという思いがあるものの、どうしたら良いか迷うばかり。やっと起動に乗り出しても、中々周りを気遣うことが出来ず、自分のことばかりになってしまうチャーリー。そんな様子から、恋人にも裏切られ路頭に迷う。 ローレンやローラに支えられながら,また失敗を重ねる中で、自分にとって,工場にとって本当の大切なのはなんであるかを気付かされていくというチャーリーの物語が一つだが、これはサイドストーリー的ではあるが、ローラの物語でもあると私は思う。
「男は男らしくいろ」という父親の教えの中で縛り付けられ,望みもしないことをさせられてきた。だけど、それに嫌気がさして縁を切って自分の道を押し通してきた。ただ、周り目は必ずしも温かくはなく,傷つけられるような扱いも散々されて,それに慣れてしまった。男でも女でもない中間でその二つを行き来するローラはどちらの姿が自分らしいのかを考えていくというのが彼女の物語だろう。
 しかし、ローラは強い人間だ。めげてしまいそうなことも,平気で跳ね飛ばすことが出来る。周りに惑わされることなく自分を通してきた。チャーリーとは正反対で、迷いがない。人の心を動かす力もあれば、新境地を開く力にも長けている。ローラに助けられてばかりのチャーリーだけど、逆にチャーリーもローラに力を添えている。 それは、紳士用ブーツの開発。チャーリーの心遣いと熱意が届いたからこそ、彼女はチャーリーに力を貸したのだろう。
 体はムキムキだけど、ローラはとても綺麗で女性的。男の姿をしているときでさえも女性に見えてきそうな感じ。化粧をつけて,ウィッグをかぶり,魅惑のステージを繰り広げる…ブーツも履きこなしているのがなんともすごい。 ローラのすごいところは、男性向けブーツをデザインするのだが、女性受けも良いのではないかと思えるくらいの斬新かつオシャレなブーツの絵を描くことだ。
 印象的なのは女でもない,男でもないローラのような人たちと共に、ローラが中心にファッションを披露する最後のミラノのステージの場面。そして、もっと色濃く記憶に残るのがローラの目使い。男だとわかっていても,男女問わず引き込まれてしまいそうな感じがとても見所である。
 ローラはチャーリーに足りなかったものを持っている。相手の思いを受け止める力と気遣うところ。靴工場で一番彼女を偏見の目で見ていた従業員の一人の心を動かし、また 他の従業員たちも動かす。彼女は、従業員たちにやる気を取り戻せたのはチャーリーだと言う。 こうして,さり気なくさも,自分は加担していないかのように みんなを動かすところが凄い。
 大切な人たちの存在に気付き、失敗を重ね、周りを巻きこみながらも熱意を固く持ち,本当に己が求める道へと歩んでいく。 笑いあり,涙ありの作品だ。
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by jd69sparrow | 2010-04-25 12:56 | 映画タイトル か行

恋するベーカリー

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<あらすじ>
 主人公はパン屋を経営するジェーン。その腕は多くの人々から認められ,彼女のお店は人気がある。ジェーンの作るパンは味わずとも見ているだけで美味しい。夫であるジェイクとは10年も前に別れていた。 子供は大きく住む場所は離れている。 彼女はパン屋の仕事で忙しい日々を過ごしながらも子供たちの特別な日には必ずかけつける良き母親だ。恋することなど忘れ、ジェーンは彼女なりの幸せな日々を送っていた。 しかし、ジェイクと思わぬ再会を果たしたジェーンは,ジェイクに歩み寄られ…。 再び恋が始まり、その相手がなんとジェイクだったのだ。 その一方で、ジェーンが密かに家の増築を計画していた。 そのための建築士がアダムという人で、彼は意外にもジェーンと同じように離婚者で,その原因もジェーンと全く一緒だったことから,互いに共感し 意気投合するのだった。
 三角関係の中心にいるジェーン。 自分にとって本当に大切なこと,相手は何なのか。 また、自分がすべきことは? 様々失敗を経て、ジェーンはその答えを見出していく。

<感想>
 ジェーンとジェイク。 二人は別々の道を選び,それを幸せだと信じ10年という月日を過ごしていた。 それなのに、幸せだと信じていたことが実はそうではなかったことを知るということはどんな気持ちなのだろう。 それにいち早く気付いたのはジェイクの方だった。 しかし、心から愛する人はジェーンもジェイクも一緒だった。つまり、互いを愛していたということだ。 ジェーンの方はジェイクによってそれを気付かされた。 もし、偶然の再会がなければ この恋が芽生えることはきっとなかったことだろう。 運命の相手どうしだったのかもしれない。 なんだかんだと言っても、心を許せる相手は一人しかいない。 ジェイクが一つに一直線だったのに対し、自分の心を満たす,ジェイクとアダムの二人の人物が表れることでジェーンは常に心が揺れていた。 正反対な彼らは当然,ジェーンに与える影響も違うからだ。馬が合うか、話が合うかの違いだろうか。
 ジェイクはジェーンの恋のツボを押すのがとても得意なのだろう。 だから封印したはずの彼女の思いを解いたのだと思う。だからこそ、一度二人は結ばれたのだ。自分の意識とは別の,心の奥底で二人はお互いを求めている。愛人を作り、その人との生活を始めたジェイク。 なのに、ジェーンと再会すると別れたことがなかったかのように接してくる。 調子のいい人間に見えるけど、実は違う。ジェーンは心揺さぶられつつも、中々ジェイクを完全に受け入れることができず、ジェイクにはないものを持っているアダムにも惹かれ まさにさまよっている。
 しかし、本能には逆らえない。 そしてやがて気付かされることになる。 本当の気持ちに。 見せ掛けに見えた,ジェイクの愛情が本物であることがだんだん見えてくるのだ。 
 その先がどうなるのか、これだと語られることはないにしろ,思い描くことは難しくないと思う。
 ロマンティックな場面もあり、人間ドラマ的もあり、コメディあり…。 最も衝撃的だったのがパソコンの画面を通してジェーンとアダムが会話する場面。 こっそりとジェーンの部屋にやってきたジェイクの大胆な行動が大きな笑いを呼ぶ。パソコンとジェイクの愛情表現がこんな珍場面を生み出すとは… それ以上のことは言いがたい。
 ジェーンとジェイクの二人の話でもあり、家族の絆の物語である。温かい作品。 大人のラブストーリーである。
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by jd69sparrow | 2010-03-03 01:23 | 映画タイトル か行

