ドロップ

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<イントロダクション>
 ケンカの多い不良少年たちの映画のイメージがくつがえされた。 いや、そもそもそういう物語というのは殴り合いだけでなく,その中に熱いものや大切なことが込められているのだ。 ケンカの場面は迫力があるけれど、それは演出であって 重要なことはその外にある。 もちろん、ここでも“ケンカすること”が意味あるものとして描かれている。 その行為に対して、新しいとらえ方・考え方が生まれ,また 知ることになる。 いっぱい笑って最後には心動かされて、見ごたえある映画だ。

<あらすじ>
 信濃川ヒロシはマンガのような不良に憧れて,中学三年で私立から公立へ転校する。 狛江北中へと。 不良の装いでキメて狛江へやって来た,ヒロシはここの不良の一人に呼び出され、狛江北中,唯一の不良グループ四人に囲まれる。 不良のリーダー,井川達也といきなりタイマン勝負となるが、ヒロシは太刀打ちできず,あっさりKO。 しかし、根性だけは見せた。 そこが気に入られ、彼らの仲間になると同時に,晴れて“ドロップアウト”する。 
 ケンカの絶えない毎日にビビりつつもヒロシは仲間の絆と、ケンカの意味を学ぶ。 そして強くなっていく青春物語。

<感想>
 コントのような場面がたくさんある。 熱い場面や泣ける場面など,バランスよく構成されている。 だからリアルなのだ。 実際リアルストーリーなのだから、それは当たり前と言えばそうなのかもしれないが。 人生は笑ったり,ぶつかりあったり,泣いたりといろいろな刺激を受けていくものなのだ。
 ケンカの場面なのに、いつの間にか笑っている…芸人がコントをするのも,もちろん楽しいけれど、役者さんがやるのもまたおもしろい。
 まずは、達也の父親。 刑事とのからみの場面が一番面白いし、個人的に作品全体を観て、一番笑ったところである。 彼は元ヤクザで、今はタクシー運転手。 だけど、出てくる場面一つ一つがおもしろくて仕方がない。 厳格そうで意外と軽かったり,茶目っ気もある。
 私立中から、転校して来たヒロシは不良仲間たちより知識がある。 だから、口が達者なところもヒロシという人物の魅力なのだ。 また、仲間たちにつっこむところや彼らにある事を解説する方法と、そこで納得する仲間達もおもしろい。 そのやりとりの中に作り手のマニアックな知識が嫌味なく,使われているのも見所。
 ボケ・ツッコミが始めから見せてくれるという好印象は終始変わらない。 始めから流れを良い方向へと導き,ぐいっと観る側を注目させ,つかみの部分でしっかりツカむのだ。 まさにお笑いライブそのもの。 改めてお笑いの世界で輝く人たちのすごさを感じる。
 それにお笑いといのも一つのエンタテインメントであり、映画と共通する部分があるというのも、大いに納得が出来る。
 ヒロシや達也の敵,調布南中の二人組,赤城と加藤。 達也でさえ,苦戦する相手で強面なのに実は…意外と礼儀正しかったり、優しい人間であるといギャップが魅力的。 礼儀がどこまでも正しく、丁寧なのが本当に面白い。
 つかみにくも見える達也を意外とヒロシが理解している,ここも笑いどころ。ヒロシの言うことに「うるせぇ」という,達也…結果 図星なのがイイ!
 ヒロシたちと赤城たちとのバトルは絶えず,そして場所と時を選ばない。 毎日どちらかが,どちからのところへ行くというのが、律儀でその行く末が最高だ。 意外な感じで話は丸くおさまり、血の気の多かった不良たちが静まるなんて、実のところ皆が皆,表面とは違う人たちばかりで、良き親友(とも)たちどうしなのもわかる。 ただ、素直になることに不器用なだけ。
 アクションも見逃せない。 ただ殴るというものではない。 個人的には飛び蹴りがかっこいいと思った。 そして漫画のような,車に乗り込む場面。
 とび蹴りも普通のけりもいいけれど、とび蹴りは勢いと迫力が普通のもとは違う。 (普通の方もそうだが)とび蹴りをまさにキメるという直前の勢いもさることながら、キメてクリーンヒットさせた後の相手の吹っ飛び具合が蹴りのすごさをよく物語っている。 あと一つ付け加えるなら,加藤の披露するプロレス技をふくむ,技の数々。 かっこいいとしか言いようがない。
 ヒロシには実の兄同然の人がいる。 ヒデ君。 兄であり、父親のようでもある,ヒデ君はどこまでも優しく,ヒロシの一番の理解者だ。 ヒロシがバカしても許す。 ヒロシの気持ちがよくわかるからこそ怒らず,許すのだろう。 相手をちゃんと理解(見て)して許すことのできる,こんな人に憧れずにはいられない。
 “ケンカとはコミュニケーションだ”という。 達也が“ケンカするのに理由はいあらない”と口癖のように言うのだが,決して間違っていないと思う。 寂しいから誰かと話すように、ケンカすることにも同じことが言える。 彼らにとってケンカが自身の日々を充実させる。 あるドラマにも“ケンカの意味”が問われるところがあった。 そこで語られているように、大勢で一人をたたくのがケンカではないということも知っていて,最後にはもう一つの“誰かを守るためにする”という部分も描かれている。 五人と二人、誰一人卑怯者はいない。
 ケンカするのは良くないと言われるけれど、悪いことでもないと思う。
 つかみで始めから笑いをとるところが良いと言ったけれど、もう一つ忘れてはならないのがコミックが実写になった時に気になる,漫画との比較。 それは特に実写から先に見た場合である(その逆に,どのキャラクターを誰が演じるのかというのも気になるポイントだ)。
 作品のあちこちに演出されているが、漫画の絵を見せるという事というのはとても気になる。 映画の映像に行く前に“漫画ではこういうイメージですよ”とか“こういう場面が次にありますよ”という掲示というのは、とても嬉しい演出だし,上手い。 まるで、本を読んでイメージを膨らませているような感覚なのだ。
 ケンカも人としてもヒロシは強く成長していき,それがわかる終盤の場面,一番輝いていた。 たくましく男らしい(勝負の結果なんて関係ない)。
 六人のボケに対して一人(ヒロシ)のツッコミという構図が面白い。

