男と女の不都合な真実

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<イントロダクション>
 恋愛に関する男女それぞれの本音を語る映像作品というのは、私の知る限り日本にはまだないだろう。 もしくはあまりない。 少なくとも、これ程堂々と過激かつ大胆に述べるものはないはず。 また、男女問わず楽しめるロマンティック・コメディなんて、新鮮だ。 この新しい切り口と言えるこの作品ではあらゆる言葉、本音が行きかうけれど、学ぶべき要素が多く散りばめられている。 それは、現代うつしたリアルな“真実”があるからだろう。 よく主人公と自分とを重ねあわせることができる、という評価を耳にするけれど 作品を見た後、それを本当に実感できるし,考えられる。 ジェリーが語るように“普通のロマンティック・コメディ”ではない。 華やかなラブストーリーや ありきたりな話に飽きた方,また“普通ではない、ひねりを効かせた話”が好きな方にオススメな作品だ。

<あらすじ>
 敏腕プロデューサー、アビーは地方局の報道番組を背負っている。 しかし、そんな彼女の番組の視聴率は低迷しつつある。 おまけにアビーは理想が高すぎて相手が中々見つからず,仕事もプライベートも順調とは言いがたい日々。 ある日、偶然見たテレビ番組「醜い真実」。 それはパーソナリティが男の本音を言葉選ばず、ストレートに語り,視聴者と電話を用いての恋愛カウンセリングをするというもの。 完璧主義のアビーにとって最も敬遠すべきものだった。 アビーの上司スチュワートから、視聴率をあげるために呼び寄せられたのがなんと、その低俗な番組の司会であるマイクだった! 報道とは全く世界が違うところから来たマイクの出演はアビーの懸念に反して、好成績を生んだ。
 恋愛感など考えが全く異なり、意見の対立するアビーとマイク。 ついに理想の相手を見つけたアビーだが、いざチャンスをつかんだものの,中々一歩の踏み出せない。 意に反するものの,自称恋愛プロのマイクの力を借りることに。 アドバイスを受け,指南を施すという二人は思わぬところで自分の本音を知る…。 

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by jd69sparrow | 2009-09-24 15:34 | 映画タイトル あ行

劇団四季『ライオンキング』

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<イントロダクション>
 ミュージカル、映画ともに不朽の名作と言えるだろう。 そして何度見ても感動のできる作品だ。 今回で鑑賞するのは二回目、そして,劇団四季のミュージカルで一番最初に見たのがこの作品である。 劇場の扉を開けて見た景色はわりとこじんまりとした印象にも関わらず、空間を上手く利用し,また舞台装置にもかなり手が込んでいる、さらに作品じたいも映画版に劣らぬ感動があるという最高のエンターテインメントというのが私の個人的な感想である。 舞台でしか見れない数々の演出…このドラマティックな物語をライブで見るという楽しさはテレビ画面通してでは決して100%で味わうことは難しいであろう。 舞台版「ライオンキング」を手がけた演出家,ジュリー・ティモアがこだわったように着ぐるみではなく、役者の顔を見せる,パペットと生身の人との他にない演出が観る者を惹きつける最高傑作である。

<あらすじ>
 アフリカの大地、プライドランドには様々な動物たちが住んでいる。 その国を治めるのが百獣の王・ライオン。 プライドランドに新たなる命が生まれる。 それはムファサ王の子,シンバである。 シンバが次期王になるのは明らか。 けれど、シンバが王になるまでの道のりには様々な試練が待ち受けている。 ムファサの弟・スカーは自分を差し置いて王位を継承することになる,シンバを快くは思っていない。 力では王に劣るが、悪知恵に長けたスカーの策略でプライドランドは危機にさらされ、シンバも窮地に追いやられてしまう。
 そんなシンバに悲劇が訪れ、それはプライドランドにも大きな衝撃と打撃を与えた。 その責任が自分にあると思い込み,それがトラウマとなったシンバ。 王になる定めにあるシンバは、そのトラウマに苦悩し,葛藤しながらも成長し,乗り越えていく…。 単純に言えば、シンバが王になるまでの話である。