かいじゅうたちのいるところ

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<イントロダクション>
 懐かしいと思った。 幼い頃、よく読んでいた絵本が実写として再び見ることができたことに。しかし、完全なコピーではないのは 絵本が原作だからだそうだ。絵本が持つ特性だ。人それぞれその本に持つイメージが違うのだから当然と言えば当然だろうか。今回メガホンを取ったのは『マルコビッチの穴』で知られるスパイク・ジョーンズ。 つまりは、“スパイク・ジョーンズ”の『かいじゅうたちの~』ということになるわけで、別の人がとればその人のカラーになる。本読者の数だけ、そのバージョンができうるだろう。 しかし、世界観は原作にとても忠実である。
 今はもう家にない、『かいじゅうたちの~』の絵本を今度は映像として見れることがとても嬉しい…と思うのはきっと私だけではないだろう

<あらすじ>
 マックスは母親とお姉ちゃんとの三人家族。想像力が豊かな少年だ。マックスの大好きな母親とお姉ちゃんと遊びたいけれど、中々相手にしてもらえず、一人で遊んでいることが多い。不満が溜まっていき、ついに爆発させてしまう。お母さんに噛み付いてしまったマックスは、母親の心配をよそに家を飛び出し 遠くへと,ひたすら遠くへと走っていった。 
 たどり着いたのは、無人島を思わすようなところ。 しかし、そこには生き物がいた。マックスはその生き物がいる場所へと目指し,その先にいたのは人間ではなく不思議な怪獣たちだった。なにやら問題の渦中にある彼らの中にマックスは飛び込んだ、怪獣たちはマックスが不思議そうに見つめ,理解のできぬものにとまどい,その解決法として問題のものを食べることで解決しようとしたが…
当然食べられたくないマックスはとっさに嘘をつく。 自分は偉大な王様だと。 それをすっかり信じた怪獣たちはマックスを彼らの中の王としてあがめるようにし、かいじゅうとマックスの共同生活が始まった。 
 リーダー格のキャロル、陰気なジュディスに,その夫でおおらかなアイラ、小柄なアレクサンダーと、そしてキャロルの頼もしい相棒ダグラス、ほとんど口を開かないザ・ブルといった森の住人…いや、かいじゅうたちがいた。 そして、キャロルが思いを寄せるKW。 彼らの望みは孤独から解放されること。 また、キャロルは誰もが幸せな国を作ることだった。マックスの成長の冒険が始まる。

<感想>
 どこをとってもツッコミどころがないくらい、絵本の世界そのものだ。かいじゅうたちは誰もが可愛らしく、個性もそれぞれ違う。 彼らの中にはそれぞれの居場所や立ち居地があるけれど、それはそのままマックスと同じ年頃の少年たちを映していると思う。 「かいじゅう」でありながらも可愛らしさが全面に出ていることがこの作品が愛される一つだ。個性が豊か。 いつも陰気で意地悪なジュディスでさえも可愛いどころが優しい目をしている。 彼らは体型などももちろんだが、可愛らしさ・愛らしさを象徴しているのは“目”だと思う。 彼らよりうんと小さいマックスを見る目はみんながみんな優しい。感情の表現もストレートで、いろんな面で子供らしさが出ている。まさにそこにいたのは、かいじゅうに姿を変えた友達とでもいうくらいだ。 
 キャロルはマックスの心を鏡で映したかのよう。大切な人にはいつも側にいて欲しい,寂しがり屋で思いが叶わぬとつい“壊す”ことで気を晴らそうとする。それは、大切な人に振り向いて欲しい,また、遠く離れそうなその人に自分の下へ戻ってきて欲しいという意思表示なのだ。マックスはキャロルがKWに対してとる行動・姿に自分を見るのだ。つまり、自分の解決すべき問題を見ているとうこと、自身を見つめているということになる。幼いマックスにはそういう意識はないけれど、感覚的に見ているものがあると思う。最終的に、キャロルへ,自分に向けられた母親の言葉と同じ事をマックスが自然と言っているのが面白い。 この場面で既にマックスは一歩おとなになったんだなぁということがわかる。
 キャロルだけがマックスの嘘を信じたのは、彼らの間にこうして共通するものがあったからだろう。 マックスは大好きな母親と自分との間に距離を感じ、それに我慢できなくなって家を飛び出し、かいじゅう達のところへたどり着く。キャロルは、マックスが島にたどり着く前までの行動と同じ行動に出る。そこが物語の面白いところであり、この話を絵本で読む子供たちに気付かせたいという作者の狙いかもしれない。
 キャロルはKWの新しい仲間に嫉妬する、マックスはお姉ちゃんの友達,あるいは母親の友達を見てやきもちを焼く。 なんだか思うようにいかないとき、力任せに気持ちをモノにぶつけるけれど彼の心に残るのは後悔に近い後ろめたさなのだ。 自分の世界で自身がぶつかった問題のようにキャロルへ泥団子ゲームを進めるけれどやはり良いようにはならない。 それどころか友達を傷つけてしまう。 結局,“暴力では何も解決には至らないと言う事”を決定付けている。 現実は核で何か起こそうとしているけれど、戦争は悲劇しか生まない。 関係の無い人まで傷つける必要がどこにあるのか。 傷つけあって何かが解決するはずがないし、解決したように見えても、決してそうではないと思う。 この物語には現実に触れたメッセージに説得力とわかりやすさをつけて私達に訴えかけている。 絵本を見る子供たちには将来戦争のない社会にしてはならないという作者の切実な言葉があるのではないだろうか。
 マックスは かいじゅう達のところへ来て、自分を外から見て成長する。 そして、少し大人になったマックスとキャロルの別れの場面にぐっと来る。 そして極め漬けに母と息子の再会の場面では、お母さんのマックスへの深い愛情がにじみでていて、涙が出そうになる。 二人の喜びと安心がまるで自分のもののように見えてくるのだ。
 原作で見られる,かいじゅう踊りと感動。 とても素朴な雰囲気と優しい風がただよう作風が忘れられない。まるでウェンディたちがネバーランドに行ったときのような時の流れがここにもある。 わくわくしたり、しみじみしたり、うるっと来たり…いろんな感情で一つの作品を見る楽しさを是非味わって欲しい。
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by jd69sparrow | 2010-01-15 23:10 | 映画タイトル か行

