CATS キャッツ

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<イントロダクション>
 パフォーマンスとダンスのエンタテインメント・ショーというのがこのミュージカルの第一印象だ。 それだけでも見ごたえはあるが、猫たちをまるでコピーしたようなリアルを追求した役者さんたちが演じ、また 踊るというのがなんとも魅力的だ。
 “サーカスにディズニーランドが迷い込んだみたい”という言葉も納得がいく。 ディズニーリゾートで観るショーのエンタテインメント・ショーに匹敵するレベルの高さだ。 そして、なんと そのディズニーリゾート(ランド)と『キャッツ』は同い年というのだから驚きである。 『キャッツ』は歴史と伝統あるミュージカルなのだ。
 
<あらすじ>
 ジェリクル・キャッツたち24匹は年に一度の集会がある。 そこでは舞踏会と天上へあがり、本物の自由を得ることのできる,ただ一匹を選ぶという催しが行われる。 個性豊かな猫達の紹介を交えつつ,ドラマティックな展開が繰り広げられる。

<感想>
 劇場にはたいてい一階と二階とがあるが、どの場所にいても決して損はしない。 まさに会場全体がステージなのだから。 だからステージの目の前や通路側はより楽しい、かと言って中央であっても、キャッツたちの顔がはっきりと見れるという特典があるので充分に楽しめる。
 大仕掛けな舞台装置に演出の数々。 例えば、ステージと一部の客席とが回転するのが、期待をふくらませる。 アトラクションのようだ。 見えなかったところが見えるということ、また 一匹…また一匹と所々にいる猫達の登場を見ると心が躍る。 
 客席の方まで施された装飾はCATS視点で見た,ゴミである。 驚きなのが、思わぬところに出てくる“仕掛け”。 公演が行われる場所によって異なるというこだわりがある。 その土地の名産物や有名なものが“ゴミ”として紛れているのだ。 各地の『キャッツ』めぐりをし、“ゴミ”をじっくり見てみたくなる。 『キャッツ』の他にも,ご当地限定のものがある。 それは『ライオンキング』のラフィキがその土地の方言でセリフを言うというもの。 こうして、その土地にちなんだ何かを演出することで全国の人たちがこれらの作品を身近に,親しみやすく見ることができるわけで、劇団四季のこだわりとサービスというおもてなしはすごいと思う。
 明るかったり、コミカルなものや、サイレントなもの、悲しげなもの…etc 曲目によって雰囲気が変わり、また曲調も様々。 ミュージカルの特徴なのかもしれないが、実にバラエティに富んでいる。
 ソロも歌声が劇場と観る者の心に響き、魅力的だし,団体でのパフォーマンスはとても迫力があり、まさにダンスをモチーフにしたミュージカルの醍醐味である。 しかも、色とりどりの猫達が一箇所に集結するといころを見ると、“『キャッツ』を見に来たぞ!”という実感が湧く。 グループダンスは様々な形態で行われるのが楽しい。 途中でその人数が増えるもの、みんなで“作り上げた”と呼ぶべきものなどが印象に強く残った。 完全なソロである,バレエダンスの演目も素晴らしく,また心に残る,美しい舞がオス猫により披露され、魅了される。
 第一幕と二幕とがあるが、第一幕が終わろうという場面では美味しいところで区切り、“次回へ続く”というのがはっきりと表現され、「次がとても楽しみ」という気持ちになり、第二幕のはじまり,つまり第一幕と二幕のつなぎがとても上手く,よく出来ているのだ。
 猫は気まぐれで気ままというイメージがあるが、それだけではない。 そのイメージに一番近いのはラム・タム・タガー。 猫一匹一匹にはそれぞれの人生があって、猫達の物語は一見幻想世界の中に人間社会が投影されているのは、とても身近に感じさせると同時に作り手たちの人間的なメッセージが込められているという証拠。 人の社会を猫の世界に変え、そのメッセージを伝わりやすく、また受け入れやすく,社会的メッセージを伝えたいという作り手の気持ちが感じ取れる。 人間達と同じような社会が動物達の中にもあるのだろうと改めて思う。 信じたくなる。
 人それぞれが各々の夢に向かって走り、自由と人から認められることを求めているというメッセージがあって、出演者と会場とが一体化して楽しめ,観るたびにおもしろいミュージカルだと思う。

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by jd69sparrow | 2009-01-28 13:04 | ドラマ・その他

Mr.インクレディブル(2回目)

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<イントロダクション>
 スーパーヒーローはテレビの中だけのもので、現実的な存在としてぇあないと考えられそうだが、実は違うと思う。 スーパーパワーはなくても、時代を変えた立役者から身近な人生の先輩達など、身近にいる。 人から見て輝いて見える人がスーパーヒーロー。 例えば幼い子供から見た父親である。
 スーパーヒーローの需要は様々にしても人々にとって必要な存在と言えるだろう。 ここでは人々 世界の平和を守るというのがスーパーヒーロー達のへの見方が変わり、表舞台ではなく、身を隠すべく,普通の人々の中に紛れ込むという大きな変化がある。