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by jd69sparrow | 2009-03-27 11:36 | 映画タイトル た行

マダガスカル2

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<イントロダクション>
 四匹の迷子の動物達の冒険。個性豊かの四匹に加え、彼らの旅に一緒について来る脇役的動物達もまた個性的で魅力なのがこの作品のおもしろさの一つだと思う。 前回が都会から遠くはなれた未知の場所への“冒険”だったのに対し、今回は冒険というより,里帰り。 四匹のキャラクターの抱えているものが丁寧に描かれている。 コメディとしても,キャラクターを観る上でも楽しめるのがこの続編の特徴である。


<前回までのあらすじ>
 ニューヨークという都会のど真ん中にある動物園で人気を誇っていた四匹の動物達がいた。 ライオンのアレックス、シマウマのマーティ、カバのグロリア、そしてキリンのメルマンである。 アレックスは動物園の中でのトップスターで,“キング・オブ・ニューヨーク”とも呼ばれる,ちょっと自信家のライオン。 その相棒で親友,また、前向きで芸達者なのがマーティ。 グロリアは大胆かつセクシーなマドンナ的なカバ。 メルマンは病弱で気弱,そしてグロリアに密かに思いを寄せている。 彼らはある日、動物園から脱走し、ニューヨークを飛び出す。 彼らが行き着いた先はなんとマダガスカル島。 ジャングルが広がる南国の島である。 都会育ちでセレブな四匹はそこで初めて野生というのものを知り,壮大な冒険を体験する。
 そこで出会ったキツネザルでマダガスカルの王様,キング・ジュリアンやモーリスの手を借り、ニューヨークへと旅立つ…。

<今回のあらすじ>
 アレックスたちは自分たちが育ったニューヨークへと旅立つ。 何故かその旅にキング・ジュリアンとモーリスの二匹も加わった。 動物園仲間のペンギンズたちの操縦で飛行機でニューヨークへと向かうはずだったが、その途中で燃料切れとなった飛行機はニューヨークへ付く前にアフリカの大地へと不時着する。 またまた見知らぬ土地へとやって来た四匹。 しかし、アレックスだけはこの場所に引っかかる部分があった。
 アレックスは自分の両親との再会を果たし、そこが故郷であることに気づかされる。 アレックスだけでなく、マーティたちも自分と同じ大勢の仲間達に出会い,本当の故郷を知る。
 アレックス、マーティ、グロリア、メルマンはこの場所で仲間達の出会いや出来事を通し,自分を見つめなおすこととなり,それは本当の自分の発見するのである。

