カテゴリ:映画タイトル あ行( 101 )

アフタースクール

d0058606_0212225.jpg
<イントロダクション>
 探偵が出てきて,探偵に依頼する依頼人がいて,協力者、ターゲットがいる。 探偵が出てくる以上、“謎”が存在するわけであるが、その謎の種明かしがされるのは後半…ここまでだとごく普通の構成。 物語を見せながら見る側も、答えを予測・推測していく。 その答えがわかりかけた,そのとき“トリック”にかかっていることに気づくのである。 もちろん、よっぽど注意深く見るとか,何度か見ていく中でわかるかもしれないし、各場面に謎を解くヒントが隠されていることだおる。 素直にそのままとはいかない。 後半,随所に説明(種明かし)が入ることで,やっと“物語”が見えてくる。 「あぁ、なるほど。 そうだったのか」となることがおもしろいのだ。 オープニングからエンディングを予測するのは相当の難問で、どうしたらこのような結末を考えられただろうか。

<あらすじ>
 木村は美紀と共に夫婦生活を歩んでいた。 ある日、木村が仕事へ出かけるとすぐに,美紀が産気づいた。 木村の親友・神野は木村に代わり,美紀の出産に付き添うことに。
 一方、お金がらみで悩む北沢はある人物から,人探しの依頼を受ける。 内容は失踪した木村の行方を追うことだった。 手がかりを追う北沢は、木村と親しく,また 母校(中学)の教師をする,神野だった。 北沢は神野を巻き込み,木村の捜索を始めるが…。

<コメント>
 映画を見終わる頃、振り返ってみると不思議な点があちらこちらにあったことに気づく。 そういった点の数々を自然にみえるようにする…。それがすごい。 人というのは状況から見えた事で自己判断する。 説明なくても何たるかを飲み込む。 それは“空気が読める”というふうに良い方にも働くけど,“思い込み”なことも少なからずあると思う。 いつも自分が読んだとおりとは限らない。 
 少し話は違うが、見た目だけでその人を判断してしまうことや、一つの例を見て 全体がそうであると考えてしまうこともある。 だから、いかに自分の頭の中だけで物事を処理してしまっているのかがわかる。 この作品もしかりで、“見たまんま”ではない。
 主人公は神野のようで北沢であると言っても間違えではないのではないだろうか。 一人の女性が主軸として展開する,この作品…北沢も観客(こちら)も何も知らないところから始まり,信じて疑わなかったことが覆され、裏切られる。 北沢が受けたものと似た何かが伝わってくる。 つまり、彼が思ったこであろうことが、観る側にもあるということ。 北沢という男は他人へ不信感を持ち,ひねくれているふしがあるが、彼のような人間像は、私達からして,赤の他人とは言い切れない。
 北沢が心の奥で抱くものの延長、それがエスカレートし,自己を失った者が(法を破るような)過ちを犯しているのではないだろうか。 そうでないにしても、何かに不満を覚えることも,それを誰か・何かのせいにしてしまい、自分が見えていないことは少なくないだろう。  
 簡単には解けない謎、物事のつながりなどひねりにひねられて,無理なく工夫がされたシナリオ、ユーモアだっぷりで,(ちゃんと伝えるべき)メッセージも明確にされている。 また、ストレートに伝えている。 「なるほど」の連続…物語が充実この上ない。
 北沢の依頼人、ならびにギャングを悪だとして、神野たちを善とする。 こう一言に表しても、ふたを開けると(幾重にも布が重なり,)いろんな糸が絡み合い,トリックが重なりあっている(特に“善”側)。
 この映画を表すものとして,パズルはぴったりだろう。 物語を見ているとき、全てのつじつまを合わせようものなら、細かな点を思い返す必要があり,それがパズルのピースをはめこんでいくことに等しい。
 とにもかくにも すっきりした,また おもしろい締めくくりだと思う。

d0058606_16583245.gif
←あなたのクリックに感謝します。
[PR]

