カテゴリ:映画タイトル あ行( 101 )

青の炎

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 主人公は高校生の少年。 そしてこの物語の中で映し出されるものは現実なものである。 人はどんな思いで人の命を奪ってしまうのか。 主人公・秀一は心で葛藤し戦ってきた。 家族の平和と幸せを願いながら。 これは悲しき殺人者の物語。
 秀一は母親と妹の遥香と三人で暮らし、ロードレーサーにまたがり海の見える道を駆け抜け学校へ通っていた。 しかし平穏なはずな毎日が突然の義理の父親の出現で一変した。 その義理の父親・曽根は秀一とその家族から別れたはずだった。 酒びたりな曽根、そんな曽根に迷惑を感じているはずなのに何も言うこともできずに言いなりになるしかない母親。 大事な妹に曽根がいつ手をあげるかもわからに状況にあった。 秀一は大事な家族が曽根を恐れ,窮屈な生活を強いられるのに耐えることにも限界に近かった。 「二人の家族を救えるのは自分しかない」、そして彼はある計画を実行にうつした…。
 頼れるのは自分しかいない、友達にすら相談することのできない孤独の中でその解決策を必死で考える主人公。 実際、このような状況下にあったときどうしたらよいのか。 自分でなんとかしなくてはならないという強い責任感が押し寄せてくる。 温かい二人の家族がいながらも孤独に苛まれる秀一の心理描写が細々と描かれている。 どうして母親は曽根をすぐに追い払おうとしないのか、どうすれば幸せを家族にもたらすことができるだろうか、そういった気持ちや考えばかりが秀一の頭の中にあった。 そして曽根に中々面と向かって立ち向かうことのできない自分の無力感を強く感じていたのだろう。 どんなにもがいても中々その先にあるはずの求めていた世界が見えてこない(一人で戦い続ける秀一、彼がそんな中から抜け出すことのできる唯一の場所が同級生の紀子だったかもしれない)。
 そして秀一は何かを決意したかのように風を抜ける。
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by jd69sparrow | 2007-04-05 16:36 | 映画タイトル あ行

ヴァン・ヘルシング

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 ブラム・ストーカーによって描かれた吸血鬼ドラキュラとヴァン・ヘルシングの因縁の対決は幾度となく変化し,また進化し続けてきた。 彼らの戦いは長きにわたり続いたもののようだ。 いずれもヴァン・ヘルシングはドラキュラという悪魔の化身に対抗する正義であるけれど控えめな役どころにあったのは事実であろう。 そしてついにそのヴァン・ヘルシングの物語に光がそそがれる。 今までとつながるところの一つはヘルシングの過去や彼にまつわることは謎につつまれているということだ。 強靭な体を持つクールなモンスターハンターは神のもとに従う彼は聖者なのか、それとも冷徹な人の命を奪いし者なのか。 しかし悪に仕えしものではないということは言える。 
 ヴァンパイア、人狼、フランケンシュタインなどモンスターたちが登場する。 ヴァンパイアは野性味のあるものとして描かれ二つの姿を持つ。 人と変わらぬ姿とモンスターそのものといった姿がある。 人狼はヴァンパイアを守るものであり表情豊かな部分も垣間見られる。 そしてフランシュタインはただ「生きたい」という人々の誰もが望む希望だけを求めている。 その姿は人に等しいといえるだろう。 そんな三大モンスターたちが揃うこの物語はジェット・コースターに乗っているかのような瞬く,スリル満点の展開が繰り広げられる。
 19世紀末、トランシルバニア。 吸血鬼ドラキュラは密かにある実験を試み、野望を実現させようとしていた。 その実現の先には世にも恐ろしいものが待ち受けていることは明らかであった。 そして人々は彼らによって制圧され、人間たちの危機が一気に広がること目に見えている。 そして暗黒の色に染まり,その支配からは逃れられないといった危険はすぐそこまで迫りつつある。 一方、ローマではモンスターハントの任を命じられ、日々モンスターたちに戦いを挑むことが常な男がいた。 彼の名はヴァン・ヘルシング、彼は過去における己の罪のために神につかえる影の組織に命をあずけているも同然。 そこからの任務が送られてくる。 人々も自分さえもヘルシングの何者であるかを知る者は多くはないだろう。 その彼が今度は強敵ドラキュラ伯爵を倒すためにドラキュラのトランシルヴァニアへお供をつれて旅立つ。 ヘルシングに戦闘手段を提供し、彼の支えと言えるであろうヘルシングに武器を提供する修道僧であり科学者とも言える友を連れていくのだ。 ドラキュラを倒し,その存在に恐れをなす人々を救い,守るために。
 ホラーであり、アクションであり、冒険活劇であるエキサイティングな映画である。 ヴァン・ヘルシングと共に戦うのはドラキュラを倒す宿命を背負った一族の最後の生き残りであるアナ王女である。 何もできずに見ているだけの大人しい人柄ではなく人々をまとめる頼れるリーダーであり戦士でもある強い人である。 王女の器を持っているけれどヴァン・ヘルシングの戦いにおいての強力な味方であり(戦いの)パートナーといえるだろう。
 次々に事が置き話が展開し、常に何かが待ち受けているのではないかと話が進むにつれて期待がふくらむストーリーだ。 平凡な瞬間などありえない。 そうしてほとんど間を置かずしてアクションが起こっていくからこそ飽きることなく楽しめるのだと思う。
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by jd69sparrow | 2007-03-21 02:38 | 映画タイトル あ行

