シュレック3

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 シュレックは心優しき怪物。 シリーズ三作目となる今回の話は「遠い遠い国」の世継ぎをめぐる騒動とシュレックが父親になることの責任と向き合うのだ。 フィオナ姫と出会い恋に落ち,さらにフィオナ姫の家族と会い,家族を知る、そして国王と父親になることを目の前にする。 自分が人から恐れられる存在であり怪物であることにコンプレックスを感じ,人との関係を絶ち,自ら殻にこもった生活を送っていたシュレックは愛する者やその家族、そして国と自分の家族によって着実にシリーズを追うごとにステップアップしている。 シュレックの成長を描くドラマ的な要素とユーモア満載のコメディとがあわさっており最高なエンタテインメントである。
 フィオナ姫と結ばれ、ドンキーや長靴をはいた猫という仲間もできた。 かつては結婚を強く反対し敵対視していたハロルド国王もシュレックを認めてくれた。 しかし シュレックと国王との仲が深まってきた矢先、ハロルド国王は病に倒れてしまい,国王の座も後継ぎに残し,任さなければならなくなった。 その後継ぎにシュレックが任命されるが,当のシュレックは自分のような怪物が王になるのはよくないとし、王に即位することを拒絶した。それに王という責務はシュレックには窮屈だったのだ。 唯一の正統な後継ぎを王から聞き出したシュレックは相棒のドンキーと長靴をはいた猫をお供に後継ぎとなるアーサーのいる魔法学校へと旅立つことに。 シュレックに課せられたことは一つではなかった。 それは旅立ちの時、フィオナから告げられた一言にある。 それはシュレックとフィオナとの間の子供ができたこと。 旅に出かけると同時に二つの責任を知ったシュレック。 一方、すっかり落ちぶれたチャーミング王子はまだ王位に就くことをあきらめられずにいた。そこでおとぎ話の悪役たちを仲間にし,ハッピーエンドを手にするべく,遠い遠い国の王座を狙う。
 季節でいうと“秋”とのこと。 シュレックたちは遠い遠い国を飛び出し,海を渡る。 遠い遠い国の中で繰り広げられた物語は一気に世界が広がる。 遠い遠い国は前回に引き続き登場するわけであるが作り手の声にもあるように、同じ場所であっても見せ方が違うと違った印象を受ける。 立体感が城を中心に今までより確実にスケールアップしている。
 おとぎの国の住人たちが集う場所,遠い遠い国。 おとぎの国の主人公たちが増えれば悪役たちも増える。 もちろん,シリーズにはおとぎ話の名作から数々のキャラクターたちが出ているのだが、「白雪姫」の鏡の魔女(かな?)や「ピノキオ」に登場したピノキオを商売道具にした大男などディズニー作品でも色濃い悪役たちも印象に強く残った。 さらに、シュレックたち,おとぎ話の主人公たち側にもご注目。 少年アーサーが王になると聞き,“アーサー王と円卓の騎士”を想像する。 記憶に正しければアーサー王の右腕的存在であり友情で結ばれた関係にもあったランスロットが短時間ではあるが登場している。
 シュレックの世界ではおとぎ話の登場人物たちはそれぞれの物語でのキャラクターの型にははまらず,シュレックの世界におけるオリジナリティを持っている。 だからおしとやかな人物がこの世界の色に染まるとパワフルなキャラクターになっていたり、本来悪役なはずのキャラクターが思いっきりお茶目な性格に変わっていたりというのもある。 アーサー王とランスロットの関係も“キング・アーサー”の物語と比較してみるとだいぶ違う。 こうして見てみるとおとぎ話の主人公や悪役たちがそのままの性格で来るのではおもしろくない、それぞれに生まれ変わらせ,オリジナリティを持たせるというのがいかにおもしろく,それぞれのキャラクターたちに新たな魅力が生まれるのがよくわかる。
 作り手たちのユーモアが多く含まれる「シュレック」。 シュレックやドンキー、長靴をはいた猫、フィオナ姫というおなじみのキャラクーたちの魅力も今回増している。 シュレックは優しさが増し,王になることを拒んでいるけれど実際は王に等しい器をかねそなえていて、ドンキーはドラゴンと間に子供,ドロンキーたちが生まれたことでさらにテンションがあがる。 長靴をはいた猫、名前が出てこない(あるいはない)のが気になる。 プレイボーイでクールな感じだけれど実はおもしろい一面も持っている。 怪傑ゾロ風味であり、ところどころで口にする“セニョール”言葉は吹替えをするアントニオ・バンデ5、要ちラスを意識してかしてないか,ラテンの国の紳士という情熱さをほんのり感じる。 フィオナ姫はパワフルな戦いぶりを披露している。 プリンセス
 時代は中世。 綺麗な建物やキャラクター達が着る衣装にはもちろんであるが時代を表すものでさりげなく取り上げられていたアーサーとランスロットの一場面。 「ロック・ユー」でも登場したジュースティング(馬上槍試合)にもうかがえる。 時代を忠実に再現・表現する一方で現代的なものを中世の時代のものにアレンジしたものの登場、字幕を見ても現代風なセリフに訳された翻訳もおもしろいところである。
 この今回の物語の見所はシュレックが自らに課せられた二つの責任に向き合うドラマ、オリジナリティーあふれるおとぎ話のキャラクターたち、おとぎ話の主人公たちと悪役たちのコメディに満ちた全面戦争,バトルロワイヤルであろう。