<あらすじ>
 Mr.インクレディブルは町で自分を求める声がないか常にアンテナを張っている。 大きな事件でも,また小さな親切であっても、助けが必要なところにはすぐに飛んでいく。 輝かしい日々に思えたが人助けのつもりでビルから飛び降りた人を助けた時、「助けはいらなかったのに…」と大きな批判をかうことに。 その日を堺にMr.インクレディブルの人生は変わり、やがてヒーローたちは人々からバッシングされるようになり、人々の目の前から姿を消した。 その後、同じ超人であったイラスティガールと結婚し長い年月が経った現在、Mr.インクレディブルはかつてのヒーローの面影をなくし、ストレス社会に生きるサラリーマンとなっていた。 そんなある日、自分がヒーローだったことを知る,謎の人物からMr.インクレディブルにヒーローとしての仕事の依頼が来る。 しかし、それは罠であった。 インクレディブルがヒーローをやっていた頃、彼に冷たく突き放されたと思い込む当時、ファンだった少年,自称・インクレディボーイ、現在のシンドロームの逆襲・逆恨みなのである。
 父親と同じくスーパーパワーを持つインクレディブルの家族達はシンドロームにはめられて身動きできない父親を救うべく、危険を顧みることなく 戦いの旅に出る。

<感想>
 超人が出てくる話とあれば、その能力というのが一つの魅力。 その見せ方というのは、格好よく見せたり、また,コミカルに見せたりと様々である。 後者の方はとてもユーモアがあり、コメディのようでもある。 前者は物語が進むにつれ,ステップアップされるのが楽しい。
 ヒーローものとしてだけでなく、家族の絆を描く話としての魅力もある。 Mr.インクレディブルの家族は幸せな家庭でありながらも個人個人が悩みを抱えている。 戦いを通し、家族で危機を乗り越えることで(一致団結する)、彼らは壁を乗り越え、絆が深まるのである。 つまり、家族で力をあわせれば困難を乗り越えられるという強いメッセージがある。

前回の記事

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by jd69sparrow | 2009-01-23 22:06 | 映画タイトル ま行

WICKED ウィキッド

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<イントロダクション>
 劇場へ一歩、足を踏み入れた瞬間 心が踊るような気持ちになるのというのはどんなに素敵ななことか。 もとはブロードウェイ、つまりは外国から来たものだから海外の作り手達のこだわりからくるものだろうけど、それにしても四季へ見に来るたび、作品が始まる前から劇場をあとにした帰り道まで…というか作品を見てしばらく,興奮が冷めることはない。
 “ウィキッド”は名作『オズの魔法使い』の序章であり,サイドストーリー的なものだと言える。 『オズ』の物語を“別の角度”から見た話。 悪者が実は、悪者ではないという,主人公と悪役とが逆転させたように作られていて、悪役とされていた人からの視点で物語を描くという,異色なアイディアが魅力である。
 題名にある“wicked”を調べると、“悪者”という訳がある。 “悪者”という概念について考えさせられる。 ある人、存在が“悪”と呼ばれるには理由があり、そこに至るまでの過程にスポットを当てたのが『ウィキッド』である。

<あらすじ>
 エルファバは生まれつき、肌が緑。 父親にさえ避けられるという辛い重荷を背負った,彼女は妹・ネッサローズとオズの国にあるシズ大学へ入る。 そこには自分とは正反対で、明るく まわりからちやほやされている,グリンダという同級生がいた。 エルファバとグリンダは初めて、会ったその日から、ぶつかりあい、つりあわない。 そんな二人は恐ろしい陰謀の渦に巻き込まれていくが、次第に友情が芽生え 絆を深めていく。 そして、それぞれが己が歩むべき未来へと向かっていく。