<感想>
 動物達が主人公の物語の多くは人間ドラマとして置き換えられる。 特に『マダガスカル2』はそれを強く感じられるのである。 人々が抱えている問題により近い…というか、そのままかもしれない。 四匹それぞれに物語があるけれど、共感というか心に響いたのがマーティとメルマンの二人の(二つの)物語である。 
 まず最初にマーティ。 マーティはユニークな技を持っており,ニューヨークでもアレックスに引けを取らないほどの注目を集めていた。 誰にも出来ない特技であり,そんな自分は特別だと思っていた。 しかし、それはニューヨークの動物園という限られた空間でのことであり、同じ仲間達が大勢いるアフリカ,つまり外の世界では違かった。 マーティの特技は“何もかも一緒だ”というこの場所ではシマウマみんなが出来ることだったのである。 マーティは強くショックを受ける。 
 私達の世界に置き換えても,ある一つのことが得意で没頭し,ある空間で注目を浴びる。 それは自信になるが、いざ別の世界へと足を踏み入れ,周りを見渡すと自分と同じ,もしくはそれ以上の才能を持った人は大勢いて,萎縮してしまうなんてことはよくあることだろう。 一つ例を挙げるなら“英語”である。 国際言語的地位にあると言っても過言ではない。 ゆえに資格を持つ人、話せる人もたくさんいる。
 あともう一つ、マーティのエピソードで印象に残るのがアレックスとの友情の絆が試される場面である。 アレックスが見た目がまるで一緒な大勢のシマウマたちの中からマーティをズバリ当てるところはとても感動的である。 一度間違いを犯してしまったアレックスはそこで一番大切なことに気づかされるのだ。 だからこそ、“内面的な目”でマーティを見て,マーティに気づけたのだと思う。
 そういう感動的な場面がこの『マダガスカル』の続編には多かった。 メルマンについてのエピソードはとてもぐっと来た。 好きな相手がいて、中々素直になれずに思いを伝えられずにいるというのはよくある恋の話だけれど,とても人間的で素直であるがために感動せずにはいられない。 大切な人のためにどれだけのことができるかというのがわかる場面でメルマンのグロリアへの思いが強く感じられ、さりげなく告白をする場面も不器用さが心を温かくする。
 コメディ的な部分でも数多く面白い場面があるのだが、注目したいのがペンギンズと最強(狂)な人間のお婆ちゃん。 ペンギンズは頭がいいのか悪いのかという際どいところにいる。 そこがツボなのである。 その可愛さから反面してずる賢さ?は人間顔負け。 でも憎めない、と言うよりも愛らしい。 ペンギンズのチームワークの良さが最高。 決してくじけないし、どこで見につけたのかモノ作りとそれを扱う力があるところがツッコミどころでもあり、魅力でもある。 個人的には“新人”が好きである。 隊長から常に“使われえる”立場なのに美味しいところを持っていくのが最高である。
 最強なお婆ちゃん。 アレックスにしてみれば天敵である。 けど、面白いことにペンギンズにとっては敵ではない。 素手を使った勝負でライオンよりも強い,そしてわが道を行くお婆ちゃん。 その強さが面白く、アレックスはそんなおばあちゃんを上手く利用して,敵を倒してしまうのもまたコントのようでまた面白い。 アレックスに対しては厄介で鬼のようだけれど,強い精神を持ち,人柄が良い一面もあるというギャップもお婆ちゃんのキャラクターのよさである。
 最後にもう一つ。 キング・ジュリアンのインチキ?(本人はそのつもりがない)が結果的に成功に終わるというくだり。 憎めない。
 笑いの要素もありつつも感動的な,人間ドラマ的な部分が強いのが『マダガスカル2』である。

『マダガスカル』の感想

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by jd69sparrow | 2009-03-19 16:32 | 映画タイトル ま行

DRAGONBALL EVOLUTION

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<イントロダクション>
 漫画『ドラゴンボール』をベースラインにした,全く新しいヒーローアクション…という印象であり、実際にそうだと思う。 登場人物だとかドラゴンボールを集めに行くことなど根っこの部分は一緒。 個人的に元々の『ドラゴンボール』が見えたのは“かめはめ波”と“ドラゴンボール探しの旅”という物語の基盤的な部分である。この二つは『ドラゴンボール』という物語の象徴とも言えよう。
 『ドラゴンボール』は詳しく知らないこともあり,ここで知ることも多かった。 とは言え、人物設定などは原作と違う部分もある。 原作をリスペクトし,新しくハリウッド世界の『ドラゴンボール』という感じ。 原作を一度頭の中でリセットして見るもの…とは言いつつも実写化になって、ハリウッド風味になるとどんなものに仕上がるのかという点を見てしまう。

<あらすじ>
 孫 悟空はアメリカの高校に通う高校生。 学校では変わり者という目で見られ、決して強い立場ではない。悟空は祖父・悟飯と共に暮らし,武道の修行をする毎日を送っていた。 ある日、悟空は誕生日を迎えた。 しかし,悟空は自分の過去を知らない。 その真実を悟飯から悟空の誕生日の夜、教えてもらう約束だったが…。 
 はるか昔に地球を絶滅の危機に追いやったピッコロ大魔王。 彼は弟子の大猿とともに,老師たちの手により,封印される。 しかし、時を経て復活を遂げる。 彼の目的はただ一つ。 地球への復讐。 それにはあるものがどうしても必要だった。 
 悟空は誕生日祝いに悟飯からもらった七つあるとされるドラゴンボールの一つをもらう。 世界に散らばるドラゴンボールを全て集めた時望みが一つ叶うという特別なものだ。 ピッコロ大魔王も己の野望を現実とするために,ドラゴンボールが必要だった。  大魔王の魔の手にかかった,悟飯の意志を継ぐべく,悟空はドラゴンボール探しのたびに出る。