カールじいさんの空飛ぶ家

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<イントロダクション>
 動物達など人間以外のキャラクターが主役が多いピクサー作品の中で稀である『カールじいさんの空飛ぶ家』。 おじいさんが主役という新たな試みである。 頑固なおじいさんだけれど、憎めなくて可愛らしい、だからピクサーの可愛い,愛らしい主人公たちの定義が守られているわけだ。 家に引きこもりのおじいさんが、とてもおしゃべりな少年と旅に出るという,いまだかつてないストーリー設定に、“空飛ぶ家”という,その言葉だけで人に夢を与えるような、ほのぼのとしていて温かい話なのだと伝わってくる。
 色とりどりの風船の力で空を飛ぶカールとエリーの夢と希望、努力の結晶の“家”。 少年カールが今に至るまで妻エリーとともに大事してきた家には温もりと魂とが宿る。 そして空飛ぶ家は今は亡き,エリーが家を通して大切な事を教えてくれているのではないだろうか。 カールに新たな夢と未来を与え、そしてさらに視聴者へ同じ贈り物をしてくれる,毛布のようにぽかぽかした作品である。

<あらすじ>
 希望に満ちた冒険に憧れる少年がいた。 少年の名はカール。 カールは映画館の帰り道でとある家の前で足をとめる。 中から何かが聞こえるのだ。 恐る恐る中へ入ると男の子のような格好をした女の子がいた。エリーである。 大人しくてシャイなカールとは正反対で、とても明るく活発なエリーには共通で好きなものがあった。 空を飛んで冒険する事。 やがて二人は成長とともに付き合い始め、一つ屋根の下で暮らすようになる。 そう、初めて会った場所で。 とても幸せな日々を過ごす二人の夢はいつか家を飛行機のように飛ばして、夢の地へ行く事だった。 しかし、その夢も実現できぬまま年を重ねてしまう。 人生の後半に入った頃、悲劇が二人を襲う。 エリーは病気に倒れ、間もなくして天国へと旅立った。 一人取り残されたカールはエリーを思い続けながら、頑固なじいさんになった。 
 街の開発が進み、カールとエリーの家は孤立している。 老人ホームへ行く事も思い出の詰まった家を離れる事も頑なに断るカールじいさん。 その状況から脱するべく、あることを思い出す。 エリーと叶えようと誓った夢だった。 それを今、実現することを思い立った,カールじいさんは家を改造して翼をつけた。 そして、計画は実行に移され、空を飛ぶ。 夢の地へと冒険に出るカールじいさん、なんとそこには意外な珍客が紛れ込んでいた。 カッセル少年だ。 どうしてもお年寄りを助けたいとせがんできた少年はあきらめずに付いてきたのだった。 そして二人の冒険は数々の障害を乗り越えながら進んでいく。

<感想>
 心から望む夢というのは中々実現が難しい。 その障害は様々だけど、でも実現しようと努力する事じだいが楽しくもある。 風のように流れていく、時の中でカールとエリーの夢の実現への道のりが描かれ、それは春風のように暖かく優しい。 少年のようだった、エリーが清楚な女性に成長するところもまた印象的だ。 悲しい事にエリーが生きている間には実現できないけれど、人生の終盤にかかったときにその夢をあきらめずに実現させることのできたカールじいさんはすごい。 いつ叶うかはわからないけれど、あきらめなければ,また大事な人を強く思えば夢は実現できるのだと語っている。 若いときに冒険するのとはまた、別の世界がきっと広がっているのだろう。 それはその時にしかわからない。 でも、再び希望を取り戻したときのカールじいさんは頑固で意地っ張りな印象から,夢に満ちたカール少年に戻ったかのよう。 表情を取り戻し、笑顔まで戻ってきた。 その姿は年よりもはるかに若く見える。
 カールじいさんにとって、ラッセルはとても厄介に思えたけれど、彼が後に語るように,本当に,エリーが施してくれたのかもしれない。 孤独なカールを解放するために。 カールじいさんをラッセルがぐいぐいと導いているというふうにも見えた。 
 二人の冒険の前に立ちはだかる障害。 そのきっかけとなったのがある犬との出会い。 人間の言葉を話すその犬の名はダグ。 好奇心旺盛な犬そのもので人懐っこい。 カールじいさんが憧れていた冒険かチャールズ・マンツの飼い犬の一匹。 マンツはその昔、空へ旅立ったきり行方不明になっていた。 そのマンツは今も怪鳥を捕まえる夢をあきらめず、まず空の上にいたのである。 だけど、彼の夢は欲へと変わり,いつしかその欲に取りつかれたマンツは悪魔も同然となっていたようである。 その飼い犬たちはみな、翻訳機能の付いた機械を首輪につけられて、マンツの欲望の赴くままに飼い慣らされていた。 その犬たちの一員であるダグだが、彼だけは他の犬たちと違った。 主に命を実行しようとはするけれど、本当に心の温かい人間をかぎわける力を持つ,利口な一面がある。 カールになんとか認められようと,ないしは助けようとする様子はとても愛らしい。 犬が人の言葉を話したら…というのは多くの人が一度は考えた事だろう。 犬と会話できれば、孤独をまぎらわすこともできれば、楽しい生活もできれば、小さい子どもにとっては良き遊び相手となることだろう。 また、犬自身も言いたい事が言える。機械的ではなく、人と同じように犬が話せたらいいのにな…なんて思う。
 ラッセルが怪鳥のケヴィンを守るように、カールじいさんも自分の夢を追いかけるだけだったのが,冒険を重ねるうちにラッセルという大切な冒険仲間を思うようになる。 家に固執する事さえも忘れ、ただ一直線に冒険とラッセルとの絆を深める事を大事にする。 この変化が見所の一つと言えよう。 
 後半だっただろうか。 実はラッセル自身も孤独を味わっていたことがわかる。 父親に中々会ってもらえないという寂しさを抱えていたのだった。 旅の末、もうカールじいさんとラッセルは他人ではなく、家族同然だった。 私には本物の家族のように見えた。 壮大な旅の終わりにカールはエリーを思い、また,新しい幸せの一歩も踏み出す。 こんな光景がとても感動的だ。 表彰の場で、ラッセルの後ろに立つ,カールじいさんはラッセルの父親のようだった。 エリーとの子どもを持つ事の無かったカールにとってラッセルは実の息子に思えたのではないだろうか。 そう思うとまた心が温まる。 カールじいさんにラッセル、ダグの二人と一匹のその後の思い出の一つ一つがとても綺麗に映し出されていた…
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by jd69sparrow | 2009-12-11 02:06 | 映画タイトル か行