by jd69sparrow | 2008-07-09 00:50 | 映画タイトル あ行

相棒 -劇場版- 絶体絶命!東京ビックシティマラソン 42.195km

d0058606_21294032.jpg
 2000年、今から8年前からスタートした,ドラマ『相棒』。 シーズンにして6回に渡る。 ドラマの中に出てくる,主人公二人が働く警察署内の特命係は、組織内で不必要な人物が送られる部署(※パンフレット参照)。 その狙いは組織がその対象者が辞職すること。 既に書面で触れられていることだが、特命係・杉下右京のもとに送られた亀山薫も,組織の狙い通りになるだろうと きっと組織の人間の誰もが思ったことだろうが、そのジンクスを見事に破り,8年も経ったということになる。 どこかで似たものどうしより正反対のタイプどうしの方がパートナーとして、上手くやっていけるという話を聞いたが その通りである。 
 右京の頭脳と亀山の行動力の良さが,抜群のコンビネーションを生み,上層部の人間の圧力に負けない力を発揮している。
 あらすじ。 顔の知れた男性キャスターの死。 それは始まりに過ぎなかった。 次々と著名人の命が狙われる。 その謎を追い,たどり着いたのが,あるソーシャルネットサービスである。 そのサイトには捜査から外れていた,二人だったが これを見逃さずにはいられない。 事件を追っていく中で大勢の人々の命を危険が迫っていると ふんだ右京と亀山は動き出す。
 犯人も相当の頭のきれる人物であるが、右京の推理もするどい。 警察署内では変わり者的存在で,卓越している。 それゆえに,謎の答えへの真の髄に迫り,事件のみならず,組織内の奥まで見通しかねないからこそ,“窓際”へと追いやられたのは明らか。
 どうして人は悪事や失態を隠すのか。 それも誰かを犠牲にしてまで。 そもそもの発端はそこにあり,死ななくていい人間が命を落とす。 モラルが汚されている。 そして,現実に関連づけられることが起こっているのdから,恐ろしい。
 どこかで聞いた事だけど、“ニュースで流されている事件の何かかがある”のだから,視聴者である我々がメディアで見聞きしていることが 必ずしも正しいとは言えない。 何かの策略で偽りが隠れているかも…しれない。 だから、マスコミで知った情報をそのまま鵜呑みにすることは100%良いとは言えないのだ。
 “人は忘れる生物と劇中に言葉が出てくる、それは犯人にとって酷な言葉であるし、現実的に考えてもむごいものだと思う。 衝撃的な,また,悲しい残酷な事件が起こっても,それに携わっていない人間は,最初のうちはその事件の目新しさや珍しさに興味惹かれたり,同情・共感しても,時が経てば、記憶のかなたである。 世間から忘れられ、しかも間違った認識のまま,流されてしまうほど事件の被害者(の遺族)たちにとって残酷なことはないだろう。
 そういう世間の現実、とある映画の名台詞“事件は会議室で起きているんじゃない~”という言葉から,くみとれる。 現場から遠い人々の疎さ(もちろん、全てがそういうわけじゃないだろうけど)という現実がここでも描かれている。 物語じたいはフィクションだが、テーマやそこで取り上げられている組織の姿などの事柄はノンフィクションだ。
 行動派と頭脳派。 後者は現場から離れた場所で前者をサポートするというイメージを個人的に持っている。 しかし、 ここではそんな二つの局面の関係性は皆無で 捜査に挑み,全力であり,現場を知っているということが魅力的だ。 その現場での緊迫したシーンはハラハラドキドキな印象である。
 右京の推理力と薫の(現場をよく知る者としての)勘の良さが発揮され、次々と謎が解けていく爽快さもあり、壁にぶちあたり,行き詰まることもある。 最後まで気が抜けないストーリー展開が内容の濃さや尾をつかませてくれることもなく,最後まで目が離せない。 仕掛けるトリックも、(どちらにしても)すごい。 ほとんど同等の力で善と悪とが渡り合う,エキサイティングな映画だ。

d0058606_22154866.gif 
←あなたのクリックに感謝します♪
[PR]

by jd69sparrow | 2008-05-29 21:39 | 映画タイトル あ行

L change the World

d0058606_12343567.jpg
<Death Note(前回)までのあらすじ> 
 “Death Note”、そこに名前が書かれた者には死が待っている。 死神が落とした“Death Note”を拾った,頭脳明晰な青年・夜神月は、犯罪のない平和な世界を築きあげるため,“キラ”となり、人の生命を操るようになる。 しかし、その歯車を狂わす,もう一人の天才が現れた、Lである。 本名もその素顔、生い立ち、全てにおける彼の情報は謎に包まれている。 警察と交わり、次々と事件を解決しているということがLという人の唯一知られている手がかりなのだ。 そして、夜神月とL、人の生と死をかけた,二人の頭脳戦が始まる。