<感想>
 人間の社会の真実を語るのにファンタジーという素材を使うと言うのは、とても伝わりやすく、効果的だと思う。 その真実とは信じがたいものであwり、この物語はフィクションだが、ここで起こっていることが現実にもあったというのだから、“wicked”には説得力がある。 強い者が言えば、それがたとえ、偽りだとしても人々は信じてしまう。 もちろん、全ての人とは限らないけど、国を治める人が言った言葉には力があり、多くの人が真実だと思うだろう。 逆に、人々の上に立つ人間を信じられなくなったら、大変なことだ。
 かと言って、嘘を嘘のままにしていいわけではない。 だから、公表されている事実ばかりを見るのではなく、別の視点で見ることも大切なのだと物語は訴えているのかもしれない。 ウィキッド(悪者)と言われている人が本当にそうなのか疑ってみることも必要だと。
 エルファバはオズに対して、裏切ったとされるが、実はその逆。 夢が叶ったかに思えた,次の瞬間、策略の手助けをさせられたのだから。 その時の彼女が受けた衝撃は強かったかもしれないが、エルファバはとてもタフである。 どんなことがあっても、現実から逃げ出さない。 まわりからひどい仕打ちを受けても,へこたれないのはネッサローズとい守るべき,大切な存在があったからだろう。 辛いことがあっても、ひきずったり,振り返らずに自分が信じた道へ一直線。
 グリンダはオズの国民からすれば太陽。 希望の光。 愛されることを求める彼女にとって それは幸せであると同時に 重い責任を背負っていることとなり、「良い魔女」というレッテルの上で生きていかなくてはいけない。 振り返ったり,迷ったりはできないのだから、ある意味で辛い運命を背負っていることになる。
 世の中でウィキッドと言われる人には、本当にそうである人もいれば、ウィキッドにされてしまった人もいる。 また、“ウィキッド”という言葉は案外,身近といえる(パンフレット参照)。 私達の行動の中でよかったと思って、やったことでも見かたを変えれば “ウィキッド”かもしれない。
 『オズの魔法使い』が元になった話だが、オリジナリティが強い。 『オズ』に登場するキャラクターたちが様々な形で出てくるが、一人一人出てくるたびに嬉しくなる。
 『オズ』のキャラクターたちのエピソードが見れるからだろうか。 『オズ』に出てくる悪い魔女の素顔…こういう視点を見ると他の童話もこのような見方で見れたらおもしろいかもしれないし、見てみたくなる。
 一番印象に残ったのはエルファバの歌。 演じ手の声量と声域の広さの素晴らしさあって、クライマックスが盛り上がり、エルファバの思いがダイレクトに伝わってくるし、思いの強さを感じる。 エルファバの歌は太陽である。
 エルファバの魅力は歌だけではない。 と言うか、物語としての魅力と言うべきだろうか。 シズ大学に着たばかりの頃から次第に大人の女性として、美しく成長していくところも、良い意味で忘れがたい。 魔女らしいと言えばそうだし、女性らしいと言っても同じことが言える。
 衣装、歌、演出、そしてストーリー。 この四つが充実していてバランスが良い。 さらにそれぞれが互いに対し,劣ることなく、どれも素晴らしく最高である。
 悪者は人が作り出すもおで、本当に“悪者”と呼ばれる人がそうとは限らない。 正義が輝くためには割るが必要で、その悪がいない時 立場が低いもの,弱い者を悪者に仕立てるというのはその行為自体が“wicked”だ。 これが権力に魅せられた者たちの手で行われたことがあるという現実はあまりに恐ろしい。
 しかし、それをしりながらもエルファバは権力者の策略で悪者とされたことに逆らおうとはせず、そのレッテルの上を歩くことを決める強い人だと思う。 悪者と言われても、彼女にはそれが気にならない,上回る幸せがあって、自分が悪であることで人々が平和に暮らせるならそれでいいと考えたのかもしれない。

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by jd69sparrow | 2009-01-21 22:28 | ドラマ・その他

私は貝になりたい

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<イントロダクション>
 人間の人生はその時代に影響される。 だから人が時代に翻弄されてしまうことも少なくない。 しかし、時代とは人々が築き上げていくもの。 つまり、間接的に人が人を,しかも、不幸になるべきではない人,不幸にしてしまうということだ。 その発端の一つは戦争(また、厳しいしきたりなどに練られていたこと)。 それは戦時中から、戦後,その名残が消えるまでに及ぶ。 戦争によって幸せを奪われ、この映画のように“時代に翻弄されたひ”人は少なくなかっただろうし、主人公のような罪なき人々が罰せられるのも実際,多かったのではないだろうか。

<あらすじ>
 昭和十九年。 広く大きな海の見える町,土佐に清水豊松は家族三人つつましくも平和な日々を送っていた。 妻である房江と共に理容室を切り盛りし、一人息子の健一に元気をもらうというのが豊松の日課である。 そんなある日、豊松の元に“赤紙”が届く。 戦争への召集令状… 兵に入隊した豊松に待っていたのはあまりにも厳しい訓練と非道とも言えるような絶対的命令であった。 それからまもなくして、日本は戦争に敗れ、戦争は終結した。 豊松も無事愛する家族のもとへ帰ることができた。 これから明るい未来に向かって再び歩み始めようとしたその矢先、思いもよらぬことが舞い込む。
 それは豊松を戦犯の容疑で逮捕するするというものだ。 裁判にかけられた豊松に下された判決は崖から突き落とされたかの如く,惨く悲惨であった。
 
<感想>
 戦争は起こした両者に責任がある。 日本は戦争に負けたが、決して罪がないわけではない。 他の国を占領したり、捕虜に対しての扱いはひどいものがある。 確かに敵国で攻撃してきた、相手国の人間であっても、弱い立場であることに変わりはなく、それを兵のためにと言って見世物にするのは犯罪である。
 豊松はそういうことに巻き込まれ、逆らえば 死が待ち受けているという状況下で刀を振り上げるが罪に問われるまでに至ってはいない。 たとえ、命令どおり実行していたにしても状況が状況なだけに100%の犯罪とはいえないし、“罰せられる”べきではないだろう。
 召集令状が届けられた人は戦争に巻き込まれたのだから、被害者である。 “バンザイ”といって、また,“お国のため”ということで送り出されても,愛する人たちと引き離される上に,生きて帰れるかわからないのだから、皆が皆前向きな気持ちで戦地に向かったのではないと思う。
 豊松のような格下の兵士たちにとって、上からの命令は絶対的なものであり、それに逆らうことなど出来ない。 異国ではどうだったのだろうか。 これは日本だけに限られたことなのだろうか。 豊松は必死で思いを伝えようにも裁判はほとんどアメリカ人によるもので、通訳でさえ限りなく片言である。 しかし、異文化・言葉という壁が彼らの前に立ちはだかる。 アメリカ側が言うことにも一理あるが、日本から発信することは何一つ伝わっていない,あるいは伝えられていないようである。 通訳が伝えてくることにはおかしなことが多く、豊松の言葉を理解しようとし、また,豊松の言葉が間違いなく裁判員たちに間違いなく伝えられているかどうかも怪しい。
 これは両国の考え方の違いかもしれない。 確かに上官が豊松に下した命令は良いとは言えない。 けれど、真実は裁判の結果とは全く違う。 裁判ではこの事件を表面しか見ようとせず、中身までは見ようとしてはいない。 がんとして捕虜たちが豊松たち日本人に殺されたという考えを譲ろうとはしない。 それは、自国を守ろうとしている、もしくは結果が物語っているという偏見かもしれない。 なぜ、真実が埋もれてしまうのか。
 その一つして上官たちの多くが、罪から少しでも逃れようとしたことが言えるだろう。 つまり、豊松は捕虜の命を奪っておらず、そもそも“その”命令をされた時点で捕虜は力尽きていた、と上官たちが証言していれば豊松の運命は変わっていたかもしれない。 上官である自分だけが苦しい罪に罰せられ、本当に罪のない部下達が助かるのを嫌う変なプライドがあったということも考えられるのではないだろうか。