きみが僕を見つけた日

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<イントロダクション>
 切ない印象を受けるものは,やはり切ないけれど ほのかな温かさをくれると思う。 運命は必然。 例えどんな力があろうとも運命には勝てないのだ。 タイムトラベルという不思議な力。 特殊な力を持っていたとしても歴史は変えられない。 困難だとわかりつつも惹かれ合ってしまう男女。 そんな高い高い壁でさえ,突風にあおられようとも まっすぐ乗り越えられるのは、本当にすごいこと。 待つこと、不思議な力、愛の絆とそれを導き,時に試す “運命”…。 言葉に仕様にない力が,風がヘンリーとクレアを後押しする。
 “誰かにめぐり合うのも運命”と語った人がいたが、事実としか考えられない、そう信じられる不思議な魔力を持った映画が「きみがぼくを見つけた日」と言えよう。

<あらすじ>
 ヘンリーは幼い頃から、ある特別な力を持っている。 “時を越える力”、つまり タイムトラベラーなのだ。 それは自分の意思とは無関係に起こり、いつの時代に,どのくらいの間飛ばされているかはわからない(コントロールが出来ない)。 タイムトラベルはは発作のように突然きて、何故か衣服(身に着けているもの)は置き去り。
 そんなヘンリーは現在に至るまで孤独な日々を送っていた。 小さい頃既に母親は失った彼は、友人など大切な存在が,父親以外に誰もいない。 しかし、そんなある日 彼の運命を変える人物が現れる。 クレアfだ。初対面なのに彼女はヘンリーを知っていて,自分を理想の人だと言う。 不思議でならないヘンリーだったが、自分の事情を知り,受け入れてっくれるクレアに次第に,惹かれて行く。 それは、二人にとって“運命”の他に変えがたいものだった。

<感想>
 この作品の最大のキーワードは“運命”。 まず思うのは、“運命”というものを信じたくなるということ。 人生には様々な出来事があり、いろいろな人々にめぐり会う。 それは全てが必然。 確かにそうかもしれない。 世界広し,何千・何億もの人々の中から 何億分の一の確率でその人に出会ったのだから、一生会うことのない人たちがいると考えるとなおさらだ。
 身近に考えれば、同じ電車に居合わせた人たちが言えるだろう。 一日何本も走っている電車に、同じ時刻,同じ車両という狭い空間にいたというのはどれほどの確率なのだろう。
 いかなる全ての生き物にもそれぞれの運命が平等に与えられる。 逆境に立たされたとき,その運命に抗い,変えようと努力するとしよう。 果たして変えることができるのだろうか? よく“運命を変える出来事”と言うけれど、その出来事自体がもとより,その人に定められた“それ”と言えるかもしれない。
 人は悲しい現実や過去ほど変えたいと願う。 歴史を変えられないように不可能なことである。 人間に出来ることで唯一それと断言できることだ。 変えることができるものなら、変えたいものだ。 もし出来たとしたら、吉と出るとは限らない。 大げさな話、日本が戦争でアメリカに勝って,今あるアメリカの地位に立っていたとしたら…。
 どんな力を持っていたとしても,過去や運命は変えられない。 でも、何百回と母親の死を防ごうと試みたヘンリーの痛々しいまでもの努力に共感できる。 何度試しても、良いタイミングにはタイムトラベルできない。
 タイムトラベルは、特殊な能力なのに ここでは肯定的ではない。 むしろ厄介な力とされているように見える。 しかも、この力は遺伝子だという(設定)のだから驚きであり、信じられないスーパーパワーを現実的で説得力のある演出が良いなぁと思った。 思うに、割合にすると 7:3くらい。 比率は少ないものの,利点もある。 わずかな利点の中で一番なのが、クレアとの出会いだ。 ヘンリーは“力”による孤独から救われたのだから。
 現在、過去、未来と時空の違う三つの世界に主人公がいる。 物語の軸として動くのは当然,現在。 時空の違う同じ主人公がすれ違うことはあるけれど、直接コンタクトをとることはない。 けれど、連携プレーのように一番大切な日を乗り切るのはタイムトラベルの力の凄いところである。 ピンチを未来の自分が救ってくれるとは! 二人の共同生活が始まってからの重要な時期,クリスマスや年末年始,の日にこの力を有効に使うことが出来ないのが悲しい。 自分の意思で力を使うことが出来ないのだから仕方がないかもしれないけれど。 とは言え、式の日にピンチを凌いだり 何度も母親を助けようと努めたりするとなると、ある程度力をコントロールはきいたのだろうか?と疑問である。 それとも奇跡や偶然なのか(特に前者)。
 タイムトラベルをすることで物事は以前と変化しているように見える。 大切なことや大きな出来事は変えることができない。 特に生死に関わることは。 けれど そういうふうに感じる。 それは毎日が変化の連続であり、全く同じ日がないという時のサイクルによるものだからかもしれない。
 話はそれるが、不思議なのは 別の時空を生きる過去のヘンリーと現在のクレアとの間に子が産まれ、その子供は自分の意思でタイムトラベルする“時”を選べると言うこと。
 人の運命は決まっていると思う。 だけど三つの時空がある以上、現在がなくとも主人公は存在し続けるし、いつの時代のヘンリー(力が覚醒する以前の幼少時を除く)も時を越える力を持っている。 だから、クレアと娘アルバにいつの時代のヘンリーも会いに来ることが出来るし、来る。 確かにヘンリーはタイムトラベルする時代は選べないけれど、不幸にもつながる力を授けた神が,彼に対する報い(救い)として ヘンリーを二人の家族に引き合わせたり,式の日に未来から現在のヘンリーへ救いの手を差し伸べたりしたのではないかと思う。
 当然、いつ姿を消すかわからないヘンリーの能力に腹を立てることのあったクレアだけど、運命(またタイムトラベルの力が)二人を引き合わせてくれた,大切な人への愛は消えることはなかった。 始めから受け入れていたはずだけど、憤りを感じてしまった自分が許せなかった…というかわかっていたはずなのに怒ってしまう自分を悔やんだのだろう。 それは、“運命の人(理想の相手)”と彼女が信じ続けたからだと思う。 とは言え、そういう結論に至ったクレアは凄い。
 様々な山を乗り越えてきたクレア。 ずっと同じ時間の中にいられずとも、ヘンリーの力を全て受け入れ,信じ続けるからこそ、寂しさにのまれることなく,また いつか自分達のところに会いに来てくれるだろうという思いと、絶えず 時を越えているのだから どこかで自分達をヘンリーが見守ってくれているだろうという安心感が母と娘を支えているのだと思うと素敵である。
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by jd69sparrow | 2009-10-31 01:43 | 映画タイトル か行