<イントロダクション>
 “月=キラ”との戦いの末、自らの命を犠牲にすることで、キラとの勝負に勝ち,“Death Note”による“死の連鎖(意図的な)”を食い止めたL. 彼は自分の名を“Death Note”に書いたのだった(つまり、Death Noteに名前を書くことで自らの命を犠牲にしたことになる)。“Death Note”により,操れる命の帰還は“23日間”。 キラとの戦いの終わりから,Lno最期までが23日間で、その空白の時間の出来事が『L change the World』である。

<今回のあらすじ>
 死神がもたらす死がなくなりし後、人為的な“死神”が密かに作り出されていた。 “増えすぎた人口”を減らすのが“それ”の目的である。 人の手によって生み出された“死神”。 それは今日的な進化能力を持ち,破壊的なパワーを兼ね備えた死のウィルス。
 そのウィルスの鍵を握るアジア感染症センターの研究員kらのSOS、仲間からのメッセージと贈り物を受け取ったLは、研究員の娘、真希、そして仲間からの贈り物,死のウィルスを利用することを企むブルーシップにより消滅させられた,タイの小さな村の唯一の生き残りである子ども・BOYを守り,頭脳を使い,また,体を張ってブルシーップと死のウィルスに戦いを挑む。

<感想と解釈>
 (これは推測に過ぎないのだが、)Lは「家族」が記憶に残らぬほど,幼い頃に良きパートナーであるワタリの持つ施設に連れてこられ、ゆえに「家族」の温かさを知らず、目の前にある難解なクイズを解くことを楽しみとし、人と直接関わるのも,ワタリ意外にはあまりなく、彼はまるで(有能な)ロボットのようである。 そんなLの変化をここでは描いている。
 Lは頭で解決できないことに不器用だ。 ゆえに、直接人との関わりや体を動かすことには慣れていない。 愛情や友情を知らないLは、初めて守るべき存在ができたとき、なんとなくぎこちない。 そのぎこちなさと不器用さ、そして 人と交わっていくことで、そんな彼の中にに知りえなかった,自らの内面が表に出てきているのかもしれない。
 感情が見えない、あるいは見えずらい。 そんなLにも命に対する思いがある。 それは、彼にとって何物にも変えられない,大切なパートナーを失い,命の重みや大切さをそこで初めて知ったからと言えるだろう。
 それまで,価値を見出すことのできなかった,現実世界に壁に囲まれた空間から出て“世界”に触れて,現実の意味を理解し始めるL、真っ黒だった彼の目の光が宿ったようだ。
 今回の話は、世界をまたに駆けてのバイオテロ。 “Death Note”から路線が離れているようでもあるが、根本的なところや目的はほとんど変わらない。

d0058606_1385841.gif
←あなたのクリックに感謝します。
[PR]

by jd69sparrow | 2008-03-29 13:03 | 映画タイトル あ行

アイ・アム・レジェンド

d0058606_318925.jpg
<あらすじ>
 2012年、世界中の人々は滅び,地球上で生存者はただ一人と思われる。 ロバート・ネビルである。強力なウィルスが世界を蝕み,あまりにも多くの人々が命を失った。ネビルは、人っ子一人いない、ニューヨークで唯一の話し相手で犬のサムと共に生きていた。
 彼を突き動かすのは、ウィルス感染者を治療し、世界に再び人類を再生するという責任感だった。 夜はウィルスに感染し,人間としての理性が失われた人々,“ダークシーカーズ”からの恐怖と闘うネビル。 科学者としての才能を頼りに日々研究を重ねるネビルの努力が報われるときは果たして来るのだろうか…