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by jd69sparrow | 2009-01-20 21:24 | 映画タイトル わ行

レッドクリフ Part1

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<イントロダクション>
 軍師、猛将、軍略を駆使した戦い…日本史でも馴染みの深い言葉が使われる。 これぞ時代劇という大作が『レッドクリフ』である(“レッドクリフ”という言葉はよくわからなかったが)三国志に刻まれる。 戦、“赤壁の戦い”が主軸。 圧倒的に差のついた兵の差…これをどう乗り越えていくかが見所だ。


<あらすじ>
 時は三国時代。 今から1800年もの月日を遡る。 漢の国は衰退し、国は三分されていた。曹操、劉備、孫権という三人がそれぞれの三つに別れた国、それぞれの指導者である。 その中でも。一番力を持っていたのは曹操。 かつてはもっと多くの国々に分かれていたが、その大半を打ち負かし、皇帝までも操り、実質的に漢の実験を握っているに等しかった。 それを良しとしない劉備たちは呉の孫権と同盟を結び、八十万の敵に総勢わずか五万の兵力で戦いを挑む。 全ては漢を復興させ,太平な社会を切り開くためである。

<感想>
 魏、蜀、呉の三つの国があった三国時代は日本で言えば“戦国時代”にあたるだろう。 帝がいて、それぞれ領地を持つ武将がいて… しかし、戦国時代より遥か昔である。 歴史の長さを感じる。
 過去に西洋ではギリシャ神話の英雄アキレスや、アレキサンダー大王、ジャンヌダルクといった,偉人達の戦いの記録が映像化された。 個人的にはアキレスが日中の歴史で言う,武将ではないかと思う。
 しかし、大河ドラマのように、また,今回の『レッドクリフ』のように何人もの英雄・武将たちが、それぞれの主君のもと、戦い,忠義をつくすという本格時代劇はそうそうあるのものではないだろう。
 劉備には優れた知能派の軍師・諸葛亮 孔明がいる。 敵をうならせるほどの猛将 趙雲がいる。 さらに,常に冷静さを損なわない実力派の関羽、その声は敵を脅かすほどで、肉体的なパワーに富んだ,張飛がいる。 孫権には忠実になる有能な武将で 兄のような存在である周喩、兵士たちを統率し,自身も戦う力に長けた,甘興という頼もしい仲間がいる。 その一人一人に見せ場があって、各々の場面でそれぞれの武将が主役と言える。
 つまり、劉備・孫権の両者には心の底から信頼できる仲間がいて、逆に彼らの下につく孔明たちもまた,本心から主君に忠誠を誓っている。 信頼できる仲間がいるかどうかが同盟軍と、曹操との大きな違いなのである。
 孔明はとても知略に長けた人物である。 戦いに直接関わらずとも、まるで 坂本竜馬が薩摩と長州の間を取り持ち,“薩長同盟”を誕生させたように、力ある者で敵どうしともなりかねない者どうしで同盟を結成させたのを考えるとすごい。 孔明のこの軍略がなければ、漢の国は全く違う-おそらく曹操が国の頂点に立っていた-運命を辿っていたに違いない。
 曹操が数々の国を滅し、大きな力を得たのも,彼の持つ軍略が優れてのことだろう。 しかし、そんな曹操を相手に劣らぬ,軍略で立ち向かう劉備軍と孫権軍。 孔明と周喩の最強タッグ、まず 孔明が呉の国へと協力を求める際,周喩をどう説得するかというのも知的で二人の絆が特別なものになるだろうと感じられる。 また、呉と同盟を組む,一番の要は周喩を説得することだと思う。 二人が協力して敵に仕掛ける罠や攻撃は抱いたんだが、緻密に練られたものばかり。 次々とストーリーが展開し、圧倒される。 先の先まで戦のなりゆきを読んでいるのだ(二人の男たちの力は時代を少しずつ変えていったのかもしれない)。
 ここでの戦い、物語の魅力は武将達の肉体的な戦いだけでなく、彼らが編み出す作戦・罠など心理的な部分もある。 Part2はドラマティックな戦いはさらにヒートアップし、盛り上がるだろうという期待が期待が大いにある。
 熱戦。どちらに形成が傾くかわかないエキサイティングな作品である。