<感想>
 設定においてカルチャーショックに近いものを感じるかもしれない。 洋モノ仕立てであるがゆえにだ。 ピッコロ代魔王においては、『スターウォーズ』の悪役(例えばダース・モール…プラス『マスク』での悪玉の“マスク”)という色合いだ。 だけど主人公の旅の道中で原作に存在する仲間達が次々と登場してくるのを観るという楽しみがある。 
 近未来的とは言え,それもまた実写版『ドラゴンボール』の魅力なのかもしれない。 『スター・ウォーズ』のような世界観がある。 そこに『カンフーハッスル』などで有名なチャウ・シンチーの味がしっかり足されている。“かめはめ波”。これのように日本語のままのものはそのまま残されており、なんとなく親しみやすさがある。
 そして一番の見所であり,印象深い場面はやはりピッコロ大魔王との対決。その中でもキメの“かめはめ波”はとても迫力あり。 また、その前の修行場面も中々おもしろい。 かめはめ波が完成していく過程である。 それは迫力だけでなく、ロマンティックな雰囲気もあるのだ。 そこにはティーンエイジャーらしい悟空がいる。 人間的かつ少年らしい悟空の一面だ。
 悟空、チチ(悟空の憧れの存在)、亀仙人、そしてピッコロ大魔王。 それぞれのアクション,どれもがクールでかっこいい。 特にどんどん成長し,強くなっていく悟空。 原作とまではいかないまでも,悟空がこれからはかりしれない力をてにしていくのだという可能性が実写版にもちゃんと描かれている。 続編ができるかどうかは定かではないけれど。できれば、この先スーパーサイヤ人の力を獲るところまで見てみたいものである。
 ここに込められているメッセージとして記憶に残るのが、“自分を信じる”ということ。 困難を乗り越えるためには自分自身の力を信じることが大切だということだ。 自分を信じれば、想像をはるかに超える力が発揮される… シンプルなメッセージだけど心に強く響く言葉・メッセージである。

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by jd69sparrow | 2009-03-18 23:38 | 映画タイトル た行

ヤッターマン

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<イントロダクション>
 パラレルワールドと現実との中間くらいの感じ。 でも、ちゃんど映画の中の世界は生きている。 漫画を実写化し、その背景は漫画のように繊細だがとてもリアルで、その中に人がいても全く違和感がない。 生々しい感じが監督のカラーなのだと思った。 この世界観が好きで、子供から大人までに愛されるアニメがどうなるのかが気になり,映画を見るに至った。 子供だましではなく、世代関係なく楽しめる映画。
 三悪対ヒーローの,ヒーローものアニメの王道をゆく作品でありながらも,エンタテインメントとして見られるのはアニメそのままのイメージにあった配役と作り手が細部までこだわりぬいたからだと思う。

<あらすじ>
 玩具店の息子・ガンちゃんと電器屋の娘・アイちゃんは,泥棒をし悪事を働くドロンボー一味といつも戦っていた。 ドロンジョ、ボヤッキー、トンズラーの三人組からなるドロンボー一味は泥棒の神と名乗る,ドクロベエの出す指令に毎回従い,どくろストーンを追っている。 それを阻むヤッターマンに対抗すべく、インチキ商売をやって稼いだお金でロボを作り,ヤッターマンとそのロボ・ヤッターワンと対決するのだ。 ドクロベエからお仕置きをくらわないために。
 ガンちゃんとアイちゃんは海江田博士の娘・翔子に頼まれ,どくろストーンを探しに行ったきり戻ってこない,父親を探して欲しいという依頼を受ける。 
 どくろストーンを巡り,その行く先々でヤッターマンとドロンボーとの闘いが繰り広げられる。

<感想>
 ヤッターマンの変身場面や戦闘場面のかっこ良さや、勝利のダンスも楽しいのだが どちらかというとドロンボー一味に注目をしてしまう。 ボヤッキーとトンズラーというキャラクターの濃い二人に,この人をおいて他はいないのではないかと思えるほどイメージのあう配役されているからだろう。 作り手の言葉にもあるように見た目だけではなく,中身あっての面白さが魅力的だ。 ドロンジョを含め,彼らの行動はパターン化されているのに飽きさせない。 メカを作る前に何かしら商売を始める。 それに関連付けられたメカが次に作られる。 だから毎回,彼らがどんな商売をし、どんなメカを作るのかという楽しみができる。 
 印象深いのはヤッターマンに敗れて,荒野を三輪車で走るところと、三人が歌う“天才ドロンボー”の場面だ。元となるアニメは知らないのに前者の場面が「ヤッターマンと言えば」で思い出されるというか、『ヤッターマン』らしい場面に思えるのだ。 “天才ドロンボー”の歌も『ヤッターマン』における名物場面という感じがする。 そんなドロンボーという三悪に愛着がわくのもこの作品の魅力の一つ。 ドロンジョはドクロベエに忠実で、ボヤッキーはドロンジョに一途(?)で、トンズラーは情に厚い。 三人ともドクロベエからの指令がなければ、マジメに生きていたかもしれない。 というか、(プログラムにもあるが)彼らはドクロベエに逆らわず,せっせと仕事をこなしている時点でマジメなのである。
 一方、ヤッターマンの印象に残るところとしては一号が最後のほうで二号に語るところである。 「正義とは守るだけじゃない」という。 これは翔子一人の戦いの場面でのもの。 つまり、親の子供への愛情のように 手助けすることばかりではなく、子供が頑張る様子を見守ることも愛情だというのと同じことだ。 超えるべき試練のために“勇気”を出す。 結果、翔子は“勇気”を一つ,学ぶわけである。
 ピクサー作品のような楽しみ(過去の関連作品を思い起こさせるもの)があったり、何故か現実にあるモノの名前をもじってあったりと,物語だけでなく 映像に映ってるもの隅々まで見逃せない。 
 現実にないものがリアルに見える、また,これも言葉を借りるが“毒っぽさ”があるのも作品の面白いところだと思う。 