※ネタバレ注意※

<感想>
 人は一人、広い世界に取り残されたら一体どうするのか。 静まり返った世界で話相手は犬だけ。 たとえダークシーカーズの恐怖がなかったとしても、途方もなく続く時間を一人で過ごすというのは恐ろしいことだろう。 何かが潜んでいるかもしれないと自分の知る世界の外から怯える毎日が続く。 一人でいることが最初はよかったとしても、それが長く続くと人はおかしくなりかねない。 ネビルは正気を失うことなく、なんとか毎日を過ごしている。 ただ、それは彼が科学者で、ことの元凶であるウィルスの脅威をとめることができる,いや、この世に希望を蘇らせる唯一の可能性であることが幸いしていると言える。 もし、仮に科学者ではない人が一人,生き残っていたら,この状況をどうしただろうか。 ひょっとしたら奇跡が起こせるかもしれないし、あるいは人類はとっくに滅亡したいたかもわからない。 
 常に緊張感のつのる状況が続く。 孤独の中にいるネビルがどういう思いでいるのかというのが、ストレートに伝わってくる。 映画の中で彼は恐怖を恐れていて、それが観ている側を同じ思いにさせる。 崩れそうな精神を必死に抑え,安心感をできる限り自らにあたえるとか。 だからこそ、次に何が起きるかをずっと意識せざるをえないのだ。
 愛する者が側にいるわけでなく、毎日,もしかしたら生きているかもしれない誰かに呼びかけをし、世界中の人々を救い、人類を復活させることをあきらめず,可能性を信じる。 人はあきらめたら終わりなのだ、言い換えればあきらめなければ奇跡だって起きる。 日々努力を重ねていけばその努力は報われるときがくる。そう感じさせた。 
 “地球上でたった一人になってしまったら自分はどうするのか”(確か、この作品のうたい文句にもあったと思うが)、本気で考えさせられる。 主人公が陥ったように,いかにして孤独と恐怖と戦うか、そして正気を保っていくか。 考えただけでも恐ろしいと私は思う。 “外からの恐怖”というのがここで取り上げられているわけで、しかもそれに一人で立ち向かわなければならないとなると並々ならぬ精神力を要する。 主人公がどう精神力を持ち続けるか、気がおかしくなってしまうような状況をどう切り抜けていくかという物語でもある。

d0058606_316721.gif
←あなたのクリックに感謝します♪
[PR]

by jd69sparrow | 2007-12-24 03:16 | 映画タイトル あ行

ALWAYS 続・三丁目の夕日

d0058606_17595391.jpg
 時代は昭和34年。当時、青春時代を過ごした人にとって懐かしく思える作品、この時代を知らない世代でも懐かしく思えるのはなぜだろう。町並みが変わっても、変わらないものがあるからだと思う。「三丁目の人々」は人情味にあふれ、他の人のことでも興味を持ち,大変な時は助け合う。誰かが助けを必要とするなら惜しまず手を差し伸べる、それぞれの家族が各々の力だけで生きていくのではなく、町の人々がみんなが家族であって,互いにないものを補いながら助け合ってと共に生きている。 そして、家族は皆,一緒に食卓を囲むのが当たり前、子供は愛情たっぷりに育てられ、母親は子供のためにいろいろと工夫をこらし、それをこしらえたりと形にする(そんな母親の思いやりに照れながらも,密かに感謝の念を抱く)。 父親は自分の仕事に誇りを持ち,一家を支えるために日々,汗をかいて働く。
 まるで理想郷のようだけど、子供から大人になるまでの経験や思い出にリンクすることは決して少なくない。だから今にいたるまでに感じてきた温もりをと重ね、懐かしく覆うのかもしれない。
 前回までの話。夕日三丁目、そこは町の人々が皆,温かく人情味あふれていた。 その住人である,売れない小説家で駄菓子屋を営む茶川のもとに身寄りのない少年,淳之介が、また,茶川の向いで暮らす鈴木家(鈴木オート)へ集団就職で青森から東京へ出てきた六子がやってきた。 六子は鈴木家が営む鈴木オートでで車の修理の手伝いの仕事を始める。淳之介は茶川の小説が連載されている「冒険少年」の,茶川の小説の愛読者である。
 二人は三丁目の人々の温かさに触れながら新しい環境で,新しい家族と本当の家族に等しい関係を築きあげ、“夕日町三丁目”の家族の一員となっていく。
 今回の話。 淳之介と六子が夕日町三丁目にやってきて それぞれその場所の家族となってから四ヶ月がたった。 三丁目は変わらず活気があった。 鈴木家には新しい家族がやって来た。一家の主,則文の親戚の娘・美加である。その親戚の都合で鈴木家に預けられたのだ。 一方、茶川家。茶川は淳之介との生活を続けている。 そんな茶川は淳之介を養う者として、淳之介への思いが試されることになり、そして失いかけていた夢を呼び覚まし、再びペンをとる。芥川賞に向けて。
 家族の絆があって、夢を実現させるための挑戦があって、今度はさらに三つの恋模様がある。不器用な大人たちの恋、目に見えにくくても温かな恋、そして小さな恋。三つがそれぞれ違う色・形をしている、だけどどれも応援したくなる素敵なものである。
 町の人々の関係性、特にそれぞれが,それぞれを思う気持ちが描かれている場面は心に光が照らされるかのよう。 そういう思いがあるからこそ互いの絆はお金よりも大切なもので強く結ばれているのだ。
 子供たちがみんな、「えーっ」と言いながらも真面目に,習慣的に家事を手伝う姿やトモエ(則文やその子供・一平、鈴木オートで働く六子を陰で支えている)のような母親の姿、現代では中々見受けれないような気がする。 子供の頃、当時は恥ずかしかったり,照れくさいと思ってた母親の親切(心遣い)は愛情の大きさなのだと改めて確信した。
 この物語も、変化しつつある日本が丁寧に描かれているけど、時代が変わっても昔からのこういったもの(人情や愛)は受け継ぎ、この昭和の温もりを時代に甦らせて欲しいし、できることなら甦らせたい。
 時代はどんどん便利になっていく。この映画の作り手たちの言葉にもあるけど、テレビや携帯電話などの便利な道具があって当たり前と考えてはいけない。そこに至るまでの人々の苦労は次世代へと伝え、また,便利になっていくもの・ことに依存してはいけないと思う。 便利さに頼りすぎるのではなく,世の中を暮らしをよくするために努力した人たちへ感謝の気持ちを持つべきであろう。 そういう気持ちが大切なのだと実感した。