グッド・バッド・ウィヤード

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<イントロダクション>
 直訳すると「いいモン、ワルモン、へんなの」となるだろう。 三人の登場人物の役割を表した実にシンプルなタイトルである。 プログラムの言葉にもあるようにストーリーを追っていくとこの三つ混同する。 つまりは、三人の登場実物それぞれにこの三つに分けられた役割全ての特徴が見られるのだ。 単純に分けられたものではなくて、三人が持つ特徴を表したのがこのタイトルの言葉なのだというふうにも考えられる。 アジアを舞台にした西部劇。 銃撃戦やど迫力な場面・アクション満載のエンターテインメントであり、ある一つの地図を巡り,三人の男たちはぶつかり合い、一つの到達点へと向かうという物語だ。

<あらすじ>
 荒野の真ん中を駆け抜ける蒸気機関車。 そこには激しい争いの火種となる“地図”があった。 何も知らずに強盗しに現れたユン・テグは金となるものを地図もろとも、盗み出す。 その直後だった…三人の男たちの戦いが始まったのは。 賞金稼ぎのパク・ドウォンとギャングのボス,パク・チャンイ、そしてコソ泥のユン・テグ三人は地図が指し示すであろう宝を追い求め,死闘を繰り広げる。 まさに“追いつ、追われつ”で彼らの生き様がここにある。
 そして、最後には意外で衝撃的な真実と展開が待ち受けている。

<感想>
 物語に複雑さはなく、ただ性質の全く異なる三人のはちゃめちゃぶりを楽しむのがこの物語の狙いのようだ。性格も近ければ、戦い方も違う彼らだが、使う武器はみな,銃だ。 西部劇なのだから当たり前かもしれないけれど。 この中でユン・テグだけがマヌケで戦闘能力がないように見えるが、侮るなかれ。 三人が三人と強く、弱い者など一人もいない。 単純な話のようで、そうでもないと感じられる部分もある。 それは最後の結末を知ればわかる。 最後に語られる真実を見ると物語を再び見たくなる。 
 ユン・テグはチャンイを追う,ドウォンの間に立ちはあだかり,騒動を起こす…というかこじらせる道化のような存在という印象を受ける。 実際そんな部分もあるけれど、ところどころで謎をふりまいている。 マヌケそうで実は強いというところも彼の魅力の一つだが、敵の倒し方が珍プレーなところも一人で盛り上がって話し続けるところも面白い。 実にコミカルなのはユン・テグという人物的にも言えるが、ハングルの言葉もまたしかり。 ころころと転がるようにその口から出てくるハングルの言葉の響きを聞くだけでも飽きさせない。 アメリカのギャグ漫画に出てきそうな感じもする。 インディ・ジョーンズなみに帽子にもこだわる点もユン・テグの面白いところで漫画を見ているかのような場面もある。 しかし、一番いいのは底抜けに前向きなところだろう。
 ユン・テグが中心的に描かれているとは言え、他の二人もそれぞれ確かな存在感を出している。 チャンイとドウォンの共通点は多くを話さず、クールなところ。 違うのは目的を得るための方法・やり方。 
 チャンイは仲間さえも殺すことに抵抗なく、残虐な男。 しかし,やはり悪役といえど魅力にあふれていることは否めない。 1930年という時代設定の中の人物としては現代的なのだけれど、チャンイの放つカリスマ性は惹かれずにいられまい。 脅威に満ちたその笑顔でさえ、セクシーで銃とナイフのコンビネーション技はクール、そして銃さばきが西部劇でよく見受けられるガンマンそのものである。 ユン・テグも相当な生命力の持ち主だが、こちらも不死身さをにおわす感じが最高だ。チャンイに呼び名をつけるとしたら“暗黒の貴公子”とでもつけられそうだ。 チャンイは何故これ程までに極悪非道なのか、そこが彼のミステリアスな部分だ。
 ドウォンはルックスなど何から何まで西部劇のヒーローである。 しかし、金に執着する部分があり、また冷淡なところもある。 他の二人より一歩ひいたところにいながらも、美味しいとこどりだ。 アクションが一番だいたんで常に冷静で先を読んでいる。 確実な手段を常に選ぶ,慎重かつキレのある人物だと思う。 ロープを使った広範囲に攻撃をしかけるアクション、そして何よりライフルを使い確実に敵を狙いを定め,無駄な弾は使わない技術力の高さがなんともかっこいい。 
 三人に共通しているのは銃の使い手である以外に、謎めいた部分があるということが一つあげられるだろう。それが彼らの魅力である。 彼らが思うこと。チャンイは常に自分が最高に強くあること、ユン・テグは戦いはなるべく避けて平和に暮らすこと、そしてドウォンは…というとここが謎である。 でも、その夢を語ろうする表情は明るい。 謎のままにした方が良いこともあるというが,しかし、個人的には気になる。
 冒頭から映像的に綺麗で爽やかに始まり、始めから終わりまでその迫力に満ちている。 それを効果的に演出し,表現しているのが“音楽”だ。 ウエスタン、つまりはラテンのリズムが三人をよりかっこ良く演出しているという風だ。 それはここぞという場面や作品の世界へ一気に引き寄せる効果音。 もちろん、途中途中で流れる音楽も物語をサポートしているし、ユン・テグらしいコメディチックなバッグサウンドも他にないものがあると思う。 少なくとも日本では中々聞かない?のではないだろうか。
 “無茶苦茶”というのを売りにしているとは言え、最後に明かされる真実や主人公たちの持つ謎を考えると物語的にも面白いし、映像も音楽もそして絵的にも綺麗で様々な角度から見て楽しい。 近未来映画が多いからこそ、西部劇というのはひときわ新鮮だ。 銃撃戦というアクションの王道は観る者を確実に惹きつける力がある。 様々な西部劇が見たい。 西部劇のもと,西洋のものも また再び見てみたいものである。