ウルトラヴァイオレット

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 「理解を超えた世界」、それがこの話の舞台だ。 近未来を描いている。 その世界というのは非現実世界のことをそのまま指すようにも思えるけれど100%そうであるとはいえない。 なぜならば未来というのは誰にも想像できないからだ。 ある程度の未来の“予測”はついてもその先にあるもの,また起こることが完全に見えているというわけではないだろうし、予測に反することは常につきものである。 だから近未来・遠い未来などいろいろと映画では描かれているがそれが現実にこれから起こらないとは言い切れないのである。 今,信じがたいことが未来となるのだから。 100年や200年,そのまた昔に生きた人々は箱型の機会から映像を見ることなど想像し得なかったに違いないのである。 「理解を越えた世界」と書いて「未来」を読むと言ってもよいだろう。 多方面で技術がどんどん発達し,進化し続けている。 この映画で表されてるように21世紀が終わる頃には何から何までもとは言えずとしても,もしかしたら映画で“予言”された未来は現実になるかもしれないのだ。
 21世紀末、アメリカで開発されたウィルスは予期せぬ方向へと走り出した。 ウィルスは“ファージ”という強力なパワーを持った人間を作り出された。 ウィルスに感染された人間は重いリスクを負うがその力を得て超人間になるのである。 しかし、そんなとてつもない力を持っていたはずのファージは人間の力により絶滅の危機にさらされつつあった。 生き残ったファージたちは人間からの扱いの酷さに憎しみを抱き戦いを挑む。 ヴァイオレットもその一人である。 銃と剣を持ち彼女は目の前に立ちふさがる者たちに立ち向かう。 ファージは人間が持つ,彼らの身を滅ぼしかねない“兵器”を求め、人間たちとその兵器を巡り争う。 その兵器を奪い,同胞たちのもとへ持ち帰ることがヴァイオレットの任務だった、しかその兵器の兵器の正体とは思わぬものだった。 兵器の正体を知ってしまった、彼女はそれを命に代えても守ることを心のどこかで誓った。 ヴァイオレットの中に,封印したはずの(彼女の)感情そのものが甦る。
 第一印象として思い浮かべたのは少し前に公開された「イーオンフラックス」である。 近未来で,抜群の運動神経を持ったヒロインが一人敵地に踏み込み,そして戦う。 最初その世界観が重なって見えたけれど二つ(「ウルトラヴァイオレット」と「イーオンフラックス」)には大きな違いがある。 それは主人公の戦士としてのタイプだ。 「イーオン~」の場合は柔軟性の高い武術家、そして「ヴァイオレット」の場合はサイバー戦士というふうである。
 映画の拝見がパソコン上で描かれたイラストという感じで、ぼやっとしたようなあるいはスプレー状のもので色づけられたようにも見える。 CGとイラストとの世界との見事な融合だ。 また、人とその背景との調和も進歩してきているのだなとつくづく思う。 人工的に作り出された背景と(CGなどの技術なしの)リアルの人との間では人が色濃くて背景が薄く,人が浮いているように見えることもあった。しかし近年では「スター・ウォーズ」や「マトリックス」を始めとする
CGの世界に人が見事に溶け込んでいるものがどんどん作られている。 この「ウルトラヴァイオレット」もまた然り。 人も含めて自然なアートそのものと言ってもよいのではないだろうか。
 印象に残ったのはアクションはもちろんであるが、ヴァイオレットの人間らしい部分の描写である。 そこには憎しみの感情でただひたすら戦うために生きるといった感じの側面とは打って変わって,彼女の母親的な姿がうかがえて、そんなところに作品としての魅力を感じたのだ。
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by jd69sparrow | 2007-03-10 01:51 | 映画タイトル あ行