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by jd69sparrow | 2007-06-30 21:05 | 映画タイトル さ行

映画ブログ第2号開設!!

この度は現在更新中の当ブログの分身を開設することになりました。

とは言っても内容はほぼ同じものにする予定です(※できれば内容にプラスアルファできたらなぁと)。

というのもアフィリエイトの機能の関係上でもう一つブログを増やそうと思ったからです。

尚、タイトルはまだ正式には決定していないので仮題ですが映画ブログ2号です↓↓

Cinema de brunch(仮)
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by jd69sparrow | 2007-06-29 23:08 | インフォメーション

300

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 歴史をテーマにした物語は中心となる人物がいて主としてその人物の生き様や生涯を描く。 だからその人物が輝いてたその時からその生涯を閉じるものまでを見ることになる。 そこでは主役となる人物がどう生きたかというのかが問題であって最後生きるか死ぬかではない。 その歴史上のできごとを事前に知っているかどうかできっと見方は変わってくるかもしれないが、この映画はビジュアル面だけではない,戦士たちの生き様は誇り高く勇敢そのもの。 勝利のおさめ方というのは一つじゃない。 つまり目で見えるものが全てなのではないのだ。 こうして後世にまで語り継がれ,文学や映画化となって伝えられたりと歴史に刻まれるのには意味がある。 偉大な何かを成し遂げたからこそ彼らの名は残り,こうして様々な国々の人々の目に触れ,私たちはそこで知ることができるのだ。 その時代に受け入れられなかったとしても後にいつか必ず理解する人たちが現れ,受け入れられる時代がやってくる。 当時生きる人々に非難されたとしてもそれが全てだと言う訳ではないし、それを偉大と思う人々がいる,あるいは偉大であるからこそ歴史に刻まれるのだ。 そしてそれらは決して歴史の中にのみこめられることはあってはならないと思う。 なぜならそこから学べることや今につながることを見出せるからだ。
 自らの命の犠牲もいとわない男たちは危機を目の前にしても笑みをこぼす。 圧倒的に多い敵の軍勢に立ち向かい,大勢の敵を震え上がらせ,またひるませた。 まさに無敵な戦士と言えるくらいの戦力を持つ。 レオニダス王の率いるスパルタ軍とクセルクサスが率いるペルシア軍、相反したライバルどうし。 遥かに多い軍勢にたった300人で戦いを挑んだ勇猛なる戦士たちの自由と名誉、誇りをかけた戦いの物語である。
 時は紀元前480年、舞台はギリシアに始まる。 スパルタに生まれた子供は強いものだけが生かされる。 幼い頃から戦いの,戦士の心得を教え込まれ,スパルタの戦士として鍛えられ,成人となるときには命がけの儀式を受け,そこから生還したものこそ誠のスパルタの戦士となれるのだ。 スパルタの王レオニダスもそんな厳しい鍛錬を生き抜いた者の一人である。 スパルタの民は男女の間に境はない。 誰もが皆,強い闘志を持っている。 スパルタの戦士の強さは厳しい鍛錬と身を案じ,見守る者たちの力あってのもの。 