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by jd69sparrow | 2009-09-03 18:33 | 映画タイトル か行

ごくせん THE MOVIE

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<イントロダクション>
 普遍的テーマを描き、見る者を飽きさせない。 また、気が付くと夢中になって見ている。 そんな作品である。 教育者と学ぶ者たちがどう向き合うことが大切なのか教えてくれている温かい物語である。 主人公ヤンクミこと,山口久美子のキャラクターの良さから始まり、コメディタッチで描かれるストーリーに熱いメッセージと実にドラマティックな青春ドラマだ。 登場人物にも個性があり、物語を盛り上げている。 私達が生きるために何を大事にし,守るべきなのか…など大切なことが描かれているのだ。
 人はどんな人に出会い、いかなる人のもと成長していくかで人間性が生まれてくる。 つまり、どんな環境で育ったかがその人を決めるのだ。 ヤンクミは教え子たちにいつも心からの大事な言葉を贈っている、それは言葉と熱いメッセージが通じ合う温かさ。 人は常に影響という刺激を受けながら生きてくものであり、何と出会い,何を選ぶかで人間性が定まっていくのである。 この作品を見てそう、強く思うのである。

<これまでのあらすじ>
 山口久美子は生徒と心を通わせ,青春の日々を送ることを夢みている熱血教師。 高校の教壇に立っている,久美子は白金、黒銀、赤銅学園と三つの学校を転々とした。 生徒からはヤンクミという名で親しまれている。 
 今でこそ、卒業生から敬われているヤンクミだが、そこに行き着くまでには生徒達との多くの格闘があった。それは現在も変わらない。 受け持つクラスはいつも問題児ばかりが集まる不良たちのクラス。 それでも臆することなく、生徒に向き合えるのは彼女にとある秘密があるからだ。 小さい頃、良心を失ったヤンクミは身寄りである任侠グループの頭であり、家族である祖父に育てあげてこられたからだ。  鍛えられた精神力と体力で持って,教え子達に降りかかるいくつもの問題を解決し,助けてきたヤンクミと生徒達の青春と絆の物語がこの『ごくせん』なのである。

<映画のあらすじ>
 赤銅高校の三年D組を卒業させたヤンクミは新たな三Dを受け持っていた。 しかしまだ生徒達との関係はイマイチだった。 それでも生徒達と分かち合えると信じ前向きだ。 そんな時、赤銅に教育実習生がやってくる。 遅刻してきた実習生…なんと かつてヤンクミが黒銀高校で教えた小田切だったのだ! そこからヤンクミ、三D、小田切の“心の汗を流す日々”が始まる。
 新たな三Dでも問題は起こった。 生徒が暴走族とのケンカに巻き込まれた。 それを知ったヤンクミは誰よりも早く暴走族との決着をつけに飛び出した生徒を助けに行く。 安心したのもつかの間、今度は赤銅の卒業生が麻薬にまつわる事件に巻き込まれ、それは大きく発展し 意外な展開へと向かっていく。

<感想>
 『ごくせん』は青春コメディ。 個人的に、青春部分もさることながら,コメディ部分が最大の魅力だと思う。 まずはヤンクミのキャラクター。 生徒に対してツッコミな部分もあるけれど、全体的にはボケのポジションであるヤンクミの傍らには必ずツッコミ役がいる。 その多くはヤンクミが受け持つクラスのリーダー格にいる生徒が多い。 今回はかつての教え子で教育実習生の小田切であったり、教頭から念願の校長へ昇格した猿渡だったりする。 妙に熱かったり,ついつい極道としてのキャラクターに戻ってしまい,まわりはきょとんとし、そこを小田切や猿渡に制止される。 天然な部分が多いのがヤンクミの魅力の一つ。 
 猿渡と言えば、ヤンクミとのバトルが作品の名物である。言葉や暴力ではなく,顔と顔とのバトル。 変顔合戦といったところだろうか。 どちらかというと猿渡のよく動く表情にそのおもしろさがあり、それに毅然とした態度で喰らい付くヤンクミ…といった感じ。 猿渡はロボ、ヤンクミはマスコットキャラクター的なノリである。
 もちろん、青春面でも大きな魅力がある。 小田切だけでなく,赤銅の卒業生達や黒銀、白金でのヤンクミクラスの卒業生達も登場するのが映画ならでは。 一人のために皆が動く…赤銅OBの三Dのメンバー達はヤンクミと同様動き回る。 大和をはじめとする赤銅のOBたちやその他の生徒達がヤンクミの精神を受け継ぎ仲間のために全力を尽くす姿は感動だ。 教え子から決して目をそむけることなく,また己が背負うリスクよりも生徒を守ることをポリシーとして 常に教え子へ真正面からぶつかってきたヤンクミの力の凄さが感じられるからだ。 ヤンクミのような存在があって今の彼らがある。 相手にちゃんと向き合えば、相手はそれに答えを返してくるのである。 自分が危機に陥った時,助けられたりもする。 それは人としてあるべき姿であり、理想。 現在の赤銅3Dを同じ立場であった小田切がヤンクミの立場から見、振り返る。 そして、ヤンクミから多くを学んだ小田切が 以前の自分やそのクラスメイトたちの映すような彼らを当時の自分の気持ち…つまり、過去の自分とヤンクミと同じ目線にたった現在の自分の両方の視点で3Dたちにヤンクミから教わったことうあヤンクミという教え子全体として大切な存在であることなどを教えるというのも、とても新鮮でぐっとくる。
 自分の将来が見えず、ただなんとなくで教育実習としてヤンクミのもとに戻ってきた小田切。 視点が変わり、ヤンクミが現在の生徒達と,また赤銅のOBたちとぶつかる姿を見て教育者として,また人として成長していく様子もこの,劇場版での大切な物語である。
 事件に巻き込まれていくヤンクミや生徒達。 常に守る側に立っていたヤンクミだったが逆に卒業生達に守られるというのが ドラマ版にはない魅力である。 卒業生達は彼らにしかできない方法で事件解決を身を投げ出し、戦う。 最高に盛り上がる場面だ。 そしてヤンクミの心に響く熱き言葉で締めくくられる。 
 ヤンクミがすごいのは事件を起こした当事者に対しても生徒達と同様に向き合い,時に彼らにあるべき道へと導く…つまり、やり直し再出発するきっかけを与えるのである。 そのヤンクミの気持ちが相手に伝わった直後、そのチャンスが失われかけたとき,その相手を守るべく前に立ったところに改めてヤンクミの懐の深さを感じた。
 本当の友達・仲間というのは都合のいいときにだけ語るものべからず,仲間がピンチのときに助けたり 共に戦うのが真の友達・仲間である、ケンカというのは守るべきもののためにするためもの、卑怯なことはしない、自分の事から逃げてはいけない、自分を育ててくれた人への感謝を忘れてはならない…など数多くのヤンクミから生徒への教訓は作品としてのメッセージであり、シリーズ通してのテーマ。 ドラマ・映画とずっと語られてきたからこそ,伝わるものがある。
 現在の赤銅3Dというよりも、ヤンクミが関わってきた生徒たちとヤンクミの話というのが劇場版。 卒業生達のその後を見るのも楽しみの一つだ。  ここで物語が完結してしまうのはとても寂しいけれど、ヤンクミと生徒達との青春や格闘・葛藤はこの先も続くことだろう。