<感想>
 前回の鑑賞から四年くらいになる。 四年経った今でも、一番印象に残るのがこの作品の最大のテーマである,“サークル・オブ・ライフ”(生命の輪廻)である。 観客席を含めた劇場全体が舞台であることを感じさせる最初の場面だ。 映画でもとても印象的なところ。 ライフィキの第一声で一気に観客は「ライオンキング」の世界に入り込むことが出来る。 そして、あちらこちらで歌声が加わり,響きわたる。 この冒頭からのライブ感がなんともたまらない。 間近でその,工夫に工夫が重ねられた動物たちを見ることができる興奮は見終わった後も冷めやむことはない。 
 まず最初に言えるのが映画のコピーではないことだ。 話の大筋は同じだけれど、作り手の解釈により,よりドラマティックかつ深い内容に生まれ変わっている。 最大の違いはキャラクターの見せ方。 ミュージカルなのだから、当たり前と言えるかもしれないが,先も触れたように役者の顔が見れるのが,舞台版の楽しみ。 これがあるからこそ、子供から大人まで楽しめるのだと思う。 もしも、着ぐるみで構成されていたら 思い切り,子ども向けのショーになっていたことだろう。 個人的には、衣装やパペットももちろん,魅力的なのだが 毎回どんな役者がどのように演じるのかが楽しみなのだ。 その理由は演じ手によって違う味が出されるからというのはもちろんなのだが、スカー役の方がムファサを演じるという一例が見受けられるからだ。 現実にそれを味わうことができた。 役が違えば、発声の方法も異なることだろう。 タイプの違う,ムファサとスカーであれば尚更、その声の出し方をどう変えてくるのかという楽しみができる。 また、シンバの印象的な一こまとして挙げられるであろう,最後にプライドロックで叫ぶあの名場面も役者さんによってどんな風に聞こえてくるかという期待感も持てる。
 アフリカをよく知らない素人が言って説得力があるかどうか定かではないが、音楽から舞台のセットまで映画以上にアフリカを感じさせるものがある。 特に音楽。 これは完全に舞台版にしかない味。 調和の取れたハーモニーが異国の空気を漂わせる…。 かと言って、映画が劣るわけではない。 
 舞台装置。 プライドロック、像の墓場、ヌーの大群が押し寄せる峡谷、ジャングル…とあらゆる場面で次々と変わる舞台セットは数多くある。 この装置の数々がどう収められているかも気になるところだけれど、場面の変わる一瞬の間にどんなふうに動かされているかというのは想像は難しいけれど,何気ない場面一つにしてもたくさんの人たちがせわしくなく動いていると考えるとすごい。 プライドロック一つにしても、誰が回転しつつ舞台の下から登場すると想像しえただろうか。 製作の課程の書かれたジュリー・ティモアの著書にもあったが、映画のようにカメラで映し出されているかのような工夫がここに見られる。 他にもそういった場面が多々あるようだ。 象の墓場の場面での、象の骨の装置は丸み帯びた階段という印象を受けたが、それだけに留まらず 他にも仕掛けがあるし、ヌーの峡谷の場面での,ヌー大群の表現方法もさることながら,舞台を隅々まで使って表現されている。 どの場面にもあらゆる仕掛けがある。
 ダンスと言っても、様々な種類のもがあったけれど 一番印象に残ったのがハイエナのダンサーたちが舞台の中央で踊るモダンなダンスである。 バンザイやシェンジといった主軸のハイエナとは違ったスタイルのハイエナたちが,まるでストリートダンスかのようにかっこ良く舞台を彩るのである。 ハイエナというキャラクターじたいがとてもリアルに表現されているし、映画版のトリオを見ているかのようだ。 それに役者自身の表情の豊かさもよく見える。 
 衣装にも注目したい。 シンバとナラ、ムファサとスカー(とサラビ)との違い。 最大の違いは重量感。 シンバとナラはアクションが多いこともあってか,かなり動きやすく,ムファサたちに比べるとかなり軽量化されている印象だ。上から下まで。 このような言い方が適しているかはわからないけれど,年の功と若さという違いからくるものだとも考えられる。 頭にかぶるパペットはその役者が演じる動物を表す一番象徴的なものだと思うが、衣装にも作り手のその動物を表す意図が隠されていることを初めて知った。 尾はすぐわかるけれど ライオンの腹の部分の色合いにまで工夫がされているのに驚いた。 もちろん全体的な色もそうだが、細部にまでこだわって衣装がデザインされていると聞くとそこにプロのこだわりを感じる。
 シンバが子供から大人に成長を遂げた,初の場面も好きな場面の一つなのだが、その他にもいくつか印象的な場面がある。 シンバに王としての素質が目覚める瞬間とその課程、そして王となってプライドロックに上る場面などなど。 王の証が手渡され、プライドランドに響き渡る叫びをあげるが美しい。 
 自分が王になる存在だとうことを信じられない、過去を乗り切れずにいる…これは子供から大人へとなる私たち人間をそのまま投影した場面(これもどこかに記述があったかもしれないが)と思うととてもリアリティがあると思う。 
 生命の輪廻について考えてみる。 映画にもあったようにライオンがシマウマなど草食動物を食べ,ライオン
が死んだ後,その大地から生えた草を草食動物が食べるというような生命のサイクルもその一つであり、王の死の後、その子供がその王位を継ぐというのもその一つ。 一人(一匹)の王が誕生し、そしてその王から次期王が生まれるというサイクル、一つの命があらゆる生命ののもと成り立っているという仕組みなど“生命の輪廻”は作品の随所で表現されてる。 それらが私たちに語ることは今ある命は,様々な生命の輪廻のもと,成り立っている,大切なものなのだということだろう。
 舞台版「ライオンキング」が公開されるまでには作り手たちの激しい戦いと苦難があったそうだ。 ムファサの頭一つにしてもかなりの試行錯誤が重ねられたとのこと。 一つの作品が出来上がるのに,いかに苦労があるかを考えるともっとよく端から端まで見なくてはと思う。 不可能を可能にするというのが,今の時代に与えられた課題なのだろうか。 まさに舞台版「ライオンキング」の製作過程を読むとそんなふうに受け取れる。
 この先も変わらぬ楽しさを期待できることだろう。
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by jd69sparrow | 2009-09-17 22:53 | ドラマ・その他