オールド・ルーキー

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 夢を持つことの大切さを教えた主人公、その人自身がそれが一番必要であったことに気づかせられる。 夢は一度挫折しようともあきらめさえしなければ必ずチャンスは再び訪れるのだ。 あきらめてもならないし、投げ出したり逃げ出したりもしてもいけない。 後悔とその苦い思いだけが永遠心の中に残るのだから。 未練さを残すくらいなら自分を信じ歩み始めることが一番である。 まさに夢の実現までの実話から生まれたヒューマンドラマなのだ。 
 大好きな野球に専念することができずに育った少年時代、それでもジム・モリスは一度はプロとしてマウンドが肩の故障のため挫折する。 プロから離れ、何年もたった現在は高校の教師でそこの野球クラブのコーチを務めていた。 ジムには野球が好きでいつもコーチとして野球部員たちを指揮する父親の側にいる息子ハンターがいる,そして彼は三人の子供を持つ父親でもあった。 中々勝利をおさめることのできないジムがコーチをするアウルズに彼は“夢を持つこと、そこから逃げ出さないこと”を部員たちに熱く語る。 しかしジム自身こそがそうであることを知る。 ジムがピッチャーとしての腕がプロを引退した今も鈍っておらず,その才能が生きていることを知った部員たちは自分たちが地区優勝することを条件にジムにもう一度夢を実現させるために野球選手になることを薦め,約束をむすぶのだった。


続きは後ほど・・・
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by jd69sparrow | 2007-02-04 19:20 | 映画タイトル あ行

あの頃ペニー・レインと

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 ブレイク寸前のロックバンド、彼らの音楽を愛し,彼らの取材をする少年とそのロックバンドにただのファンや追っかけではなくバンドを支援する“バンドエイド”という少女との旅道中。 舞台は1970年代前半のアメリカである。 主人公のウィリアムはバンドマンたちと出会い,最初はジャーナリストとして,しだいに仲間のように打ち解けていく。 そして彼はバンドのツアーに同行する少女に惹かれるのである。 一際輝く彼女の名前は“ペニー・レイン”、謎な一面を持つ“バンドエイド”だ。 
 ウィリアムは母親と姉であるアニタと三人で暮らしていたが、アニタは母親の手厳しさゆえにウィリアムの幼い頃に独立して家を去る。 アニタの残していった一枚のレコードで幼きウィリアムは未来への切符を手にするのだ。 まともな人間に育て上げることに熱心な母親、ウィリアムはそんな母親の奨めではなく、ロックへと興味をいだく。 そしてそれはある“夢”と変わる。 15歳になったウィリアムはロックバンドの評論家への道を歩み始めることとなる。 彼は音楽雑誌の編集長でロックバンドの評論をするレスターの紹介で夢の一歩というべく早速ロックバンドへの取材の仕事をもらう。 取材先でウィリアムは彼の好きなバンド“スティル・ウォーター”に出会う。 そこでリーダー格のラッセル、そしてペニー・レインと出会い、取材もかねてバンドのツアーに同行することに。
 ウィリアムはラッセルというギタリストと友情に近い何かを結び、いつも側にいるペニーに惹かれていく。 けれどウィリアムは自分の自立とも言うべく仕事を進めようと試みるが仲間たちと一緒にいることに楽しさを覚え,さらには母親からこれでもかといわんばかりの心配の電話がかかってきたりとその場その場を生きていくということで手一杯。 ウィリアムは優しさを持つ綺麗な心の持ち主と言えよう。 仕事と恋とがウィリアムの中にあってまだ子どもでありながらも一生懸命になる。 彼自身の成長もあるけれど、そんな彼の取材を受けるラッセルの中でも何かが変化していったようにも思える。 ウィリアムはバンドの面々から見たら“天敵”と呼ばれる、それは彼がロックバンドの雑誌に精通することになるジャーナリストだからである。 それでも当たり前にウィリアムは100%といえるかはさておき,バンドの仲間として受け入れられているという感じ。 
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by jd69sparrow | 2007-01-28 03:20 | 映画タイトル あ行