d0058606_1802149.gif
←あなたのクリックに感謝しますv
[PR]

by jd69sparrow | 2007-11-07 18:00 | 映画タイトル あ行

エヴァンゲリヲン新劇場版:序

d0058606_23505978.jpg
 遠い未来の世界とどこか懐かしい日本の風景とが一つに集約されてそこにある。だけど、一件二つの次元が不自然ではなく,自然にそこにある。人類と使徒との戦いを描くこの物語を、人間の理解を超えたものへ人類の最終兵器(エヴァンゲリヲン)で立ち向かうもの。人間の理解は万物の一部に過ぎず、理解の域を超えたものというのは人が考えるより遙かに多くあるはずだ。それない私たちの知らない場所で何かが作られていないとも限らない。それがプラスなものであれ,なんであれ。
 静かな町、それはまるで嵐の前の静けさを見るようだ。 そこには未来とも現在とも、ましてや過去でもない,そういう世界が広がっているような気がした。 静かな場所にとどろく重い音の響き、それは人類を,地球を脅かす巨大なモンスター。それを人は“使徒”と呼ぶ。人々は追いやられ、まるで爆撃から身を守るため,防空壕へと避難することを余儀なくされた戦争の時代のようである。 人の理解を超えた“それ”は当然,人の作り出したものでは中々たちうちできない。そこで起死回生のために出された切り札が“エヴァゲリオン”。主人公シンジは父親のいる組織へ呼ばれ、いきなりエヴァの機体に乗り,地球を脅かす使徒と戦い,地球を守るという使命をさずかる。突然,シンジの運命が大きく,思わぬ方向へ動き出し、彼はその運命に戸惑い、翻弄され自分の歩む道を見つめ,己との戦いに挑む。
 エヴァはシンジを運命の分かれ道へと導く。急に強いられた試練に葛藤しながら,自分を信じ始める。 そして、シンジは「嫌なことから逃げてしまう自分」を変えることを決意する。 そんな思いは彼を危険に走らせもするが、敵や己と戦う強さを与えた。
 父親の愛情を受けたい、ただそれだけを願って父親のもとを訪れたはずなのに、突如として地球を守るという重大な責任を負う。 過酷すぎる使命、受け入れがたくもあるが同じ運命を歩むレイと出会い、守るべきモノを知り、自分を支えるものを知り、シンジはエヴァのパイロットとして,一人の人間として成長していくのだ。
 エヴァンゲリオン、まるでそれ自体に命があるように思えた。シンジが成長していくと共にエヴァの力が証明され、その成長があるからこそ,エヴァに命が宿っているように私たちの目に映るのかもしれない。純粋に“エヴァ”のかっこよさもこの物語の魅力であるが、主人公が己の運命を受け入れ、成長していくという人間ドラマでさらに魅力をましている。今はまだ主人公が覚悟を決めたにすぎない。これから主人公や地球の運命がどう動いていくのか期待がかかる。そういう“はじまり”である。