ウルヴァリン X-MEN ZERO

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<イントロダクション>
 “アメコミの映画化の先駆け”と聞いて驚きの後に、納得できた。 シリーズ第一作が公開されたのは2000年と、十年近く前。 それ以降 数々のアメコミのヒーローが脚光を浴びてきた。 そしてそのスピンオフが主人公にスポットライト当てているという意外というの指摘にも頷ける。 ウルヴァリン。 確かに彼の活躍はひときわ目立つため、主人公と考えられるのだが 実際、これまでの三部作は主役争い的でもあった(これも解説にあったが)。 『X-MEN』は一作目から…というか最初からヒーローたちには力があるというのが他にはない『X-MEN』ならではの特徴と言えるだろう。 それゆえに,それ以前の過程は謎のことが多い。 
 そもそも“ウルヴァリン”という名がどのような由来からくるものか、ということが明かされる。 それはとてもロマンティックなものである。 アクションのみならず、他のあらゆる面で楽しめることだろう。
 『ウルヴァリン』はミュータントと呼ばれる特殊能力を持つ人々からなるプロフェッサーXにより集められたX-MENという名の組織の先頭を立つ,ウルヴァリン誕生の秘話を、能力覚醒からX-MENへの加入に至るまでを過程を語る物語だ。

<あらすじ>
 18世紀半ば。 ある呪われた運命を背負う一人のミュータントが誕生(覚醒)する。 彼の名はジェイムズ・ローガン、後のウルヴァリンである。 少年時代、悲劇により真実を知ったローガンは幼心にはあまりに衝撃的な事実から逃れるべく、兄のビクターと共に150年間 ずっと戦地で過ごす。 そんな彼らの元へ謎の男,ストライカーが現れる。 彼は二人に言う、「本当の意味で国のために働かないか」と。 兄弟はストライカーが統率するチームに加わり、任務をこなすが その行為に疑問を感じたローガンはチームを脱退。 しばしの平穏な月日が流れる。 しかし、平和な彼の日々もそう長くは続かなかった。 愛する人を奪われたローガンは その元凶であるビクターを倒し,敵討ちを決意する。 そして、ビクターを倒すための力を授けるというストライカーの申し出を引き受けるのだった。 それはストライカーの陰謀の余興に過ぎなかった、さらにその直後にまたや,愛する人たちをストライカーたちにより奪われた。 復讐心に火のついたローガンはウルヴァリンと名乗り,彼らへその復讐を果たすべく戦う…。

<感想>

※ネタバレにご注意を!※

 冒頭からいきなりの衝撃を受ける。 この衝撃的かつ悲劇的な出来事がその後の彼の運命を表しているかのようだ。 というよりも“始まり”だったのだろう。 少年時代から始まるわけだが、意外なのがローガンが覚醒前は病弱であったということだ。 戦争・戦いは人を変える。 ローガンは持ち前のパワーと拳から出る長い爪を武器に強く成長する。 ミュータントである彼は兄と同様、化け物と恐れられるけれど人間らしい優しさは、持ち続け,それはいかなることが起ころうとも変わることがない。 その温かさがビクターと大きく異なり、長所でもある。 少々乱暴ではあるものの、心は人間そのものなのだ。
 ストライカーは自分が考える正義こそが、正しいと思い込み,彼の行く手を阻む者は排除するという考えの持ち主だ。 一つの考えに捕らわれている。 これを作り手は“聖戦”と表現しており、それはまさにその通りと言える。 とてもリアルに感じるのは、現実に相違することが存在するからだ。 “正しいことってなんだろう?そもそも正しいとされることはみな,正しいものなのかなど,一個人や一部の人々が理解し得るだろか?”というのは現実的な問題であり、それを掘り下げるときりがない。 