アメリ

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 フランスの町並み映し出される映画。「アメリ」。 ちょっと変わった物語である。 不思議で素敵な雰囲気を醸し出すラブ・ストーリーなのだ。 人生生きてきた中でほとんど人と関わることのなかった女性が自分の世界から外の世界へと旅立つまでのお話。 変わったことに興味を持ち,それを好きになり日課となる。 主人公はアメリ・プーラン、彼女のまわりに出てくる人たちも細々と説明される。 人物紹介といえどシンプルに好き嫌いの二つであって他の長い説明は抜きである、それについては物語が進めば見えてくるのだから。 
 アメリはプーラン夫妻のもと生をうけた。 父親は元軍医で母親は元教師、父親は少し冷ややかだし母親は神経質。 そんな環境下で生まれ,育てられたアメリは同じ年頃の子どもたちと外で元気に遊ぶこともなく,机を並べて学ぶこともなく非常に限られた人たちの和の中でもって生きてきた、そのため大人になっても彼女は人とのつながりが中々とれないことに悩まされることになる。 そして幻想すら見えてくる。 彼女の心の中は次々と起こる不思議な出来事でうめつくされいつしかそうなっていく。アメリはカフェで働く毎日で人とつながりを持つことは少なく自分の世界の中にひたっている。 人と付き合うことが苦手なアメリが自分の力で自らの人生を切り開いていく様子を描いている。 
 ある一つの発見で自分の人生を変えるの可能性をえたアメリは少しずつ確実に明るいものへと変化をしていった。 彼女は誰かの力になろうと考え始める。 人々へそっと光をあたえるのだ。 悩みをかかえた人たちにそうして助けていくことで自分も何かつかめるだろうというふうな希望と期待とがあったのだろう。 ちょっと不思議な世界にいるかのような感覚で楽しめることができる。 主人公の独創的なアイディアが人々の力となっていく。 しかし彼女は自分のことに対してはとても不器用。 彼女はやがてニックというこれまたちょっと変わった趣味を持つ青年と出会う。 ニックに想いをいだきはじめる、近くにいるけれど今まで人とつながりを持つ経験に乏しいアメリは不器用さゆえに一歩を踏み出すことができない。 その一歩を踏み出すのまわり道をするけれど、まるでゲームを楽しむかのように様々なわくわくさせるような方法でニックとやりとりをしていくのがとてもおもしろい。 ニックに次々と謎を解くヒントをあたえていき,その行き着く先にアメリがいる。 そういう発想はとても素敵なものである。 結果、アメリのそういった謎をふくませた行動が相手を惹きつけていくのだと思う。 
 
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by jd69sparrow | 2007-01-27 18:49 | 映画タイトル あ行