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by jd69sparrow | 2009-03-12 11:28 | 映画タイトル や行

コーチ・カーター

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<イントロダクション>
 チームワークが必要とされるスポーツを題材にしたもの,あるいはオーケストラやバンドなど音楽をテーマにしたもので,青春ドラマは多い。 その中では何かに夢中になる子供がいて、コーチはそれをただ応援する。 子供たちを支える両親達は子供たちの将来を考え、勉強を薦める。 両立させることを言う親もいれば、子供が熱中するものに反対する親もいる。 まわりから反対されても夢を追いかけるというパターンだ。 しかし、ここではその逆である。  コーチはバスケット部の指導者であり、部員たちの親のよう。 部員達の親達はバスケットのことだけを(目の前のことだけを)応援し、それ以外の大切なことには干渉しない。
 モチベーションや気持ちの面から、まだ幼く,弱い少年達をバスケットマンとして、人間として成長させることがコーチ・カーターの仕事で『コーチ・カーター』という物語なのだ。

<あらすじ>
 リッチモンド高のバスケ部のOBである,ケン・カーターは息子が通う私立校とリッチモンド高との試合を見てから、リッチモンド高のバスケ部のコーチに就任する。 カーターは彼らを根から叩きなおすべく,やってきた,その理由は弱いチームをただ強くするということ以外にもあった。
 コーチ・カーターの指導はスパルタだが、彼の指導は的確だった。 負け続きのチームに光が見え始めた。勝利の味を知った部員達だったが、次第に本質的な問題が浮かびあがってくる。 それこそがカーターがリッチモンド高バスケ部のコーチを引き受けた理由に大きくつながるものだった。

<感想>
 カーターは一気にチームを立て直そうとはせず、ステップに沿って 少しずつ着実にチームを変えていった。当たり前かもわからないが、これがベストな方法と言える。 いち早く、チームの問題に気づき,その問題を一つ提起しただけで、チームは大きく変わった。 たった一言でこれほど人を動かせるのだからすごい。
 カーターは教師以上に教育の指導者である。 部員達の将来を考えつつ,バスケを熱く指導する。 子供の未来を気遣う親のようである。 学問がまともにできなければ、バスケをお預けだという程だ。
 勉強をし、学ぶという学生・子供の役目を,彼らの親や教師達はあきらめ,唯一子供たちが夢中になれるもの,つまりバスケしか視野に入れていない。 卒業後に待ち受けている現実を知りながらも。 子供が夢中になるものを応援するのも一つの愛だけれど、でもこれが真の愛情と言うべきか。
 部員達の問題が目立ってきた時、カーターは体育館を閉鎖した。 これに親達の誰もが異議を唱える,この場面…一見、親が子を思い,かばうように思えるが、子供を支える者たちまでもが、町の環境の悪さ同様、少し堕落しているように見えた。 カーターの厳しさの裏には愛情がある。 厳しくても、間違ったことは何一つ言っていない。
 子供が未来へ向かうのに、悪い環境を作っているのは(治安のみならず)、親や教師などの教育者自身というのが印象的。 リッチモンド高の子供たちを待っているだろう,明かりのない未来と彼らの置かれている環境を変えようというカーターの気持ちが伝わったからこそ,リッチモンド高は真の意味で強くなり、部員達は大人になったのだと思う。
 彼(カーター)の言葉を受け,部員たちは答えを返してくる。 投げられた球をそのまま返す、または力強く返す。 そしてそれ以上のものが生まれ、想像以上・期待以上のものが返ってきたとき、胸に熱いものを感じた。それは、部員たちのことを本気で考えた確実な教えであり、言葉だったからなのかもしれない。

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by jd69sparrow | 2009-03-06 17:04 | 映画タイトル か行

ヒラリー・ダフのハート・オブ・ミュージック

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<イントロダクション>
 夢を持っているのにそれを叶えるための第一歩を踏み出せないでいる。 強く望んでいるはずなのに父親の反対を押し切って前に進む勇気が持てず、胸を奥にとどめたままな主人公。 夢を叶えたいと思っても中々それを叶えられないでいる人は少なくない。 それにこの主人公のような人も多いはず。
 “ハート・オブ・ミュージック”、心の音楽。 劇中にも似たようなセリフがあるが、音楽とは自分の心で感じたことを人に伝えるもの。 そう主人公は学ぶという話ということで、こういう邦題が付いたのかもしれない。 一方、原題“raise your voice”はそのままだと“あなたの声を出して”だが、“勇気を出して”や“あなたの歌声を聞かせて”など,いくつか解釈が出来る。 主人公に足りないこと,必要なものと考えるとこちらが言葉が表す通りの物語だと思う。 と言うのも、せっかく音楽に恵まれた環境にいてもいまいち本当の自分を発揮することができず、また自信がもてないでいる主人公が大切な人たちとの出会い,そのパワーを受けて音楽の道を歩んでいく自信と勇気を得る話だと思うからである。