 現実的に考えると、その思想はマスメディアにより目に見えるものもあれば、あちらこちらで隠れているような気がする。 そう考えるととても恐ろしい人間の側面であると思う。
 この人物により人間兵器を生み出すことを考えれたわけだが、今は非現実的だが 遠い未来に現実になりうる気がしてならない。 映画の中で起こるそういう出来事は未来を予知しているように感じる。 その人の命はその人のものなのに、他人によりロボットのように操作されるのはとても悲しい。 デッドプールという存在がそれにあたるのだが、その初登場の場面で正体が明かされた際はなんとも皮肉だ。 生身の体のはずなのに機械に等しい。 けれど人には人を完全に支配しきれない。
 物語の最後、結末でローガンは『X-MEN』シリーズのウルヴァリンとして完成する。 その前までのローガンの消された記憶が意図的に作られたものかもしれないという指摘があるけれども 個人的には本物であると信じたい。 一番人間らしかった,また人のぬくもりの中にいた頃のローガン。 それがまがい物だとしたらあまりにも悲しすぎるし、そうでなくても 温かい記憶が失われて,再び孤高へ帰ってしまうわけだから悲劇である。 多くのミュータントが人間としての平穏な暮らしを望んでいるだろう。 それを阻むものがいて、これが人種問題という社会問題にリンクする点はリアリティがある。 ローガンの人生はミュータントしての目覚めのとき,少年時代からその波乱に満ちた人生が始まっている。 愛する者たちの命が奪われ、幾度となく悲しみを味わう、けれど悲しみにおぼれることなく前に進むという心の強さがウルヴァリンの強みで,その後も持ち続けるパーソナリティなのである。
 ストライカーの策略のもと、手にした鋼の爪。 これまでにない力を手にしたウルヴァリンは最強だ。 力をてにしたばかりの彼は少年のようで、コメディチック(コント?)な場面が垣間見れるのが,様々な味に満ちた作品のスパイスの一つなのだと思う。 ウルヴァリンの力が覚醒した瞬間,人の力では簡単に倒れないとわかったあの,怒りがこみあげていて,液体状の能力を持つターミネーターに弾丸を撃ち込むことのごとく,相手の攻撃を跳ね返す場面はウルヴァリンが悪役のようにも見えて,カッコいい。
 さらにパワーアップしたウルヴァリンの力が証明される場面がある。 ガンピットの登場場面だ。 以前の自らの骨の爪とは違う,切れ味が発せられ、その他にも爪を応用した一撃を食らわす場面もまた然り。
 ガンピットもその初登場場面から印象深く、力をいろいろな媒体を使いチャージし,多様な方法でその力を発揮するところがウルヴァリンに負けず劣らずである。 しかも、かなりの美味しい場面を持っていっており,まるでウィル・ターナーのようだ。
 今回もまた前半からミュータントの様々な能力が見れる。 そのどれもがやはり,主役級ばかりで サイクロップスの力を見るときはシリーズは既に見たはずなのに、先取りした気分にさせられた。 おそらく、この「X-MEN ZERO」から見た方にはそうなりうるだろう。
 アクション、ヒューマンドラマ、(微妙に)コメディ、そして社会問題と様々な要素がある『ウルヴァリン』。 「X-MEN」シリーズとは違う味(例えば、老夫婦との場面)を出しながらも、面白さや完成度がシリーズに劣らない従来のスピンオフを超える作品だ。 だから視覚的だけでなく,内容的にも楽しめるし,もう一度シリーズ通して見たくなるような要素がふんだんに施された最高傑作だと私は思う。 