d0058606_23444160.gif
←あなたのクリックに感謝します♪
[PR]

by jd69sparrow | 2007-11-06 00:00 | 映画タイトル あ行

オーシャンズ13

d0058606_1342447.jpg
 アメリカ・ラスベガスと言えば“カジノ”、“オーシャンズ”はまさにそこから始まったのである。11の「カジノ」からスタートし,「12」のフランスを経て、原点「カジノ」へと戻ってくる。 シリーズはそれぞれ物語の意図が違う、共通することがあるとすれば“仲間の絆”。 各方面のフェイクのプロが集結し、大仕事を成し遂げるというもの。
 これは「オーシャンと十一人の仲間」のリメイクであるが、最高のキャスティングが勢ぞろいという他,内容が充実している。 オリジナル版はまだ知らないけれどリメイクと言われなければそうだと気づかない。
 アメリカには日本の「釣りバカ」のように長編シリーズは「007」や「SW」がある。 「オーシャンズ」はどこまで続くのか。オーシャンズのメンバーの生活の変化や成長はあってもストーリーの意図がそれぞれ独立しているし、もしかしたらこれから先も続くのではないかと期待が寄せられる。 キャストのコメントにもあったような気がするのだが「オーシャンズの子どもたちが登場するところまで話は進むかもしれない」という話題もあった。 シリーズが続き、歳月がどんどん流れるとキャストの入れ替えがあったりして完全に同じメンバーでというのは中々難しい。 けれど全く同じ主要キャストが全員顔を揃えることが実現するたびに嬉しく思う。 「オーシャンズ」のシリーズの条件はそこなのだ。
 カジノでの大稼ぎがあってから6年。 オーシャンズが再びカジノであることを成し遂げようと決意した。 それは仲間の一人ためにオーシャンズが立ち上がり復讐すると同時にその相手をこらしめるということ。 オーシャンズが一仕事するときその資金の支えをしてくれる仲間,ルーベンは信じていた仲間に裏切られ,ルーベンが手にするはずのホテルカジノはその相手,ホテル王ウィリー・バンクによって奪われることに。 それにショックを受けたルーベンは病にふしてしまう。 “みんなは一人のために、一人はみんなのために”という言葉がそこにある。 ダニー・オーシャンやラスティをはじめとするオーシャンズ・メンバーは全員でバンクに立ち向かうのだ。 
 2001年に始まったジョージ・クルーニーとスティーブン・ソダーバーグを筆頭に始まった「オーシャンズ」。 音楽から物語の雰囲気、オープニングなどの全体の背景が今現在のものでありつつ、その中には“レトロ”な色がある。 キャストもストーリーも全部現代だけど、今であって今ではないという感じ。 古きよき時代から伝わる娯楽映画の王道を貫いてると言うのが今回の第一印象。 ジャンルでいうなら娯楽+コメディ。 あちこちに笑いが含まれている。 アメリカンならではのジョークや小ネタを知っていればいるほどさらにおもしろくなる映画だと思う (しかも男ばかりで、その中に一人女性がいるという。 まるで砂漠に咲く一輪の花のごとし)。
 オーシャンズたちにはいつも明確な目的がある。それを成し遂げるためにいろいろな手段を念入りに計画し、実行するという,それもひとつの見所。 そして毎回出てくる強敵相手に戦いを挑み,見事にその相手にフェイクをしかけ仕事を成し遂げるというのがさらにまたおもしろい。
 敵もゴージャスなホテルの経営者だったり,警戒心や守りも強い。 そして個性という色ももちろん濃い。一筋縄ではいかない。 毎度そうして個性の強い敵が出るだけに毎回の敵にも期待がかかるのだ。 
 そして恒例のようにある変装。 今回はみんなが変装をし、それぞれが重要なポジションにつき,役割を果たす。 その連携プレーもまた見所である。 誰かがピンチかと思いきや,その窮地を救い,逆転に持ち込む者がいる。 それぞれの道のプロがいるだけに,またそこに“友情”があるからこその“技”なのだ。
 決してコマーシャル・予告は裏切らない。 予告からわくわくさせるのがこの作品の長所だ。そこから見れる雰囲気と変わらない、あるいはそれ以上のものが待ち受けている。  今回で第三作目。 まだ「最後」とは告げられていない。

d0058606_2214747.gif
←あなたのクリックに感謝します。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-08-22 02:20 | 映画タイトル あ行