大奥

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 日本の時代に徳川の世が訪れたとき、“大奥”は作られた。 それは徳川の血が絶えることのないように設けられた女ばかりの場所、そこに入った女たちは決して自由に外へ出ることは許されない。
 三年にわたりドラマ・シリーズが続いた「大奥」は“大奥”、“大奥 第一章”、“大奥 花の乱”とシリーズがつながっている。大奥の最期、はじまり、最も華やか時代とシリーズはそれぞれ分かれている。 そして映画化。
 「大奥」と言えば、大奥で暮らし,将軍のために日々尽くす女たちの戦いや争いを描いた物語だと連想していた。しかし、そこには人間ドラマもが描かれているのだ。 将軍には正室(身分の高い正妻)がいて、さらに側室(将軍のめかけ)がいる。将軍の子どもをもうけることできた者こそが正室となり,大奥の中で特別に高い位を得ることができる、その影ではそれをよく思わない女たちがいて、争いが起こる。 大奥の女たちの間には様々なカタチで争いが具現化され、それは相手をおびやかすようなものもある。 大奥の女たちそれは度の強すぎることと思われることも珍しくはなかっただろう。 大奥の世界で生きる者たちには精神力が何よりも支えとなる。
 「大奥」では女たちの本音が多く語られ、恐ろしさをも見受けられる。しかし、「大奥」に登場する女たちの人間像は現代に生きる人々の基盤となる部分も多いと思う。
 第七代将軍・家継の時代、大奥をまとめるは若くして大奥取締役となった絵島であった。1712年、徳川の将軍はわずか五歳の幼君で、この幼き将軍には政をする力はなく、間部詮房(まなべあきふさ)という将軍の補佐役とも言うべき側用人が事実上,政を握っていたのだ。 家継の母親である月光院は将軍の生母となるが大奥での月光院の力はなく,それを支えていたのが絵島と間部である。月光院へ反感を持つ者は少なくなかった。 先代の家宜の正室だった天英院をはじめとする女たちである。 大奥で暮らし、恋を知らずに生きてきた絵島は外へ出ることのできる数少ない,ある日 歌舞伎役者の生島新五郎という男に出会う。二人はそれぞれお互いに一線おいていたが天英院の策略が影を落とすその状況下で次第に恋に落ちていく。 さらに城の中で月光院の恋があり、二つの恋の物語がここにある。
 大奥の中での物語だけでなく、大奥の外にある世界の両方が登場し、絵島と生島の身分違いの恋がある。 鎖にしばられることなく生きている生島、大奥という自分のいる場所から心を動かすことをせず,月光院への忠誠心を何よりも 自分よりも第一に考え,仕えることや仕事からの責任を果たすことだけを思い生きている絵島、生きる世界が違い 生きる目的もまた違う。けれどどんなにかけ離れていようとも隔たりは隔たりではなくなる。
 絵島には欲というものより忠誠を誓う心意気を持つ人物。そして潔くもあり,一時の夢であろうともそれを知ることができたこと、できることが彼女の幸せであるようだ。 クライマックスでの絵島の姿は清くとても心の美しさを感じさせる。希望が目の前で消えようとも欲にすがることなく、自分の進むべき道を自らわきまえている。 ほんの少しの希望と夢が絵島にとっては“幸せ”であるようだ。
 憎しみを持つ女たち,天英院と天英院派の大奥の女たちには恐ろしさがある。 けれどそれは“大奥”という環境が彼女たちそのように生きさせているという。確かに冷酷さが多く見られるけれど、悪役としては映らない。 主人公・絵島たちと天英院側の人々はあくまで敵対関係におかれているのだ。 大奥の女たちの生き様は様々であるが、共感できるもの,納得のいくことは多く含まれていて、(大奥の)誰に対しても否の言葉を浴びせることはできない。大奥の中ではそこに住む女たちの気持ちや感情の交差するところ。
 それぞれ一人一人が持つ感情が個々のものとして見ることができ、その本音であったり,心が動く描写を見るのはとてもおもしろい。 将軍の率いる社会、女たちの力によりその活躍があったというような話がある。実際、大奥の女たちの力は恐ろしくさえもある。 彼女たちの力で世を左右させ動かす,この将軍家,あるいは日本の社会がこの時動いていたのではないだろうか。
 物語のおもしろさも魅力であるが、映像の美しさも魅力といえることだろう。大奥の背景と世界は色鮮やかに彩られていて、身分に応じて異なる衣装,文化も綺麗である。 そして、絵島と生島の恋の後ろに広がる世界もまた美しい物語としても美しい。
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by jd69sparrow | 2007-01-02 13:57 | 映画タイトル あ行

犬神家の一族(2006)