そして死を恐れず,“戦いで死をとげることは名誉なこと”と心に叩き込まれ,決して敵に背を向けることはない。 背を向け,逃げるくらいなら死を選ぶ,それがまさに彼ら,スパルタ軍なのだ。 敵はペルシア軍。 ペルシア軍には到底及ばない戦士の数であった。 戦に有利なのは軍勢、数が多ければ多いほど戦力は高まるのだ。 スパルタ軍、自らの国の自由を守るために国に命をささげる。 強くあるには敵に情けはかけず決して退くことも服従することもしない。 戦士一人一人の胸にその心得がある。だからこ戦士たちは強く,仲間意識も強い。 この映画の見所はどう戦士たちが名誉を手にするかだ。 名誉、つまり死だ。
 圧倒的な数の兵を持ち,自らを神とし強気で攻めてくる王の名はクセルクセス。 彼は自らが持つ権力とその力でスパルタをなんとしてでも侵略しようと何度もアプローチをかけ戦いへと発展していく。 戦いにおいて軍の数は勝負に大きく響き,力といってもいいだろう。 幾千,幾万敵の数に対して数百人に,味方が加わってもかなうはずもない敵の数。 ごく少数で戦い抜いた戦士たち、小規模の軍勢で無謀とも言える戦いに挑む。 それでも誰一人として逃げ出さない、自由のための戦いをのぞむ。 敵がどんな戦法で戦いを仕掛けてきても屈したりはしない。 そしてあきらめない。 数こそ少ないが一人一人の戦力で見ればあきらかにスパルタに勝る者はない、そう思えた。もしもペルシアとの立場が逆だとしたら文字通り無敵の軍団。 だからもし敵の軍勢にひけをとらぬ軍勢を持っていたらきっと早くのうちに強敵ペルシアを滅ぼしていたかもしれない。 そう考えるといかに敵が臆病か,また警戒が強すぎるかは明らかだ。  
 スパルタの戦士の出で立ち。 それ自体が鎧であるような強靭な肉体(※パンフ参照)、情熱の赤に彩られたケープは彼らの持つ力を強調しているかのようである。 槍を,剣を,また盾を自在に操り,肉体的なパワーで敵に立ち向かう。 その白熱で力強く戦うさまは痛快である。 盾を持ち,槍を敵に向け,戦闘の態勢を作るとき数以上パワーがそこにみなぎる。 戦士たちは槍を敵に向け,敵は次々と血しぶきをあげ倒れていく。 王の敵に向けた叫び,敵に力を示す戦士たちのおたけび、まさに彼らは獅子のごとく戦いを仕掛ける。 彼らに恐れるものはない、あるとすれば仲間,スパルタの民の自由が奪われることだろう。 欲らしき欲はない、彼らが望むのは(何度も言うようだが)“自由”なのだ。 そして戦い、生きた証が人々の記憶に刻まれること。
 確かに戦士の動きの見せ方、セピアを中心とした色使いなどビジュアルとして優れている。 現実から離れているようでリアルな戦士たちの闘志と誇り、世界観。 戦いで死を遂げることを名誉に思い,それを強く望んだ男たち,死を恐れず,戦いにおいて死を覚悟するからこそ彼らは強い、そんなスパルタの戦士たちの人物像は西洋の武士。 その生き様がなんとも勇ましい。彼らの行く末はやはり名誉そのもので彼らの戦いのしめくくり、そしてそれに続く新たな歴史のはじまりは個人的に言わせてもらえば納得のいく気持ちの良いものである。

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by jd69sparrow | 2007-06-25 03:37 | 映画タイトル さ行

GOAL!