インサイドマン

d0058606_0125540.jpg
 意味深な冒頭の犯行予告ともとれる犯人のセリフから始まる映画のスタートはなんとなく「リバティーン」を連想させられた。 これから始まる彼の物語は果たしてどう展開していくのか。 ジョン・ウィルモットのように順風満帆に見えた自らの歩む道は足元から崩壊するという結末を辿るのか、そんな考えが一瞬頭によぎったのである。 しかし彼,いや、彼らは期待を裏切らない。 ダルトン・ラッセルと名乗る男は知的さに満ち溢れている印象を受ける、そして実際もそうである。 マンハッタンの信託銀行がダルトンら犯行グループにより占拠される。人質は50人。粘り強い刑事たちと頭脳明晰,冷静沈着な犯行グループたちの戦いの火蓋が斬って落とされた。 彼らの狙いは一体なんなのかそこが問題だ。
 マンハッタン信託銀行。 大勢の人たちの往来のする場所。 そんな場所にペンキ屋に化けた犯行グループによりのっとられてしまう。彼らは言うなれば銀行強盗だ。 しかしただの強盗ではなかった。 彼らはみなフードをかぶり,サングラスをかけ,顔の半分は覆いで隠されている。だから人質たちは顔のわからない犯人たちにおびえることとなる。 そして彼らの狙いは中々見えてこない。 そんな事件を担当することになったのがNY市警のフレイジャーとミッチェル,両刑事である。 楽天的にも見える彼らだったが事件に直面する時,“刑事の顔”に切り替わる。全く別人のように。 現場に既にかけつけていたダリウス警部とともにフレイジャーたちは犯人たちと頭脳戦を交える。
 犯人たちは用心深い。 それゆえに狙いも手段も透明。 彼らは人質も利用するなど警察にトラップをしかけてくる。 彼らがとる行動の原点はマンハッタン信託銀行を経営するケイスに隠された真実である。 人質に冷ややかであったが流血ざたは起こそうとしない。 ダルトンはある意味でケイスに制裁をくだしているようでもある。 それは全部が全部悪人には見えないからだ。それは人質の少年との会話にある。 さりげなく現実的な問題を提起しているのだ。 父親が子供に善悪を教え,諭すかのように見える。 
 フレイジャーとミッチェルの刑事コンビ、ケイス、犯行グループの間に立つは敏腕弁護士ホワイト。 物語的にはこの人物はある種,曲者。 フレイジャーたちにとって犯人たちと戦う頼りがいのある有能な弁護士にも見えるが,厄介な存在のようにも思えた。
 刑事としてのプロの力を持つフレイジャーを始めとする警察と犯人たちの頭脳戦だ。 透明な犯人たちとの戦いはどちらもひけをとらない。

d0058606_12204731.gif
←あなたのクリックに感謝します。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-07-29 02:25 | 映画タイトル あ行