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by jd69sparrow | 2009-09-14 23:19 | 映画タイトル あ行

Disney's Halloween in TDS

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 ディズニーシー初のハロウィーン・イベント。 これを見逃すわけには行かないと思い、行ってきました。 学生時代よくこの時季にランドのハロウィーンイベント行った…というか、今まで一番この時季にランドに行くことが多かったように思う。 今回、シーに行ったのはランドとは味の違うハロウィーンだということと、ただ単純に“ハロウィーン”というイベントが大好きだからだ。 だから、大学時代の英会話の授業でやったハロウィーンパーティはとても楽しかった。 西洋の国ではこちらの節分などの行事のように当たり前なことなのだと思うけれど、全く違う文化を味わうというのはとても新鮮なものだ。 そこでは、様々な衣装に着替えたネイティブの先生たちのもとへ行き,ゲームをしてお菓子をもらうというパーティをした。 
 それ以来だろうか。 ショッピングモールなどに行き、雑貨屋さんの店頭にハロウィーングッズがあると,自然とお店へ向かっている。 なぜハロウィーンが好きなのか。 いろいろ理由はあると思うけれど、やはり一番といえるのが“ジャック・O・ランタン”だろうか。 様々なジャック・O・ランタンが見れるし、そのどれもが可愛いものばかりである。 うまく言葉には表せないけれど、どのデコレーションもとても綺麗だ。

 ハロウィーン・イベントの開催一日目。 ちょうどこの日に休みだったため、行くことにした。 とは言っても、前回シーに行ったのが二ヶ月ちょっと前と最近だったため,イベントだけ楽しむために。 つまりは、ハロウィンのショーとパーク内に施されたデコレーションをカメラにおさめ、さらにハロウィーン限定のお土産を手に入れるということ。 だから、そんなに長居することはないだろうと思っていた。 が、しかし。 ディズニーの魔法にかかったということなのか、実際いたのはなんと7時間。 乗り物を一切乗らなかったのにも関わらず,それだけの長時間いるというのは,そうとしか言いようがないだろう。