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 幼い頃、少年たちが夢中になるもの,スポーツと言えばサッカーがその一つとしてあげられるだろう。 ただサッカーが好きでプレーをする子、プロサッカー選手になるという大きな夢をいだきボールを蹴る子などそれぞれがサッカーに,あるいは(他の)好きなことに夢中になることは違うだろう。 チームメイトたちと共に力を入れて勝利を手にすること、自分が蹴った、また,パスを出したボールがゴールに入る喜びというものはこの上なく誇りである,それは自分だけでなくチームにとっても同じ(サッカーの知識に乏しい私が言うのもなんかもしれないけれど)。 これはサッカーと限らず人の人生そのもの,仕事や学校など様々な場に置き換えられることだ。 当たり前なことかもしれないが、個人で力を伸ばしていくこともできるかもしれない、だけどそれは一人の力ではなく支えてくれる誰かの存在あってのこと。 人と協力し合い,チームとして築き上げていくことはなおさら己の力を伸ばす手段であろう。 主人公サンティもそんなサッカーに対する大きな夢を持つ少年の一人であった。
 サンティはサッカー少年だった、彼はメキシコに暮らし,後にアメリカへとやってくる。 大人になってもサッカーへの熱い思いは消えることなくプロのサッカー選手になることを夢見ていた。 しかし中々その夢をかなえるチャンスはやってこなかった。 そんなある日のこと。 かつて英国ニューカッスル・ユナイテッドでプレーをしていたグレンの目にサンティのプレーが目に留まる。グレンのスカウトでサンティは厳しい父親の反対を押し切り,英国へと向かい,ニューカッスルユナイテッドへ入団する。 プロとしてピッチにたつこともそう遠くないところまでやってきたサンティ、しかし自分のコンディションをチームに打ち明けられずいにいた。 はじめてプロの世界に飛び込み,そしてその世界を知ったサンティはそこの厳しい現実を知ることになる。 窮地に追い込まれるサンティだったが彼には家族、自分をスカウトしてくれたグレン、心強いチームメイト、そして恋人ロズがいた。サンティは夢への第一歩をふむ。
 アマチュアでいた頃とプロとは世界が違いに悩まされるサンティ。 そしてそこに自分の弱点も見つめなおすこととなり、成長を遂げていく。 この三部作のうちの第一章では主人公がサッカーの世界を知るというもの。 初めてプロとなることでプロとしてプレーする一方でのしかかってくる問題。 プロになることを反対した父親との関係。 サンティは父親とはあまりうまくいっていなかった。 サンティは夢に向かって走り続けることをあきらめなかった。 父親とは中々うまくいかない、それでも血のつながった親子。 息子は父親に認めてもらい,喜びを分かち合い共有しあいたいという思いがあり,父親は夢に向かって一生懸命な息子から目をそらすことない。 それぞれがお互いに対しの思いがある、そこがとても温かいと思った。 これはサッカーの物語であり、主人公が夢の実現を目指す物語であり、そして父親と息子の物語なのである。 

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by jd69sparrow | 2007-06-21 18:39 | 映画タイトル か行

ニューヨークの恋人(二回目)