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by jd69sparrow | 2009-01-19 21:59 | 映画タイトル ら行

ICHI

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<イントロダクション>
 目の前には暗闇しか映らない。 光が閉ざされた世界を生きる女旅芸人・市。 容姿端麗な見かけからは想像できない武士と変わらぬ強さを持っている。 信じられるのは己のみ。
 刀をゆっくりと抜いたかと思うと、目にも止まらぬ速さで敵を次々と斬っていく、そんな市の強さと一人の人間としての弱さと未来への道を描いている。

<あらすじ>
 市は三味線を持ち,“杖”をつきながら旅を続けている。 人とは関わろうとはせず,自分の力だけを頼りに生きている。 ある日、同じ盲目の女旅芸人とともにいたお堂に手荒な男たちが現れ、そこへ一人の侍が市たちを助けにやって来たが、逆に市がその侍を助けた。 その侍の名は藤平十馬。 刀は持つものの,それを抜くことができない。 それゆえに十馬が市に救われることばかりに見えたが、市もまた十馬に救われる。 二人は滞在中の宿場町を脅かす万鬼党と戦うことになる。

<感想>
 市は人の答えを求めて、旅を続けている。 それは、市が幼い頃、彼女に逆手居合いを教えた人物が誰なのかということだ。 はじめ、ただ一つの目的のために市は旅を続け、偶然出合った十馬と共に過ごし、万鬼党と戦っていた。 しかし、市の戦いはそれだけのためではなくなっていく。 人の優しさと温かさを知った市は、その温もりを与えてくれた十馬に恩返しするように戦うようになる。
 ただ、強くてクールなだけの市ではなく、内面の奥の奥まで描かれており、今ある市の過程や強さの裏にある女性らしい弱さも丁寧に表現されていることが魅力と言えよう。
 武士して、人として“その”実力がないように見えて、あるいは思えて 実は力があるとわかったとき、インパクトが強く,カッコいいと思った。 それは二人の主人公に当てはまる。 追い込まれたと思えた次の瞬間,刀が敵を斬りつけ 引き出される。 だから、この二人の登場人物が魅力的なのだ。
 市は十馬の温かさに触れ、失った心を取り戻し、心動かされる。 また、十馬はそんな市の力で過去を乗り越える。 愛という力のもとに。
 全てを悟った市の十馬への重いがストレートに伝わってくるクライマックスにぐっとくる。
 世界が真っ暗に見え、市自身も暗闇の人生を歩んでいた…しかし、あきれめなければどんなに暗い道の先にも光が見えてくるのだ。 それが市が得た最高の希望と言えるだろう。 孤独だった市が十馬との出会いで温もりや生きることへの実感をえたように、心の扉を開ければ、やがて過去のような…いや、それ以上の何か,幸せが、光が、市の心を照らすかもしれない…と市は感じたのかもしれない。

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by jd69sparrow | 2009-01-18 00:00 | 映画タイトル あ行

ウォーリー

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<イントロダクション>
 人間のように意思や感情を持つロボット。 ロボットが活躍する物語にそういうロボットが登場する事が多々あると思う。 現実的に考えてみて,ロボットは人の手により作られた,人に忠実な機械でプログラムされたことをひたすら実行する。 現時点で機械に意思がないにしても、ウォーリーのように感情が芽生えることもなきにしもあらずと思うのだ。 というのも、時折 機械にも意思があると思えるときがあるからである。 例えば、狙ったかのように機械が立て続けに故障やエラーを起こしたときなど(家電が一機、壊れるとその後、また別のものが故障したりするように)。
 『ウォーリー』は、長い年月 一人ぼっちのロボットに感情が生まれ、そのロボットこと、ウォーリーの宇宙への冒険の物語。

<あらすじ>
 29世紀、美しい星・地球はゴミにまみれ、もはやそこには人はいない。 空っぽになってから、700年後の地球にただ一機取り残されてしまったウォーリー。 ウォーリーは人がいなくなってから、ずっと自らの仕事であるゴミ処理をマジメにかかさず,行っている。 人々が残していったものに触れるうちにウォーリーに意思ができて(生まれる)。 また、ゴミの山から毎回何かを発見するという楽しみを覚える。 そんなある日、一つの宇宙船が目の前に現れ、中から出てきたのは、白く美しいロボット・イブ。 宇宙から地球へと送り込まれたのだ。
 たちまち、ウォーリーはイブを好きなる。 イブが使命を終え、宇宙へ旅立つ時、ウォーリーはイブを追い、見知らぬ世界,宇宙への冒険が始まる。
 