<あらすじ>
 テリーは歌うこと,音楽が大好きな女子高生。 夢は音楽院へ行き,音楽を極めてステージで歌うこと。 父親からは家から遠く離れた場所にある音楽院に行くことを反対されるも,他の家族、特に兄のポールからは音楽の道,夢を応援されている。 ポールは兄弟であり,親のように温かく妹の夢を応援している。 “才能を閉じ込めることなく,何が何でも音楽院に行って夢を追いかけて欲しい”、それがポールの希望であり願いだった。ある日、そんなポールと二人、ライブに出かけた帰り道交通事故にあってしまう。 自分は助かり,ポールは命を落としてしまったことに強くショックを受けるテリー。 落ち込んでいると、なんと行きたいと望んでいた学校からの手紙が届き、テリーにチャンスが訪れる。 そのきっかけを作ってくれたのが誰でもない,ポールなのである。 音楽を楽しむ妹をビデオに収め、密かに音楽院へ送っていたのである。
 大好きなお兄ちゃんの望んだことを,せっかく愛するお兄ちゃんがくれたチャンスや優しさを無駄にしないために,テリーは音楽院へと向かい,夢へ道を歩き始める。

<感想>
 音楽院にやってきてもまわりとも馴染めず,また大好きなはずの音楽も何故かうまくいかないテリー。 音楽院に進むという最初の夢をいざ叶えられたということに戸惑いや緊張感を覚えたからかもしれないし、まだ兄の死を乗り越えられないでいるのが,音楽にそのまま出ているからかもしれない。 テリーの課題は悲しみを乗り越えることと,自分らしさを出して自信を持つということで、これが『ハート・オブ・ミュージック』なのだと思う。 いろんなことが頭の中を漂い,自分らしく音楽を楽しむということを忘れてしまっている(というか出来ずにいる)。
 でもそれは、自分の気持ちの持ち方と人との出会いで変わるものだということがわかった。 時間ではなく人とのつながりが大切なのだ。 大切な人たちの言葉があったからこそ,テリーは前に進むことができるのだとと思う。
 テリーにとってポールは自分の音楽を一番に応援してくれた,また (テリーの)夢を叶えるための道を切り開くきっかけを作ってくれた大切な存在。 だからこそ失った悲しみは大きく,事故で自分だけが助かったことをとても悔やみ,それはライトが当てられた瞬間,フラッシュバックされ甦る。 そんな心の傷を負い,ステージのスポットライトを浴びて自分の力を出し切れないのだ。 ポールが望んだことはテリーが望む夢でもあり、その夢を叶え、また大切な人を失った悲しみを乗り越える話。 そして乗り越えた先に自分らしく生きる未来がある。 “自分らしく”というのが夢を叶えるための鍵。 それは自信へもつながる。 そう主人公は学ぶのであり、この映画のメッセージでもあると思う。
 いろんな人といろんな経験をし、テリーの音楽は完成していく…歌うことの楽しさを再びかみしめ,新たに自分というものを発見していく。 仲間と出会い、その仲間達と音楽を楽しみ,また作っていくという青春ストーリーもあり,映画じたいが音楽そのもので楽しめる。

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by jd69sparrow | 2009-03-05 00:00 | 映画タイトル は行

ファイトクラブ

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<イントロダクション>
 衝撃的なラスト、だけどとても美しくはかない、すっきりした感じ。 後味は悪くも良くもない。 すっと流れていったようである。 要するに、消化にいい映画である。 バイオレンスだったり、コメディだったりといろんな味を出しているが,最後には蝋燭の炎がそっと消えたように幕を閉じるのはとても良いと思う。
 デビット・フィンチャー監督作品だから…と断言ができるものかはさておき、良い意味でクリアな絵に汚しをかけたような映像がなんとも印象的で物語全体の雰囲気を演出しており、それはイコール,この映画というものを表している。 また、新聞記事のようなちょっとぼかしが入った映像にも思える。 よく、時代モノが製作される際に,衣装に汚しをつけて雰囲気を出すという方法が取られるがまさにそんな印象を受けた。
 悩みを抱えた主人公がいて、でも,その悩みは周囲から理解されない。 そして精神的に追いやられていった矢先に一人の人物が現れ,その影響で全く環境に違う世界を作り出し,無意識に足をふみいれることになる。 そして戦う。
 主人公は全編を通し,戦う。 そして自分が抱えるものへの解決法を探っていく…そういう物語だと私は解釈する。 “ファイトクラブ”、それは主人公が自分と戦うための居場所である。