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 運命の相手や自分が心から求めていた人は人が人生を歩む中で訪れるものなのだろうか。よく恋愛ドラマでそういった言葉は出てくるけれどそこで理想とされる運命の人との素敵な出会いというのはごくまれなことなのかもしれない。 だけど恋愛にしろ,友情にしろそれぞれの運命の糸がどこか交わるからこそ出会いがあるわけで人生を共に生きるのにも同じことが言えると思う。 運命の人、それはいつどこで出会い,お互いはどんな時を生きるのか。 そういう出会いができたとき、奇跡,信じられないような不思議なことにめぐり合えることもあるだろう。 その出会い自体が奇跡なのだから。
 1876年、ニューヨーク。 レオポルド公爵はブルックリン・ブリッジの式典の場にいた。 親戚に結婚相手を決めるようせまられていた。 レオポルドの屋敷でのパーティーが行われる中,怪しい男を見かけ,レオポルドはその男を追いかけた末,未来へタイプスリップしてしまう。 怪しいのその男の名はスチュワート。 スチュワートは現代社会の人間。 未来と過去をつなぐもの,時間の裂け目を探し求めていたのだ。 レオポルドは自分がいた世界とは全く姿・形の違うニューヨークを目の当たりにし、ケイトと出会う。 ケイトはスチュワートの隣人。 そして仕事に生きる仕事人間。 彼女には心の落ち着ける場所、心をゆだねられる人はいなかった。 レオポルドとケイトの共通点はそこだった。 まわりに人がいても“独り”だったのである。 恋愛をすることもほとんどあきらめ仕事に没頭するケイト、紳士に重んじるレオポルド、相反しているように見える二人はしだいに恋に落ちていく。
 違う時を生きる者どうしの恋愛。 異なる時代を生きている二人、価値観が違うこともあれば共通なことだってある。 様々な時代に生きた作家たちが彼らの思う価値観を書き連ね,物語を描く。 全く異なるようで現代につながる,あるいは現代と共通の筆者たちの考えがあったりする。例えば「高慢と偏見」で描かれる恋愛感は現代とそう変わるものではないだろう。違う時を生きるものどうしであっても出会えたことには何か意味がある。 それは「運命」と言っても良い。 ケイトとレオポルド、お互いがそれぞれの時代には決してなかったものをお互いに見出し,心・気持ちのどこかで共鳴することができたのだ。 一度つながった運命の糸は離れることはない。
 レオポルドは自分が生きていた時代の数百年後のちょうど同じニューヨークにやってくる。 時代がどんなに変わり,また姿を変えようとも変わらず,そこにあるものを目にする。 ブルックリン・ブリッジ。 過去から未来、変わらないその橋が,その下を流れる川が,未来と過去をつないでいるだなんて素敵なことだろう。 ブルックリン・ブリッジがケイトとレオポルドを引き合わせ,二人の運命の糸を重ねた,恋のキューピッドといっても過言ではないだろう。
 時代が変わってもそこにありつづけるというのはとても素晴らしいことである。 もしマリー・アントワネットが現在にやってきてベルサイユ宮殿を見ても,あるいは豊臣秀吉が現在にやってきて大阪城を見ても(戦国の武将たちが今ある城を見ても),改装などがあったとしてもきっと感動することだろう、と私は思う。 もしタイムスリップができたとして自分が未来の世界に行って,自分が生きる時代で慣れ親しんできたものがそこに変わらずあったとしたらやっぱり感動するだろう。 未来に生きる人々にとってはそれが当たり前にそこにあるものあって何も思わないかも分からないが。 しかし歴史を振り返り,そのものがどうやってできたのか、その作り手たちのどのような努力があったかを知るべきである。 そうすることでそのものの素晴らしさを理解することもまた素晴らしきことなのだ。

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by jd69sparrow | 2007-06-20 16:42 | 映画タイトル な行