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by jd69sparrow | 2009-07-16 00:27 | 映画タイトル か行

GOEMON

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<イントロダクション>
 歴史という題材を作り手の解釈や理想で自由に作品化できる時代になった。 歴史は書物に語られる。 だけど、時代が経つと新たな事実が発見され、新説が生まれる。 だから、教科書で学ぶことが完全に正しいとは言えない。 だからこそ、もしかしらたこうだったんじゃないか,こんなふうだったらいいのにとか想像して物語を築き上げるのも良いのではないだろうか。 私達が今生きるこの場所を作った偉人達、彼らが生きた時代は現代にはないものがある。 それは魅力的なものがある。 もちろん、史実も知りたいけれど その時代の魅力を見たいというのも,現代人が求めることなのだろう。
 時代劇らしくするのもいい、だけど限られた“くくり”の中では限られたことしかできない。 だからその枠を破るのが斬新で面白いのかもしれない。 フィクションも交えつつ,エンタテインメントとしての安土桃山時代がここにある。

<あらすじ>
 安土桃山時代。 天下統一を果たした信長は、まもなくして家臣・明智光秀の謀反により、本能寺にてその生涯に幕を閉じる。 次に力を得た豊臣秀吉は新政権を始めるが貧富の差が極端になるばかりだった。
 天下の大泥棒と称する,石川五右衛門は富豪から金銀財宝を奪い取り、貧しい者達へ分け与える民衆のヒーローだった。 そんな五右衛門が盗んだものの中には南蛮風の箱があった。 それは五右衛門の運命を大きく変える“パンドラの箱”だった。 やがて、彼は戦の渦へ巻き込まれ、“災い”と向き合う。

<感想>
 石川五右衛門は自由を愛する義賊。 財宝をいとも簡単に奪い取ったかと思うと民衆のためにその多くを使ってしまう。 贅沢三昧な暮らしより、時に自分への褒美も与えつつ、一日一日を生きるという前向きな人間である。 明るいキャラクターなだけに、また泥棒ということで富豪や悪い輩から次々と財宝を奪う「ルパン三世」のような、コメディ色のの濃い話かと思いきや、実は石川五右衛門の運命を,その人間味あふれるキャラクターの魅力で語るシリアスな部分が多い作品なのだ。
 石川五右衛門が大泥棒というのはよく知られているけれど、“忍”という説はここで始めて知った。 映画『GOEMON』では少年時代から本能寺の変まで忍として信長のもとで鍛えられたとある。 信長亡き後、五右衛門は賊の道を選ぶのだ。 確かに財宝を盗るという稼業に忍術は活かされていることだろう。 その力あってこそ、簡単に“仕事”をやってのけるのだと思うし、うなずける。 忍であったという記述も存在する。 だから始め、この設定に驚いたけど納得が出来るのである。
 五右衛門が一度手にした箱を“パンドラの箱”としたのは、それがこの物語を起動させるスイッチであり、鍵であり、そして物語全体を表しているからであろう。 不思議な箱を開けた五右衛門には彼の運命を変える災いが襲うことになり、いわば『GOEMON』とは、五右衛門が意図せず,自らの手で呼び寄せてしまった災いと戦う話なのである。
 一見、空の南蛮風のその箱は、後に確固たる事実を示す、証拠となるわけだけど “パンドラの箱”のように本当に見えない災いが入っていたのかもしれない。 
 一人一人、人間性とそれぞれが抱える思いがあって、人物描写が鮮明に見えてくる。 信長と秀吉とは違うけれど、秀吉の方がメインとして出てくるせいか、秀吉の方が暴君に見える。 さりげなく、あの浅井長政のものと思われるしゃれこうべの杯が出てきはするものの,それを越えるものが出てくるからだ。
 「天下統一の欲に取りつかれた者たちが、戦を止め、平和な世を作るというが未だ果たされていない…犠牲になるのは 我々国民だ」という感じの言葉がある。 これはそのまま現代社会の日本を思わせるような気がするのは、私だけだろうか。 代わる代わると国のトップが交代するが何か一つを成し遂げた人はここ数年,誰一人いない。
 前半、大泥棒としての五右衛門が描かれ、大半が戦士のようで最終的には忍という感じ。 泥棒の顔と忍の顔。二つの顔は正反対。 自由人から復讐鬼、そして真の忍へと変化していったとも言える。
 冒頭のシーン、霧隠才蔵との一騎打ち、そして信長の影を残し,一騎で戦場へ突っ込んだクライマックス…どれをとってもスピード感にあふれ、クールでワイルドな魅力がある。 本当にジェットコースターのようだ。 楽しい時間があっという間に過ぎていく。
 絵になる場面ばかりだ。 忍どうしの一騎打ちで勝敗が分かれるであろう,最後の瞬間が最高に目をひきつける。
 五右衛門と才蔵は旧知の仲でありながらも、別の道を選んだがために敵どうしだけれど、どこかでちゃんと理解している部分があって、また,絆は決して絶たれてはいなかったことに感動。 才蔵は常にクールだけれど、感情的になる部分にその人間性と魅力を感じた。 
 大事な人を失ったとき、自分に欠けていた大切なことに気づかされる。 五右衛門は「パンドラの箱を開けたとき,イブが一つだけ取り出さなかったものがある、それが自分に欠けていたものだ」と言う。 それがなんだったのか、いろいろと想像できるが、これだとは断言はできない。 というかむしろ、言葉に表すおりもそれは感じているもおのなだろう。
 その“何か”が五右衛門を最終的に復讐の思いから彼を救い、一つの使命,つまり大切なことを伝え、託すために動かしたのだ。
 かつて、信長の下についていた者たちが信長の鎧と兜を身にまとった五右衛門を信長と思ったのは、その鎧だけのせいではないと思う。 暴君とは違う,人間としての魅力のあった信長の遺志を背負い、受け継いだ真の家臣の姿。 まるで、信長の魂がそこにあるかのよう。 友の死、大切な人の存在があって,彼は学び そこに至ったのだろう。
 フィクションだけど、もし 五右衛門が信長の忍だとしたら すごいなぁとか、ここでは語られるこおtが事実だたらしいのにと思うことが多々ある。逆なこともあるけれど。
 復讐は何も生まないし、自分が望むものなど手に入れはしない。 大切なのは己の意志を伝えること。 悲しいようで幸せな最期といえよう。 多くの人物が使命を果たし、後悔の色を見せない。