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 1976年、ちょうど三十年前,金田一耕助シリーズ「犬神家の一族」が公開された。 横溝正史原作の推理小説の名作である。 主人公の金田一耕助、金田一耕助シリーズの原作者・横溝正史、この名前を聞くと思い出すのが「金田一少年の事件簿」と「名探偵コナン」である。 横溝作品がこういった推理小説に影響をあたえている。 金田一耕助シリーズも今まで数多く映画化され、さらに映像化されてきた。 映画だけでなくテレビドラマでも何度も映像化が実現されている。 「犬神家の一族」だけで元祖・金田一耕助,石坂浩二(その前に演じた役者がいるとのことだが)から稲垣吾郎までたくさんの役者たちにより演じられている。 その顔ぶれはそうそうたるものであり、また主として登場する佐清や珠世をはじめとする登場人物たちも大勢の人により演じられている。 多くの役者により演じられてきただけに毎回金田一耕助の人物像も変わってくる。 それぞれの個性がでて,それぞれの役者の持つ個性によって作られていると思う。 今回は初期にもどり石坂浩二による金田一耕助である。 ジャンルはミステリーであるけれども実際は人間同士の思うところを描いたもの。 犬神家の一族の中で繰り広げられる悲しい愛憎劇なのである。
 昭和二十二年、終戦まもなくの那須にふらりふらりと現れた名探偵,金田一耕助。 年齢不詳でボサボサあたまで頭をかけば粉雪のごとくふけが落ちる、けれど彼の推理力は抜群。 彼はふっと現れ、名推理で事件を解決させるとふっと消える。 そんな縛られることもなく自由な人生を歩み続けてきたのだろうというふう。 金田一は今日もまた事件の依頼をうけて依頼人のもとへとやってくる。 彼は那須という場所にやってくるが、彼がやってきてまもなく依頼人が何物かにより命を奪われたことにより惨劇の波が押し寄せる前のとどろきが彼の背後で鳴り響いていたかもしれない。 彼はまもなく犬神家へやってくる。 そこは暗雲がただようところであった。一つは犬神家の当主の遺産相続による争い。 その権利は犬神家以外の人間の手に渡る運びであることが告げられてた。 当主・佐兵衛の娘,それぞれが異母である三姉妹の思惑が走る。全ては遺産の権利を持つ珠世に託された。 一族が本家に揃ったとき、呪いにみちた惨劇が始まる。
 次々と事件は起こり、誰もが疑われた。事件の謎は解けかけるかと思うとあっけなく崩れ,振り出しにもどる。 謎もまた次々と浮上する。 金田一は物をまっすぐとらえ推理を発展させていく。 彼は自然に真実を追い求めることの中に入り、じっくりと人を見て推理力を働かせていく。行動派な部分よりも熟慮派の探偵、だがその捜査は自らの足で地道に情報を集め,推理を重ねていくというタイプとうかがえる。金田一の姿勢はいつお穏やかで落ち着いていて、そして金田一耕助という推理するときは真剣そのもので思慮深い、だけど人間としては幅広い知識や推理力を持つというばかりの人間ではなく,茶目っ気たっぷりな人間なのだ。
 このシリーズにはみな金田一耕助が登場し,事件を毎回解いていく、メインパーソナリティーは金田一耕助であるが 「犬神家の一族」では佐清と珠世が主人公といっても過言ではないだろう。 事件,話一つ一つで主人公は変わってくるのではないかと思う。 金田一は一言で言えば傍観者であって、物語を進行を担う役割を持っていると思う。 推理をし、事件を解決させ、コマを進めるといった具合に。 今回の話は決して愛し合ってはいない、犬神家の中に本当の意味での愛といった感情が見られない佐兵衛の三人の娘たちとその家族の人間模様を描いている。
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by jd69sparrow | 2006-12-28 02:08 | 映画タイトル あ行

イントゥー・ザ・ブルー

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 昔、タイタニック号が海に沈んだように数多くの船が冷たい海へと沈んでいったことだろう。 海にはまだ人目につくことなく眠っている歴史を語る何かがあるのかもしれない。 青い空,青く透き通った海、バカンスを楽しむのにはうってつけのロケーションである。 海の奥深くに沈む何かをもとめ、海へもぐる者がいる。 これはトレジャー・ハンティング・アクションなのだ。 海には宝が沈んでいることもあるが関わりをもってはならないものもある。 それは起こりうることのように思える。 海で見つかるものは良いものばかりではない。
 ジャレットはカリブ海に浮かぶ島でダイバーをし、彼は心のうちで“何か”を見つけることを願っていた。 島へ彼の友人で弁護士でもあるブライスとその恋人アマンダがやってきた。 そしてジャレットの恋人サムも加わる。 4人の男女の物語が展開される。 彼らがダイビングをしていると貴重な何かを見つける。 昔、沈没した船の手がかりであることをつかむ。 そして関わるには危険なものまでを発見してしまう。 海に眠る品々をめぐる海での物語。
 とてもリアルな話。 かと言ってなかなかある機会ではないかもしれないが、大きなチャンスや可能性、あるいは宝となるものを目の前にしたとき人はどうするかということなどといった人間の心理も描かれているという。 海の宝は抜きにしてもそういった状況に陥ったときどうするかということはきっと人生一度は訪れ,迫られることと思えるし、考えさせられる。 目がくらんでしまうかもしれないし、そっぽを向けるかもしれない。 実際その場にたってしまわなければわからない。
 舞台が海であるだけに映画にはたくさんの海の生き物たちが登場する。 その中でも一際目をひくのがサメである。 合成なしの実写,つまり出てくるサメは本物だということには驚きをかくせない。 数十匹のサメが泳ぐ海の中でカメラを入れて映画が作られるだなんて命がけと言っても過言ではないだろう。 そこが映画人のこだわりなのだろうか。 しかし、そういう恐ろしさを抜きにして考えるならば純粋に海の青を楽しむことのできるのどかなものであると思う。。
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by jd69sparrow | 2006-12-21 23:42 | 映画タイトル あ行