GOAL!2

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 “DREAM”、これはこの映画を表すのに合う言葉ではないかと思う。 それはサッカー界の世界のスター選手たちの共演というのももちろんだが,貧しい暮らしをしていた少年が大人になりサッカーのプロとして夢を追いかけるというものという点から言える。 実際主人公と全く同じ道を進んできた人というのはいるかどうかはわからなけれど、サッカーにしろ他のものにしろ、地道に努力を重ね,また楽しいこと・辛い逆境など様々な壁にぶつかっても起き上がりあきらめさえしなければ、どんなに自分の置かれる環境下が厳しくとも夢をつかみとれるのだとサッカーのプロを目指し,志す者たちにエールを送っているとも考えられる。 だからこれを違うジャンルでも置き換えることができる。 「ロッキー・ザ・ファイナル」での言葉にもあるように「自分をあきらめない」よう心がければよは自分の目指す道やなりたいもの、やりたいことはどんなに障害が目の前に立ちはだかろうと努力を惜しまなければきっと夢が実現する。
 主人公サンティはその才能が認められプロのサッカー選手としてイギリスで活躍するようになった。 そして所属するチームのファンからも熱い声援を送られていた。 そんなあるとき、なんと思いも寄らない夢のような知らせが彼の耳に入ってきた。それはあのスター選手たちが揃うレアル・マドリードからの誘いだった! サンティはスター揃いの銀河系軍団の中に飛び込むことになる。 そこにはデイヴィッド・ベッカム選手をはじめとする世界中で脚光をあびる実力派の選手がいた。 サンティは一つ夢を実現させたのである。 一足先にレアルに参加してイギリス時代からの仲間ガバンと共にサッカーの頂点を目指す。 ますます人々から注目されるようになったサンティ、だが彼には超えるべき壁が待ち構えていた。 それは恋人ロズとの関係・距離、そして今まで離れ離れだった実の母親の存在だった。 サンティは一流のサッカー選手の一員の自分と一人の人間としての自分との間でゆれる。 それは新たに課せられた彼への試練だった。
 この映画のおもしろいところはサッカーという媒体の部分だけではない。 もちろんスター選手たちの登場にもある。 そして個人的に大きいのは主人公サンティが選手として確実にステップアップしていくとともに彼に襲い掛かる逆境とどう向き合うか、あるいはどう切り抜け,選手として、また人間としてどう成長していくかにある。
 人はチャンスをつかんだときひたすらその夢を追いかける。それはそれぞれにとって素晴らしいこと。 しかしそうすることで大切なことやもの、人を見失いそうになることもある。 夢に近づけば近づくほど試練が自身に課せられる、オンとオフとの両立というものである。 それが第二章のメインだと思う。 両方をバランスよく分けること、両立させることは難しい。 だけどそれを志すと言うものが人生だ。 サンティはプロになりはじめて心がゆれ,彼自身の中に迷いのようなものが生まれる。 そして葛藤。 けれどサンティには支えとなる人々とのつがりがあり、絆があった。 それが彼を動かす。
 サンティとガバン。 それぞれがそれぞれの抱えるものと戦う。 ガバンは中々成績をあげることできずにいる、サンティは不安定な気持ちと状況に陥っている。 しかし、一選手としての魂(、人間としての)は熱い。 そこから吹き出るものが彼らに力を授け.困難に立ち向かう力を与えるのだ。
 サッカーの試合の場面は迫力がある。 選手が走り,ボールを蹴り 弾む音、きめ細かく機敏に動く選手たちのその映像はリアルを表現し臨場感があふれる。

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by jd69sparrow | 2007-06-19 01:55 | 映画タイトル か行

ケネス・ブラナー

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 正直なところケネス・ブラナー作品はあまり見たことがない。 だからその数少ない見た映画での印象が非常に大きい。 しかしどちらにしても強烈な印象が残ったのは確かだ。 ちなみにその作品とは「ワイルド・ワイルド・ウェスト」と「ハリー・ポッターと秘密の部屋」である。
 ロックハート先生(主人公ハリーが魔法学校二年次の先生)ももちろんとても個性的。 ロックハートというキャラクター自身、超個性キャラである。 派手に着飾り髪型にもこだわり,とにかく自分を美しく見せようと心がけ,自分大好きな魔法使い。その実力はどうも怪しい、だけど決して憎めない人。 そこへブラナーが命を吹き込み演じる。 気持ちいいくらいにさわやかな自分よいキャラである。 
 それよりさらに(私の中で)ケネス・ブラナーという俳優を印象付けたのが「ワイルド~」のラブレスだ。 役柄としては戦争で両足を失い,義足の代わりに車椅子のような機会と自分の体を一体化させた軍人。 キャラこそ強烈だがそのルックス,初登場シーンもかなり根強く残るものである。 完全なる悪役、だけどお茶目であり,ラブレスにはカリスマ性がある。 どの出演作に共通するかもしれないが独特なクセのある台詞回しもおもしろいところであり,惹かれるところ(声ももちろん耳に残る)。 言い方として適切かはわからないけれどその声域は広く,その中で声がうねりをなしているように聞こえる。  
 ちなみに「ワイルド~」のラブレスでブラナーを初めて(映像を通し)見た。 その初めて見た作品にして個性は且つ実力派な役者であるのだなという印象が心に焼き付いた。
 ブラナーのそういった面の外を探ってみるとシェイクスピア作品の映画化作品でもお馴染みであり、監督など,製作側にも精通した人物であるのだ。 俳優であるいぜんに文芸作品や芸術を愛する人なのかなぁと思った。 というのも彼の関わった作品でシェイクスピア作品が目立つというのもあるが、約三十年ほど前にも映像化された,モーツァルトの「魔笛」の映画化を監督・脚本という立場から手がけているからだ。 その映画の公開は2007年7月14日より。 オペラを映画化するという難題に挑んでいる。 あるテレビ番組でも紹介されていたけど俳優だけでなく監督などの顔も持つケネス・ブラナーはいまや様々なジャンルに挑戦している,まさに映画人。 その素顔は上にあげたような超個性キャラからくるイメージとはうってかわって優しさあふれ,笑顔の似合う紳士である(個人的にはどこかキーファー・サザーランドを連想させる)。
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by jd69sparrow | 2007-06-12 00:07 | ハリウッドスター