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by jd69sparrow | 2009-05-14 11:42 | 映画タイトル か行

クローズ ZERO2

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<イントロダクション>
 鈴蘭高校に鳳仙学園の二つの不良たちのが集う高校。  この二つの学校の争い・戦争が主軸である。 けれを戦国時代からしばらくの歴史に例えられなくはないだろうか。 “高校”は背景に過ぎない、というよりもそこへ通う学生の“城”という方がなんとなくスッキリするような気がする。 始めは国の中での争い、そして 敵国(外の国)との対決へ。
 2009年の大河ドラマ『天地人』。 二分した上杉家の家督争いに始まり,やがて北条などの諸外国との戦いへと発展していく。 上杉家内の争いがあって、二人の大名は和睦する。 この流れが『クローズ zero』のだ一作目の芹沢と滝谷との鈴蘭の頂上をかけた戦いを連想させる。 そして、家督を手にした上杉景勝は、敵国との戦へと目を向ける。 これが『クローズ zeroⅡ』をなんとなく思わせる。
 あくまでも素手での“ケンカ”にこだわり、本気で相手へぶつかっていく,カラス達。 今の世の中には中々見受けられない,熱い戦いは武士達が 己が信念を貫き,戦ったのと変わらないだろう。

<あらすじ>
 滝谷源治は、鈴蘭を束ねる芹沢多摩雄をくだし、頂上(てっぺん)の座を手にした。 とは言え、鈴蘭を一つにするにいはまだ遠い現実。 数年前、鈴蘭のトップにいた川西が鳳仙学園のトップに対して起こした事件があり,それから月日が経ち、少年院から出た川西を復讐を誓う鳳仙が待ち伏せ、追われた川西が行き着いたのは、多摩雄たち,芹沢軍団の溜まり場。 そこにふと現れた源治の鳳仙への一発で、長く守られてきた,沈黙の協定が破られ,再び鈴蘭と鳳仙との戦いが始まる。

<感想>
 人を殴り、蹴るなど 傷つけるという重みがまず伝わってくる。 武器を使ったのではわかることのないものである。 武器に頼るのは相手に対する恐れの表れで、“逃げの一手”。 ベース音のような鈍い音の響きが重みの存在感を示す。 それは実際、本当に殴る・蹴るをするという作り手のリアルな演出。 だからこそ、重みが伝わる。 銃やナイフじゃ、自分の体には何も伝わってこない。 だからこそ、“人の命の重さ”に対する考えが麻痺し、簡単に人の命を奪ってしまう。 “彼ら”は死を自分にも相手にも決して望んでいやしない。 人為的に人の死を奪わないのは当然だが、あるドラマにあったように、彼らは人を殴れば自分にも痛みが伝わることを知っている。 そこがやっぱり この物語に説得力をつけているのだ。 みんながみんな、それぞれ誇りや信念を持っている。
 戦いの発端はかつての鳳仙と鈴蘭のトップの間にあったもの。 それさえなければ、ここまでの戦いはない。互いが信念を持っていて,状況しだいでは仲間にもなりうる感じ。 仲良くすればいいにとも思うが、そういうわけにはいかない。
 現実を考えてみると、本音と拳でぶつかり合うなどあまりない時になり、そんな時代だからこそ、人は『クローズ zero』のような青春物語の中に,今ないものを見て ただ単純に楽しんだり、懐かしく思ったりするのだということには納得ができる。
 人の上に立つ事、人々をまとめるとはどういうことなのか。 それが主人公に与えられた課題であり,物語のテーマである。 勝負の時、源治の中の何かが大きく変わっていて、それはまさしく 鈴蘭のトップの器を現している。 だからこそ、多摩雄たちが立ち上がったのだと思う。
 アクションとしては、足技がすごい。 拳ならその重みがスクリーンにとどろくが、足はその人物が綺麗に映える。 高度にも思えるし、足技が一つ決まるとその人の強さがわかり、全体的にかっこいいと思うのだ。 
 人は大切な人を失い、その人の大切さに気づく。 そして、その人に教えられたことの深さも理解し、強くたくましく変われるのだと思う。
 ここに出てくる,みんなが強さと仲間や下で支える人たちを思う気持ちを持っている。 相手のことを思うこと、言いたいことを言ってぶつかり合うのはとても大切なことだけれど、中々できないのが今のご時世。 しかし、一人一人の気持ちしだいで世の中は変わる。 今、私達に足りないものがここにはある。 

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by jd69sparrow | 2009-05-01 00:00 | 映画タイトル か行