<感想>
 この作品は三つの要素によってできている。 一つはウォーリーの冒険、二つ目はウォーリーとイブのラブ・ストーリー、そして三つ目は地球再生への道のりといったところだろうか。 
 地球を去った人間たちは便利で快適かつ,楽な生活に依存し、関心ごとといえば 自分の目の前にあるモニターだけ。 かつての人間のように感情があって、いろんなものに興味を持つウォーリーとは対照的で、まるで人とロボットの性質が逆転したかのようである。 人には感情がなくて、ロボットにはある。 
 地球を捨てた人たちは巨大な宇宙船で毎日変化のない日々を過ごしている宇宙船には艦長いるけれど、舵をとるのはメカ(人々のリーダーである艦長だが、実権を握るのはメカにあるに等しい)。 悪い意味で舵をとるメカ,“オート”に意思が生まれ、プログラムに忠実なオートはオートの役割を阻むものに容赦がない。
 機械に囲まれ、便利さばかりに気を取られてしまうと、こんな未来がやってくるかもしれない。機械が人に逆らい、人の体が退化してしまうという。 700年間も、ゴミ処理ロボットとしての仕事を続け、その機体は汚れてしまっても、ウォーリーの心は綺麗で人間が失ってしまったもの(感情)を持っている。 彼の“綺麗にする”という役割は、違った意味でも働いている。 “綺麗にする”といことは、汚くなったものを元通り,きれいな姿に“再生する”という意味にもとれるだろう。 だから(意識的にではないにしても)人々を帰るべき場所・生活に導いたのも まさにこの“再生(=綺麗にする)”だ。
 ウォーリーがいた元々の世界,地球はゴミであふれているけれど、彼がそのゴミで築き上げた,一見ビルに見えるゴミの山は芸術的である。 まるで建物に汚れがついたかのよう。 それも複数存在する。 つまり、ウォーリーは700年かけてマジメに仕事をし、知らず知らずに芸術も作り上げることになる。 すごい。
 宇宙が映し出され、ロマンティックなところもあれば、思わず笑顔になってしまうところもあり、また,心温まるところもある。 それら全てに通じるのがウォーリーのイブへの気持ち。
 感情表現の豊かさ(ウォーリーの)には温かさがある。 ウォーリーからイブへ、イブからウォーリーへの気持ちがとても印象に残り、観る者の心をつかんで離さない。
 ウォーリーは人々が残していったものから宝物を見つけ、集める。 彼には家があって、宝物の数々は大事にそこへ収められていて、お気に入りの映画・音楽があり、そこから得た夢がある。 人間味の深さがうかがえる。 さらにイブのために雷にうたれたり,ボロボロになっても一生懸命というひたむきさを持っている。 言葉なくして そういったことが出来る…これらが『ウォーリー』最大の魅力だと思う。
 ウォーリーとイブとの出会いが地球の運命を変え、ウォーリーのイブへの想いが地球・人類の両方を救うなんてとても素敵である。
 物語は一見平和だが、堕落寸前のところから、明るい未来へと向かっていて、主人公ウォーリーは地球を救おうとしたのではなく、結果的に救ったという点が作品をより良きものにするのに大きく働いている。

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by jd69sparrow | 2009-01-17 00:00 | 映画タイトル あ行

ハッピー フライト

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<イントロダクション>
 私たちが安全な空の旅をするために,様々な職種のプロたちのそれぞれ違った努力や苦労がある。 飛行機一機が空を飛ぶのにも大勢の人たち(空港で働く人たち)が動くことになる。 客室乗務員やパイロットというのはよく知られた職種だが、この作品を観て初めて知るような職種もある。 つまり、裏方の存在である。 どの交通機関にも言えるかもしれないが、天候や」ちょっとのミス、自然界の生き物との接触は大きな影響を及ぼす。 そういった事が積み重なっていった結果、緊急事態になりうる。
 機体トラブルにみまわれた旅客機がどう無事帰還するかをコメディを交えつつ,描いたのが『ハッピーフライト』である。

<あらすじ>
 副操縦士の鈴木は機長への昇進のための研修の真っ只中。 訓練を終え、次に実際の飛行機を無事飛ばせるかにかかっていた。 一方、国内線から国際線へと移った悦子はその初日から遅刻。 鬼と呼ばれるCAのリーダー,チーフ・パーサーに一括をくらう。 グランド・スタッフの菜採は後輩の美樹とオーバーセールや荷物の入れ違いなどでバタバタしていた。 そんな彼らを結ぶのが“1980便 ホノルル行き”である。 離陸前からトラブルがあったものの,無事羽田を発ったが…