2周年。

 そういえば(←おい)、このブログも今年で二年目を迎えました(本当は二週間前で)。 これもここへ遊びに来てくださる方々のおかげです。 今年はちょっと忙しいこともしばしばなので更新もコメントやトラックバックのお返しも遅れてしまいがちになってしまうことをあらかじめお詫び申し上げます(前も同じことを言ってたような…汗)。 これからもじゃんじゃん映画見ていけたらなぁと思います。 たまに映画から話題それるやもしれませんが(^^;; 
 最後にいつもここに足を運んできてくださる方、誠にありがとうございます!! 感謝感謝です☆ 三年、五年、・・・と長く続けていけるよう頑張ります♪♪
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by jd69sparrow | 2007-06-11 01:03 | インフォメーション

ボーン・コレクター

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 マンハッタンを振るいあがらせる連続殺人事件。 その事件の犯人の刃にかかった者たちはじわじわと苦しめられた後命を奪われる。 被害者たちは自分の恐怖がゆっくりと確実に訪れる瞬間を目にしながら命を失う。 これほどの恐ろしい死があるだろうか。 残酷きわまりない犯人の犯行が続く。 その怪奇的は事件を科学捜査を専門にする刑事ライムと事件に偶然にも巻き込まれたパトロール警官アメリアが手を組み事件を探っていくスリラー。
 事件はマンハッタンで起きた。 それは極悪非道な殺人犯による連続殺人事件だった。見るも無残なほどに変わり果てた姿となり次々と発見される被害者たち。 被害者たちのそばには不気味な,謎めいた証拠品が残されていた。 一体犯人は何を伝えようとしているのか。 それは警察に挑むかのような犯行。 そしてその手口は警察のことを知り尽くしているかのようなものだった。 それだけに事件は難航になりかねぬもの。 そこで立ち上がったのは科学捜査の道にたけたリンカーン・ライム。彼の卓越した鑑識力を持っている。 しかしライムは数年前の事故で一人では身動きできない体になっていた。 連続殺人事件に関わることになった事件の目撃者でもあるアメリアは彼の目となり手となり足となり、ライムの指示のもと捜査を進めていく。
 アメリアは無線から聞こえてくるライムの声に従い事件の捜査に乗り込むが、そこで被害者たちのあまりにも無残な姿を目の前にしてそこでライムと共に謎を解き明かしていくわけだがそうすることがどんなに勇気のいることなのか 被害者たちに共通して残されていたのは深い傷,それも骨が見えるくらいに切り刻まれているのだ。 アメリアは事件を通して一人の人間として,警官としてしていき,それはパトロール警官というよりは刑事の顔のようである。ライムとアメリアはコンビ。 一刻も早くこの残虐な殺人事件を食い止め,犯人をおさえることが彼らの使命。 
 しかし警察側の手を読んでいるかのように事件をしかけてくる犯人の手立てをつかみ,犯人を捕まえるのは空をつかむかのよう,影すら見えない手ごわい敵。 そんな敵といつ対峙し,あるいは犯人の標的にされるかはわからない。 あまりのも残酷な傷跡の残る被害者たちを出さぬよう,犯人が警察に挑戦をするように次々に犠牲者を出していく。 まるで警察に恨みを持つように。 犯人によって残されるもの、それは何を指し示しているのか。 知識にたけた知的な犯人。自らにつながるものを消し,あきらかに現場に残されたもので警察に挑んでいる。 犯人にとって人の命をあやめることは手段であって目的はライムたちの方(警察)に向けられている。 元々警察関係者だった人が逆恨みに走ったり,あるいは警察のやり方をよく思わない者がそれを指摘し社会にしらしめるような話を思い出す(この映画とそれらとが直接つながるかどうかはさておき)。
 あまりにも卑劣な犯行の数々。 信じられないと思う。 だけど今日では信じられないような事件が起き,ここまでとは例えいかないにしても ひどく驚くことでもないような気がする。 でも「起きて当たり前とか、起きても珍しくない」といって慣れてしまうこと,そして衝撃を受けながらも忘れてしまうことは恐ろしいことである。