 開園時間を過ぎてから行くことをあらかじめ,決めていたとは言え、十時半からのショーに間に合わず,舞浜の駅に着いたのはなんと十一時近く…。 次の別のショーを見るにしても時間があまったのでイクスピアリに行くことにした。 イクスピアリは今までに一度くらいしか行ったことがなく,しかもまともに歩き回ったことはなかった。 ショッピングモールから映画館までぐるぐる回った。 もちろん、ディズニーストアも。ここのストアはやはり他の店舗とは違う。 ハロウィンのガチャガチャなど初めてだ。 映画館とリンクしているのもなんだかいいなぁと。 映画のエリアは一つの町並みのようだ。
 ストア以外にもいろいろなお店があって、まるで異国にいるかのような味をかみ締められる場所が多々あり,思わずカメラを握った。 天気にも恵まれて,写真に映し出された風景はエキゾチックだった。

 そして、初めてディズニーリゾートラインに乗車した。 普通の乗車券一つにしても色が異なったりとか,デザインが凝っているし、電車の車体もその内部も最高だ。 ただ、一日券を買わなかったことにとても後悔している。 もしまた、乗れる機会があるのなら一日券にしよう。 一日券が良いことに気付いたのは電車に下車した後だったのだ。
 切符。 会社ごとに様々だが,私は電車の切符にとても興味がある。 東京メトロやゆりかもめのとてもデザインチックなのが特に。 ディズニーリゾートラインもしかり。 出来ることなら保存したいくらい。 全国各地にはきっとこのようなものがまだまだあるに違いないと思うと興味がそそられる。 

 開園時間が過ぎているにも関わらず、ちょっと列が出来ていた。 ゲートを通り,地球の噴水がある広場を抜けてその先にある、入口…ハロウィーンの垂れ幕?を見て期待で胸が膨らんだ。 そこからカメラを手放すことは出来なかった。
 ミステリアス・マスカレードの抽選の列に並んでいる最中でさえも。 平日だけれどそこそこ人は入っており、抽選会場の列はパークに入ってすぐの橋?のところからタワー・オブ・テラーの方にまでのびており,景色を楽しんだり,『ワンピース』を読みつつ,時間をつぶした。

 結局抽選に外れたが、会場外からでも見えたので良かった。 爪先立ちして,カメラを片手に持ちながらその場に立つのは辛かったけれど,デジタルカメラの性能のよさに感謝だ。 途中からだが、ミステリアス・マスカレードを見て、キャラクターグリーティングとマスカレードダンスも見れた。 
 お昼はスーベニア付きデザート二種類だけしか食べれなかったけれど、夢の国にそんなことは関係ない。空腹など忘れさせてくれるのだから。
 あとは、パーク内のあちこちのハロウィーンのデコレーションを取り捲った。 二回目のミステリアス・マスカレードを見る頃にデジカメが電池切れになってしまったので使い切りカメラを買ったほど写真を撮った。 おそらくは百枚近く撮ったことだろう。

 一眼レフカメラを持参していた人は多かったけれど、その中で驚いたのは女性が目立ったということだ。 一人で来ているのか二人で来ているのかは定かではないけれど,かなりの気合が入りようである。いろいろな角度から撮っているようだった。 恐るべき?,ディズニーファン。 お土産ショップの中でも写真を撮っている人がいて、商品にまでカメラを向けていたのには驚いた。 個人的に撮っているのだとしたら、いいのかよって思うけど。

 いつものことだけれど、お土産を買う時の私のお財布の紐は、かなり緩い。 軽く万を超える。 マスカレードマスク、キャンドル、ピンバッジ、絵葉書、Tシャツ、8周年グッズの置物と葉書、長袖の服、タンブラー、エコバック、写真たて、ミステリアス・マスカレードのCD…そんなところだろうか。 後は人にあげるお菓子類。 かなり買いすぎなのは百も承知だが,何故か買いすぎてしまう(汗)