<あらすじ>
 主人公は不眠症に悩まされているサラリーマン。 彼は医者から病の患者が集う会を紹介される。 それは彼とは全く関係のない病の患者たちが集まる場所だったが、不思議と彼は癒されていった。 安定した日々が続くと思っていた、マーラ・シンガーが“会”に現れるまでは。 再び辛い現実に戻された主人公が次に出会ったのはタイラー・ダーデンと名乗る,自分とは全く正反対で自由な男だった。 それから間もなくして、何物かの手により,突然主人公は家を失い,頼った先はタイラー。 タイラーと再会した主人公。 タイラーが主人公を助けるために言い放った一言は、“自分を殴れ”ということだ。 そこから、“ファイトクラブ”生まれた。
 再び癒される場所を見つけた主人公だったが、“ファイトクラブ”の会員達は増え、次第に彼が追いつけないほど“ファイトクラブ”は成長し,その活動も思わぬ方向へと暴走し始める。

<感想>
 男たちは互いを殴りあうことでストレスを発散していく。 だけどそこにはちゃんとしたルールがある。 その一つが正々堂々としたファイトをすることである。 血を吐くほどのヴァイオレンスで過激的ではあるが、それはストレス社会で生きる一つの解決策といえなくもない。 
 だが、ここでも定理はある。 何かある種の人のためのものが生まれる。 それはやがて組織化され、活気付いてくる。 そこまではいい。 だが、活気がつき過ぎ,進み続けると良からぬ方向へも行きかねない。 もちろん、全てがそうというわけではない。 ただの一つの物事の定理だ。 だが、しかし裏のビジネス的な活動と考えるとあながちこれは間違いではない…と思う。 悪い方向へと進んでいった先には崩壊が待っている。 (偏った意見かもしれないが、)ここまでの過程に多少の時差があったにせよ、いつか悪事が法の下にさらされるときが来る(つまり、悪いことをすればいつか明らかにされ,罰せられる)ということには変わりはないだろう。
 タイラーの言う言葉の数々には説得力があり,また筋が通っている。 着目する点がおもしろい。意表をつくところもあり、彼の考え方や行動は極端で過激的、だけどそれがカリスマ性を放っていて影響力がある。 彼の言葉には力がある。 それが、どんなことを指していようとも。 筋が通っていて言葉や考え方に力があるからこそ、タイラー・ガーデンという人物に魅力を感じられるのだと思う。
 ある事実を知った主人公が、その真実に向き合ったときの光景が滑稽で、また不思議な感覚だった。 真実というのは目には見えないものだけれど、それがまるで実体があるかのよう。ミステリアスだ。 
 たいてい、謎は最初に提起され、後半に進むに連れて謎が解明されていくというパターンが多いが、ここでの場合は後から後へと謎が浮かび上がっていき,終盤に差し掛かったところでフラッシュのようにぱっと,一瞬にして,というかいきなり真実が見えるのだ。 まるで閃きがきたかのように見る者は全てのことが一つに頭でつながり,「なるほど」とすんなり納得をすることだろう。 事実が明らかにされた瞬間、その場面と同じように炭酸飲料の炭酸が口の中で広がるかのように,じわじわと謎と答えがつながり、理解していくのだ。 もちろん、最初に二、三謎は挙げられるのだが。 例えば、タイラー・ダーデンという人物について。 これに関しては最初の場面から,事実が明らかにされるまで常にあった謎なのだが。
 主人公が不眠症から解消され、自由にのびのびと暮らしたいという願いが、この物語のベース。 いろいろな方向へと転がるが、またそのベースへと戻る。 主人公は自由を得るための答えを追い求め、意外なカタチではあるが辿り着く。 探していたところに。 そして見事に決着をつけるのである。
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by jd69sparrow | 2009-03-04 17:11 | 映画タイトル は行

サーフズ・アップ

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<イントロダクション>
 ペンギンといえば、氷上で生活しているイメージがある。 実際,彼らは南極で暮らすわけで、暑いところにいるというのは、これまで想像できなかった。 そんなペンギンたちが南国の島で暮らしていて,サーフィンを楽しんでいる。 常夏の島にペンギンは意外な組み合わせだが、自然に見える。
 主人公はサーファーとして大きな波に乗ること、また,憧れのサーファーに合うことを夢見ている。 そこから物語が始まる。

<あらすじ>
 コーディは幼い頃から、伝説のサーファー,ビックZに憧れていた。 コーディの故郷にビックZがやって来たその日から、コーディはサーファーを目指すようになる。 やがて、コーディは“ビックZメモリアル”というサーフィンの大会の出場者としてスカウトされ、南の島へとやって来る。 大会には長年,優勝し続け 大会を独占しているタンクのほかに、コーディと同じようにスカウトされてやって来たチキン・ジョーがいた。 大会を目指すものの,コーディのサーフィンの実力はいまひとつ。 そして、事故がきっかけで憧れのサーファーと出会い、彼は成長し、サーファーとしての実力もつけていく。