<感想>
 どのように飛行機が飛ぶのかを見るだけでもおもしろいが、空に飛び立ち,危機に直面した時、また 機内・キャビンでのトラブルがあったとき、どう対応し,乗り越えていくかが、とても見ごたえがある。
 飛行機が飛ぶまで、また,離陸後に様々なトラブルがある。 例えば、座席数より多くの搭乗券が売れてしまった時の処理。 私たちは知らないけれど、知らないところでそういった事がよくあるのだろう。 また、機転を利かせたことが日常茶飯事行われているのだなと思うとすごいと思う。
 もっと…と言うよりもl一番印象に残ったのが、CAの責任者でチーフパーサーの場面である。お客様と部下たちに常に目を配らせなければならない重要なポジションだ。 緊急時には、コックピットにいる機長(操縦士)やキャプテンとのチームワークとコミュニケーションも上手くこなしていかなければならない。
 国際線デビューをしたばかりの悦子を始めとする,部下たちがミスをしたとき、真っ先に手を差し伸べるのがチーフパーサー。 緊急事態には指揮官にもなるというカッコいい人である。 だから 1980便が危ない時、サービスを提供するという役目から、安全第一を重視した,レスキューに切り替わるところはとてもクールで記憶に残る。
 おもてなしをするという立場のほかに(人命の)安全確保をする顔を持つという事を考えると、華やかさとたくましさが要求されるのだなと思う。 CAはサービス業である以上、様々なお客様のニーズに応えたり、クレームに対応しなければならない。 次々とくる要求に臨機応変に,応えてゆき,いつ呼ばれてもいいようにと,各々の自由な時間・食事の時間は限られているという厳しい条件のもと,動いている。 そして呼び出された時には落ち着いた笑顔…
 CA全般のワークスタイルを見ただけでもすごいと思うが、チーフパーサーは他のCAたちの失敗を挽回させる,まさにプロフェッショナルだ。 全ての乗客と乗組員たちの命を握るのは操縦士だが、彼ら以上にたくましく見える瞬間すらある。 チーフ・パーサー,山崎の一番印象深いのがクレーム対応の場面である。 インパクトがあり、サービス業をする,理想の姿であると言えるだろう。
 緊急事態に陥った1980便、キャビン、コックピット、地上といろいろな角度から、その緊迫感が映し出され それぞれ,(地上と上空)違う場所にいる人たちの必死なやりとりが続き、観る側にもハラハラドキドキする感情が込み上げてくるようだ。 コメディ要素も盛り込まれているが、「知る」という点が大きい作品だと思う。

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by jd69sparrow | 2009-01-16 18:02 | 映画タイトル は行

K-20 怪人二十面相・伝

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<イントロダクション>
 ストーリー性やアクション、ドラマなどいろいろな角度で楽しめるエンタテインメント…一番ひきよせられたのが“トリック”である。 二人の怪人二十面相の対決が見れるが、両者が互いに騙しあうところは、もちろんだが、なんと言っても怪人二十面相の得意技の“変装”が印象深い。 怪盗と言えば、他人に化け,人々の中に紛れ 巧みにターゲットを奪うテクニシャン。
 アメコミヒーローに劣らないヒーローここにあり。

<あらすじ>
 1949年帝都。 厳しい決まりのもと、格差社会は大きく広がり 大勢の人々が貧しい生活を強いられていた。 遠藤平吉もその一人。 サーカス団員でその実力は人々を魅了した。 しかし、生きていくので精一杯の日々が続き、サーカス団にも危機が迫っていた。 そんなある日、謎の紳士から名探偵・明智小五郎と上流階級の羽柴葉子の婚約の儀式を写真に収めるよう依頼されるが、それは大きな罠だった。 濡れ衣を着せられた,平吉はカラクリ士・源治の力を借りて、新たな怪人二十面相となり,無実を証明すべく,怪人二十面相と戦うことを決意する。

<感想>
 ところどころにトリックが仕組まれた,良い意味でこの作品は二度見て,より楽しいものかもしれない。 結末は考えつかなかったものであり、もう一度見て,キーワードを一つ一つつかんで理解してから、また楽しみたい。 一度見ただけではラストに待ち受けている答えにたどり着くのは難しいかもしれない。
 “答え”を知らず、見落としていた点に気付かされるのも楽しいし、キーワードを知った上で見るのもいい。
 細部にまでこだわった映画は何度か見る必要がある。 あとで気付かされると損した感じもするが、次にどこに注目して見れば楽しく見れるかを教えてもらうわけだから逆に美味しい。
 もちろん、ストーリーやアクションを見ることに集中し、物語の中にある世界観は目に焼き付けられるけれど、一歩離れたところで見ているに過ぎない。
 二回以上見ないとわかりにくいものに作品を作り上げる作り手たちの狙いはすごい。
 本物の二十面相と平吉版の二十面相とではスタイル(タイプ)もターゲットを狙う目的も違う。 その対比がおもしろい。 本物は悪役風に描かれ、平吉の方は、ユーモアがあり、人々から愛されるヒーローそのものである。 つまり、『K-20』に出てくる怪人二十面相は、一人であって二人でもある。 タイトルにある『K-20』は平吉の扮する怪人二十面相を一つ指しているように思える。
 ものすごいアクションもあれば、コメディもところどころに散りばめられている。 そういった意味で良かったのが、まず明智小五郎に変装した,平吉が登場する場面。 明智であって明智ではないのだが、クールなイメージから外れたのがとてもおもしろく、平吉の表情が見えてくるようだった。
 命をかけると言いつつも、実のところ “死ぬのは勘弁だ”というのがありありと伝わってくるのが、とても人間らしくておもしろい。
 あともう一つおもしろいのが、葉子と明智のツーショットで,お決まりの展開である。 あくまでクールさを損なうことのない明智が葉子が(時間稼ぎのために)わざとケーキを明智の方へぶちまけようとしたところ、宙に舞ったケーキが(明智により)見事にキャッチされたところだ。 小さいけれど、ちょっとしたインパクトのある場面である。
 幸せというものや、お金や権力があることではなく,信頼できる仲間がいるということ、また,“信じれば、どんな夢もかなう”というサーカス団での平吉の師の言葉…この作品からメッセージは、登場人物の口から,また物語の流れの中で語られている。
 平吉と源治の漫才コンビのようなタッグ彼ら一人一人のキャラクターもおもしろい。 平吉の怪人二十面相との戦いを見ると、和製マスク・オブ・ゾロという感じがする。 ゾロ対オペラ座の怪人(本物の二十面相)というふうにも見えた。