硫黄島からの手紙

d0058606_23453228.jpg
 当たり前なことかもしれないが、戦争は国と国とがそれぞれの全土をかけて戦うもの。 戦いに負ければ自分の国の土地を敵国に奪われかねない。 それは“戦い”や“争い”そのものが招く代償であろう。 日本の中で国が分かれていた時代、国が一つ敗れると勝利をおさめた国の武将たちによtってそこは支配されてしまう。 つまり、日本という島国も敵国にその土地を奪われることのないよう国を守り、外部から来る敵,また海を渡り戦いに挑んだのだということが(映画を見て)改めてわかったのである。 まだまだ戦争について知らないことが多いと思うし、今の時代に生きる人々広く伝わってないのだろう。 私たちが未だに知らない戦いがたくさんあるのではないだろうか。 現に,この映画の舞台となる“硫黄島の戦い”は映画になったことで初めて私は知ったのだ。 そういう人も少なくないはずだ。
 1944年、太平洋戦争の最中、一人の軍人が指揮官として(部下となる)兵士たちの硫黄島へやってきた。 栗林中将、実在の人物である。 そこは黒い砂が敷き詰められ、空気も気温の高さも凄まじい上、飲み水も十分にえることのできない場所だった。 兵の規律も厳しく,古い固まった考えを持つ上官も少なくない。 その中に入ってきた栗林は空気を和らげた。 彼は古きにとらわれない新しく,柔軟な考えの持ち主だったのだ。 しかし、それでも安心はできない。 彼をふくめ、兵士たちにはアメリカ軍から“硫黄島”,日本を守る義務があり 戦いが待ち受けていたからだ。 栗林は兵士たちに言った、「最後の一人になろうとも生きて戦え」ということを。
 考えが異なったとしても決して「戦争」を心から望むものなどいない。 それは万国共通にいえることと思う。 その事実が鮮明にに描かれている。 「国のため」と言って命をかけて戦うというのは自らを奮い立たせる言葉。 それは各々の指揮を高めるための自分への誓いであり、恐怖に押し殺されそうな思いや戦いを望まない己を戦わせるための手段や(持つべき)心構えだったのかもしれない。
 アメリカに留学していたことで硫黄島の兵の他の上官のほとんどから あまり好まれなかった栗林中将であるが彼なしで5日間で終わろうとしていた戦いに一ヶ月以上にも渡り、耐えることができただろうか、また 硫黄島を守ることができただろうか。 強力な戦力を持つ敵たちをここまで苦戦させたのは彼の力あってのことだと言っても過言ではないだろう。 “古き”を忘れずして“新しき”をも受け入れられることこそが時代を切り開き、また 生き抜いていく術なのだろう(現在、新た指揮アイディアや技術がますます求められていることからもそれが表れていると思う)。
 男たちはそれぞれ“思い”を抱き、戦場へと旅立つ。 愛する者たちから離れ、厳しく息苦しい環境下でひたすら戦わなくてはならなかった彼らの心情はどれほど孤独(苛酷なもの)であったのだろう。 遠く離れた家族からの便り、そして自分の思いを手紙にゆだねることこそが彼らの支えであったに違いない。 そうして生きて抜いてきた兵士たちの死への覚悟を敗北に散っていったかれらの無念さをもっと私たちは知らなくてはならないと思った。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-05-01 23:56 | 映画タイトル あ行

アンフェア the movie

d0058606_19384461.jpg
 アメリカ映画では「トゥームレイダー」のララ・クロフトというヒロインが誕生した。それに続き「バイオハザード」のアリスや「アンダーワールド」のセリーンのようにキャラクターは様々であるが戦うヒロインが続々と登場している。 日本でも今、映画作品においての“戦うヒロイン”がここにある。 洋画におけるヒロイン像とは違った風合い。 その役割としてはヒロイン、けれど一言で“戦うヒロイン”というのは少し違うようにも感じられる。 しかし彼らに共通するのはクールであること。 それぞれが各々の正義を持ち,それを貫く。
 元警察幹部の命が次々と狙われ奪われるという事件が起こり、それには警察が隠す裏金の問題がからんでいた。 主人公・雪平夏見は検視官・三上の協力のもと一つの答えにたどり着く。 それは事件の鍵を握ると思われる“Y's FILE”なるものの存在だった。 雪平は公安部に拠点を変えてその謎の真相をつきとめるための捜査にとりかかっていた。 そんなとき一人娘の美央が危険な目にさらされてしまう。 警察病院に運ばれ一命を取り留め,ほっとしたのもつかの間美央をあずけたその病院で事件が起こる。 娘を救い、一連の事件の謎を解くため雪平の戦いがはじまる。 黒幕の存在を知る彼女のまわりにいる誰もが怪しい。 まさに信頼できるのは己のみという状況下に陥っていく。
 一人の刑事として、そして母親として雪平は事件に挑んでいく。 母親としての娘への愛や、自らの大切な存在(娘)をも危険に巻き込んでしまったことへの責任がのしかかってくるなど雪平の人間的な面があらわになる。
 以前の仲間の裏切りから仲間さえも疑わしい、さらに身勝手な警察の重役たち。 雪平は孤高な戦いを強いられる。 常に頭にあるのは黒幕の存在、状況はいつどこでどう転ぶかもわからない。 予測のつかない展開がおもしろい。 この物語はまさに“アンフェア”の上に成り立ち、また,「世の中にフェアなことなんて何もない」という言葉は現実におきかえてもとてもリアリティのある言葉であり事実だと思う。
[PR]

by jd69sparrow | 2007-04-29 20:04 | 映画タイトル あ行