<感想>
 ペンギンたちの他にもいくつかの動物達が登場する。 ペンギンたちも何種かに分かれる。 ペンギンたちのサーフィンの大会の出場者の中に何故かニワトリがいるのが、まずおもしろい。 チキン・ジョーだ。 ジョーは主人公の傍らでなんとなく のほほんとした感じでいるだけなのに彼に関するエピソードにはおもしろいことばかりだ。 ジョーの良いところはマイペースで底抜けに前向きであるところ。 食べられてしまいそうな危機が迫っていても,気づかないし、むしろ(食べようとしている連中が)友達として自分を歓迎していると思っている…そもそも同じ鳥類に食べられそうになるというのは、ある意味でブラックコメディだ。 いわゆる,ゆるキャラだがサーフィンの腕前は確かという意外性がジョーというキャラクターの魅力である。 
 かつては脚光を浴びていたビックZがすっかり愉快なおっちゃんになっているのも面白い。 ビックZがサーファーとして輝いていた頃のように自らも,同じように憧れのそのサーファーのように,波に乗り、大会で一番を勝ち取ることがコーディの夢だった。 しかし 実際,ビックZと再会し、サーフィンを教わるうちに勝つことにこだわり続けていた気持ちが変わり始めた。  そして、勝利以上に大切なものを得る。 
 コーディーは自分が追いかけていた夢は、ビックZと波に乗ることだったのだと気づいたのだと思う。 コーディが得たもの…それは、仲間とビックZとの絆、それと波にただ身をまかせ,サーフィンをする楽しさである。 ドキュメンタリー風に彩られた青春コメディだ。

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by jd69sparrow | 2009-03-03 17:55 | 映画タイトル さ行

フォーチュン・クッキー

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<イントロダクション>
 だいぶ前になるが、日本でも同じようなドラマがあった,母親と娘の入れ替わりのコメディ。 どう入れ替わるのかという設定の部分で異なる部分があるが,理解しあえずにいる一組の親子が互いの体が入れ替わることで理解しあっていくというヒューマンドラマでもあるというところは共通だと思う。 『フォーチュン・クッキー』は意外にもリメイク版だ。 この映画の第一印象は、浅野温子が以前、主演したドラマを思い出させ、個人的に懐かさを感じたということだ。 
 ロックを愛する娘とカウンセラーで子供に少し厳しい母親の話ということで、その二人の立場が逆転するのはとても面白い設定だが、最後には心温まる充実した物語である。

<あらすじ>
 口うるさい母親に,口の悪い娘。 二人は常に口げんかが絶えない。 ロックバンドの活動に没頭する娘のアンナをあまり理解できないテスに対し,アンナもまた自分(アンナ)のスタイルを認めてくれず,理想の姿にしようとする母親にうんざり。 アンナの父親,テスのパートナーは他界し、テスは新しいアンナとハリー,子供たちの父親となる人と結婚しようとしている。 その前の新しい家族との食事会。 テスとアンナはいつものようにもめていた。 するとレストランの店員から二人にそれぞれ一つずつクッキーを渡される。 占いつきクッキー,“フォーチュン・クッキー”である。 二人が占いの御籤を開けた瞬間,地震が起き,翌朝気付くと二人は…なんと体が入れ替わっていた!! テスになったアンナは,暴走しロックンローラーのように振る舞い、アンナになったテスは超マジメで…しかしバンドのライブというプレッシャーに追いやられることに…

<感想>
 テスとアンナの入れ替わりは、レストラン店員の心遣いであり、いたずらにより起こる。 でも、それが二人の溝を埋める特効薬となる。 他にも方法はあったかもしれないが、とてもユニークな方法である。 ぶつかってばかりで上手くコミュニケーションが取れないのは互いに知らない部分があること、また正直になれないところがあるからだと思う。 二人の体が入れ替わり、それぞれ相手の視点に立って初めてその相手の気持ちや状況、どのように周りが見えているかがわかる。 “相手の立場になって考える、そして理解する努力をする”という点でとても重要なこと。 当たり前なことだけど、難しい。 理解している“つもり”となりがちだが、それではいけないのだ。 窓越しに外を見ているようなものである。 どれだけ真剣に相手に向き合えるかが大事。
 入れ替わっておもしろいのは、やはりテスになったアンナの方である。 カウンセラーをする医者で,子供の心配を常にしているようなマジメでインテリなテスがアンナ風になるというギャップが最高。 そんなアンナが終盤あたりでギターを披露するさまは,本当にかっこいいし テスの著書についてトーク番組で話す場面で語る内容ははちゃめちゃなようで説得力のあるように思える。
 原題“Freaky Friday”。 直訳すれば「おかしな金曜日」になる。 邦題と比較すると原題の方が全体を表していると思う。 邦題『フォーチュンクッキー』を本題に,また原題“Freaky Friday"を副題というのも良い…かもしれない。 が、しかし重要なのは親子が互いの目を通して理解しあうことであって,入れ替わったということやクッキーは“きっかけ”に過ぎないと私は考えている。 そのきっかけで何があったかというのが原題がもたらす意味で,この作品というものでははないだろうか。
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by jd69sparrow | 2009-03-01 11:17 | 映画タイトル は行