 お昼前には入場し、出たのは夜の七時ごろ。次は出来れば、ランドに行きたい。
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by jd69sparrow | 2009-09-10 20:00 | ドラマ・その他

グッド・バッド・ウィヤード

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<イントロダクション>
 直訳すると「いいモン、ワルモン、へんなの」となるだろう。 三人の登場人物の役割を表した実にシンプルなタイトルである。 プログラムの言葉にもあるようにストーリーを追っていくとこの三つ混同する。 つまりは、三人の登場実物それぞれにこの三つに分けられた役割全ての特徴が見られるのだ。 単純に分けられたものではなくて、三人が持つ特徴を表したのがこのタイトルの言葉なのだというふうにも考えられる。 アジアを舞台にした西部劇。 銃撃戦やど迫力な場面・アクション満載のエンターテインメントであり、ある一つの地図を巡り,三人の男たちはぶつかり合い、一つの到達点へと向かうという物語だ。

<あらすじ>
 荒野の真ん中を駆け抜ける蒸気機関車。 そこには激しい争いの火種となる“地図”があった。 何も知らずに強盗しに現れたユン・テグは金となるものを地図もろとも、盗み出す。 その直後だった…三人の男たちの戦いが始まったのは。 賞金稼ぎのパク・ドウォンとギャングのボス,パク・チャンイ、そしてコソ泥のユン・テグ三人は地図が指し示すであろう宝を追い求め,死闘を繰り広げる。 まさに“追いつ、追われつ”で彼らの生き様がここにある。
 そして、最後には意外で衝撃的な真実と展開が待ち受けている。

<感想>
 物語に複雑さはなく、ただ性質の全く異なる三人のはちゃめちゃぶりを楽しむのがこの物語の狙いのようだ。性格も近ければ、戦い方も違う彼らだが、使う武器はみな,銃だ。 西部劇なのだから当たり前かもしれないけれど。 この中でユン・テグだけがマヌケで戦闘能力がないように見えるが、侮るなかれ。 三人が三人と強く、弱い者など一人もいない。 単純な話のようで、そうでもないと感じられる部分もある。 それは最後の結末を知ればわかる。 最後に語られる真実を見ると物語を再び見たくなる。 
 ユン・テグはチャンイを追う,ドウォンの間に立ちはあだかり,騒動を起こす…というかこじらせる道化のような存在という印象を受ける。 実際そんな部分もあるけれど、ところどころで謎をふりまいている。 マヌケそうで実は強いというところも彼の魅力の一つだが、敵の倒し方が珍プレーなところも一人で盛り上がって話し続けるところも面白い。 実にコミカルなのはユン・テグという人物的にも言えるが、ハングルの言葉もまたしかり。 ころころと転がるようにその口から出てくるハングルの言葉の響きを聞くだけでも飽きさせない。 アメリカのギャグ漫画に出てきそうな感じもする。 インディ・ジョーンズなみに帽子にもこだわる点もユン・テグの面白いところで漫画を見ているかのような場面もある。 しかし、一番いいのは底抜けに前向きなところだろう。
 ユン・テグが中心的に描かれているとは言え、他の二人もそれぞれ確かな存在感を出している。 チャンイとドウォンの共通点は多くを話さず、クールなところ。 違うのは目的を得るための方法・やり方。 
 チャンイは仲間さえも殺すことに抵抗なく、残虐な男。 しかし,やはり悪役といえど魅力にあふれていることは否めない。 1930年という時代設定の中の人物としては現代的なのだけれど、チャンイの放つカリスマ性は惹かれずにいられまい。 脅威に満ちたその笑顔でさえ、セクシーで銃とナイフのコンビネーション技はクール、そして銃さばきが西部劇でよく見受けられるガンマンそのものである。 ユン・テグも相当な生命力の持ち主だが、こちらも不死身さをにおわす感じが最高だ。チャンイに呼び名をつけるとしたら“暗黒の貴公子”とでもつけられそうだ。 チャンイは何故これ程までに極悪非道なのか、そこが彼のミステリアスな部分だ。
 ドウォンはルックスなど何から何まで西部劇のヒーローである。 しかし、金に執着する部分があり、また冷淡なところもある。 他の二人より一歩ひいたところにいながらも、美味しいとこどりだ。 アクションが一番だいたんで常に冷静で先を読んでいる。 確実な手段を常に選ぶ,慎重かつキレのある人物だと思う。 ロープを使った広範囲に攻撃をしかけるアクション、そして何よりライフルを使い確実に敵を狙いを定め,無駄な弾は使わない技術力の高さがなんともかっこいい。 
 三人に共通しているのは銃の使い手である以外に、謎めいた部分があるということが一つあげられるだろう。それが彼らの魅力である。 彼らが思うこと。チャンイは常に自分が最高に強くあること、ユン・テグは戦いはなるべく避けて平和に暮らすこと、そしてドウォンは…というとここが謎である。 でも、その夢を語ろうする表情は明るい。 謎のままにした方が良いこともあるというが,しかし、個人的には気になる。
 冒頭から映像的に綺麗で爽やかに始まり、始めから終わりまでその迫力に満ちている。 それを効果的に演出し,表現しているのが“音楽”だ。 ウエスタン、つまりはラテンのリズムが三人をよりかっこ良く演出しているという風だ。 それはここぞという場面や作品の世界へ一気に引き寄せる効果音。 もちろん、途中途中で流れる音楽も物語をサポートしているし、ユン・テグらしいコメディチックなバッグサウンドも他にないものがあると思う。 少なくとも日本では中々聞かない?のではないだろうか。
 “無茶苦茶”というのを売りにしているとは言え、最後に明かされる真実や主人公たちの持つ謎を考えると物語的にも面白いし、映像も音楽もそして絵的にも綺麗で様々な角度から見て楽しい。 近未来映画が多いからこそ、西部劇というのはひときわ新鮮だ。 銃撃戦というアクションの王道は観る者を確実に惹きつける力がある。 様々な西部劇が見たい。 西部劇のもと,西洋のものも また再び見てみたいものである。