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by jd69sparrow | 2007-06-11 00:40 | 映画タイトル は行

プレステージ

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 映画のはじまりがこの物語の壮大な仕組みを語っているかのようである。 映画には次のシーンに続く出来事につながるキーポイントがある。 それはミステリーなど謎を多く秘めているものにおいては特に多く見られるものなのだろうと思う。 映画を髄まで知り,理解するためにはその一つ一つを解いていく必要があるだろう。 思わぬもの,しかしそれが観る側が気付くことでより楽しむことのできる隠された要素がある。 隠された、というよりそこにこちら側が見えていない、わからないだけなのかもしれない。 しかし作り手たちはそれを堂々とわかりやすくどんとおくのではなくさり気なく,それとなく物語に盛り込む。 それは映画をより楽しいものにする仕掛けであり,それを探求していくというまるでゲームのようでもある。 ここに“映画と奇術の共通点”があるではないかと思う。 「プレステージ」の場合もそれが存在し,最後の終着点を指し示すヒントのようなものが散りばめられていると言う。 「映画そのものがマジック」というように私たちが目にするのは映画というマジックなのだ。 それは冒頭で指し示されているように思う。 物語が「確認」から始まり「偉業」にしめくくられるマジックの仕組みそのものでできているのだろう。 私たちは映画をただ見るのではなく,マジックを見るのである。 
 謎を解けた瞬間、すっきりもするし謎を解いたことに喜びを感じる。 だけど それは映画を見終わった後考えること。 マジックを見るとそのタネ知りたさに先入観を持ち,なんとかトリックを探そうとする。 けれどこの映画においてもそうだけど見るときからそういった先入観を持つことよりも素直に驚く方がよいのだ。 ここでも語られるように「マジックとは観客の驚かせること」で教師が問題を出してそれを生徒が解くことではないのだから。観客の目を欺き驚かせることというのが奇術師たちの狙いであり,それがやりがいというものなのだと思う。 ただ呆然と見るというのも映画を味わうこととは違うと思うし、考えることも大事だけどこの映画は奇術、楽しむこと・驚くことが大切なのだろう。 とはいえどうしてもそれぞれのシーンの謎を解き明かしたくなる。もちろんこれらのことは一つの楽しみ方に過ぎず,個人的な考えである。 だから素直に目の前で繰り広げられる奇術に驚き,魅了されることも一つで、宣伝文句にもあるように全編に目を凝らすことも一つと言えるかもしれない。
 1890年代、ロンドン。 二人の奇術師がいた、アンジャーとボーデン。 彼らはそれぞれ違った趣向を持っていた。 かつては共に力を合わせた彼らはある悲劇的な事故の日を境に互いに競い合うようになる。 アンジャーは華麗に奇術をパフォーマンスをし観客を魅了し、ボーデンは己を信じ,マジックを重視した。 奇術に対する情熱は彼らの唯一の共通点だったと言えるだろう。 奇術で競い合い,また観客の前に立つ前,つまり舞台の外でも常に競い,お互いの奇術に目をはる。そして奇術師として名をはせ,いかに相手を越え,人々から認められることで脚光をあびるかという争いがあった。アンジャーとボーデンは互いにトリックで相手に攻撃をしかけ挑む。 何かを犠牲にしながら。

ここからネタバレ注意!
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by jd69sparrow | 2007-06-10 02:09 | 映画タイトル は行