アマデウス

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 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは神童と呼ばれた音楽の天才である。 父親レオポルドに彼は厳しく音楽の教育を受け育った、才能にあふれた彼であったがその命ははかなくして短かいものである。 彼の性格や習慣とは裏腹に彼の音楽は上品で、その時代では他にない新しい音楽だったようだった。 モーツァルトの活躍の場を広げていく,時を同じして宮廷作曲家として名を広めていた人物がいた。 彼の名はアントニオ・サリエリ。これはサリエリによる語られるモーツァルトの人生の物語、しかしこれはもう一つのとらえ方としてサリエリの物語と言えることだろう。 神からの恵みが自らには授けられることがないと思い続けていたサリエリは突如自分の目の前に現れた下品な男に神から授かったかのような才能がモーツァルトにあるということを認めざるをえなかったが、モーツァルトへの嫉妬、妬みでサリエリは心を支配され、その様子を描いているからである。 物語を一言で言うとしたらそういったサリエリの気持ちや思惑の中で生きるモーツァルトといったところだろうか。
 サリエリは音楽家として宮廷作曲家という高い地位につき、申し分ない日々を過ごしていた。彼はモーツァルトという自分より若い作曲家の名前を知っていた。 サリエリはある日そのモーツァルトという音楽家にお目にかかれる機会をえた、サリエリはモーツァルトをその優れた才能を持つ実績に比例した人物を想像をふくらまし期待していたにちがいない。 しかしそんな彼の目の前に現れたその人を見て彼は言葉を失い,そして幻滅してしまう。 “あまりにも下品、なぜ神は自分ではなくこの男を愛し、才能をあたえたのか?” 終いには神に祈り続け,努力をし名声を手にしてきた自分を見下すかのようにふるまうモーツァルトに彼は激しい憤りという怒りを覚えた。 サリエリはモーツァルトの才能の高さを痛感しながらもどうしても許すことはできない、なんとしてでもモーツァルトを陥れようと固く心に誓うのである。
 サリエリを主点におき、彼の視点から描かれるモーツァルトの物語。 サリエリは自分がしたことに後悔の念を隠しきれず、それを背負いモーツァルトの死後人生を送る。 彼は苦しめられ続ける、それは自分を守るためにモーツァルトを追い詰めることをし続け、しかしその心のどこかではモーツァルトの曲を愛していたからであろう。 いつの時代も人は保守的なり、自分を守ることで必死であると思う。 自己防衛は時として、それが強いあまり自分を苦しめる結果を導いてしまう。 自分がしてしまった過ちはいくら手を洗い流し清めようと消えることはないのだ。 そしてサリエリはますます力をのばし、才能を開花させていくモーツァルトを見、精神を狂気でみたしていく。
 モーツァルトはサリエリの思惑を知ってか知らずか音楽家として派手な生活を営んできた全盛期が過ぎると次第に彼の何かが崩れ、衰えていくようであり 生活と自分に苦を感じ始めていくというふうに変わっていく。 その背景には父親の影が(父親の死後も)ずっとモーツァルト自身の中にとどまり続けていたということもあるだろう。 モーツァルト社交界を知らなかったのかもしれない。 彼は才能には恵まれていたが、人脈には恵まれなかったのではないだろうか。サリエリの思惑により悲惨な人生を送っていた部分も少なからずあっただろうし、モーツァルト自身の人間性がそれを自らに招きいれていたと考えられる。 そんな厳しい状況下で生きながらも才能は衰えることはなく、名作を生み続けるという素晴らしさに感嘆の声がなりやむことはないということが彼が成し遂げた音楽家としての偉業を決定づけられていると思う。
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by jd69sparrow | 2006-12-15 18:29 | 映画タイトル あ行