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by jd69sparrow | 2009-01-16 14:38 | 映画タイトル か行

地球が静止する日

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<イントロダクション>
 絶望の予兆から始まり、希望への可能性で終わる、実に見ごたえのある,ドラマティックな物語である。 派手さがないのが逆にリアリティが増すひつの要因といえよう。 
 SF映画というのは“サイエンス・フィクション”とあるように現実的なものとしてはとらえがたいのだが、その中には必ずと言ってもいいほど、現実にとても近い何かが盛り込まれている。
 今は、宇宙へ行けるのはほんの一握りの人たちであり、多くの人間は宇宙を知らないし,その限られた人たちももまた、広い宇宙全てを知りつくしているわけではないと思う。 知らないからこそ、信じられないのだと思う。 それにこれまでに地球外生物からの攻撃により、人類が危機にさらされる話はいくつも作られている事を考えても,また、ここで語られていることを見ても いつかなんらかのカタチで世界が滅びてしまうという現実的に感じるのだ。
 いろいろな意味でリアリティが高く,また、考えさせられる。

<あらすじ>
 ある日、地球へ未知なる何かが迫っていた。 それはマンハッタンに進路を向けていた。 アメリカ国家はこの状況を世界を脅かす,緊急時代とし、その危険を防ぐべく あらゆる分野の専門家たちを招集した。 その一人がヘレン・ベンソンだった。 彼女は地球外生物の研究者(学者)なのだ。 
 そして、“何か”が地球に舞い降り その中から生命体が現れるが、“何か”を警戒すべく敷かれた軍の兵が誤って生命体に発砲してしまう。 すぐさま生命体は医療施設に運び込まれ、そこで驚くべきことが起きる。 宇宙から生命体の外皮が剥がれ、その下には人と変わらぬ姿があったのである。 彼の名はクラトゥ。 宇宙から(地球へ送り込まれた)の使者。 クラトゥの目的は“地球を救う”ことだ。

<感想>
 “人類が滅びれば、地球が生き残れる”というクラトゥの言葉はとても衝撃的だが、理屈は通っているしと考えられるため,とても印象に残っている。 恐ろしいし、それ,すなわち、人類全体に対する“死の宣告”と言える。
 クラトゥは地球の外の世界を代表して地球へ降り立つ。 “彼が地球を守るため”とやって来たのは 世界各国のトップたちが人々の平和を守るのと変わらないのかもしれない。
 クラトゥは“地球が死に掛けている”というふうなことを言う。 今、現実で抱えている環境問題などを考えると、予言めいた言葉に思えてならない。 実際、どこかの国の山々の間にあった湖の水は時が経つにつれ,干上がってきているという(それに私たちの祖先が残してきた財産でさえ、失われたり,危機にあっているという話も聞いたように思う)。
 しかし、この映画は人類の否を描いた作品ではない。 もちろん、“人類の否”が掲示されているところがあるが、それは今後の人々の課題とも言えるのではないだろうか。
 結論を先に考えると、人類の良い面を知ったクラトゥは人類滅亡とは別に、地球を生き残る(=守る)方法、つまり,“人は変われる可能性を持っている”ということを信じる。 と、いうことになるだろう。
 心に残った言葉がある。 それは“人類は危機に直面した時、変われる”という感じのもの。 本当に危機にあった時こそ,本気で問題解決に全力をかけなくてはと人を奮い立たせるのだ。 
 今はまだ先のことと言っても、いつかは何かしらの危機にみまわれると思う(私たちが)。 人がみな,危機感を持たなければ、環境問題が完全に解決されることはないだろう。
 だけど、一人一人気持ちの持ち方できっと危機を乗り越えられる、そう前向きな気持ちにさせる明るい,プラスなメッセージもここにはある。 これは、クラトゥとヘレンを始めとした,人々がよき方向へと変わっていく物語でもある。
 クラトゥがだんだんと人間味が増し、変わっていくところは物語としての魅力の一つだが,ヘレンの息子ジェイコブを巡るヒューマンドラマと、ジェイコブが最後に放った一言から伺える,彼の心の変化も然り(←それにぐっとくるものがある)。
 クラトゥの計画はあることに類似していて、そこが物語を深いものにしている。 それに加えて、あとで明らかにされるクラトゥのの真の目的とその意図も。
 キアヌが語るように、ヒューマンドラマ的な部分もあり、また,社会的な部分もあったりと、とても一つのジャンルの枠組みにははまらない。 考えさせられる映画だ。
 球体が初めてマンハッタンを降り立った時の緊迫感、地球が静止する瞬間、球体が光を放ち,(地球をバックに映して)地球から去っていく光景など色彩的に綺麗な場面がところどころにある。 また、目には見えない美しさもある作品だ。

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by jd69sparrow | 2009-01-16 13:36 | 映画タイトル た行