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by jd69sparrow | 2009-09-03 18:33 | 映画タイトル か行

20世紀少年 <最終章> ぼくらの旗

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<イントロダクション>
 作り手側の言葉によれば、「“ともだち”が誰なのかより、“何”なのか」という方が作品のポイントのようだ。 とは言っても、“ともだち”が誰なのかというのは誰もが気になっていたはず! その全ての謎の答えがついに明らかになる。 主人公ケンヂたちの子供時代の出来事が、“ともだち”へとつながっていく… 歳を経ても“ともだち”へ立ち向かい,脅威から人々を救おうと戦う オッチョやユキジたち,はらっぱの仲間達、そして力を増していく“ともだち”。 彼らの戦いに今、決着がつこうとしている。
 映画は最後の最後まで見るもの…エンドロールが流れても最後まで席を立たないで!となると、その最後の部分に大いに期待がかかる。 大々的に謳われてなくても劇場が明るくなるまではとどまっているべきだと私は思う。

<あらすじ>
 ともだち暦三年。 “よげんの書”、“しん・よげんの書”が現実となっている。 細菌兵器は世界中にばらまかれ,大勢の人間が犠牲になった。 “神”となった“ともだち”は思いのままに東京を支配している・・・、いや世界と言うべきか。 東京は大きな塀の中にあり、まさにその場所だけが隔離されているかのよう。 オッチョは漫画家と共に東京への塀を乗り越えた。 そこで彼らが見た東京は数年前とはまるで違う姿だった。 オッチョが過ごした少年時代の東京、まるでタイムスリップしたかのようなものだったのだ。 ともだち暦が来て、東京は“ともだち”の手で姿を変えられていったのだ。
 一方、カンナも氷の女王と名で知られ、“ともだち”へ反旗を翻す武装集団のリーダーとして動き、また,ヨシツネも源氏一派を率いて,“ともだち”に抵抗している。 “ともだち”のもとへ集まる者もいれば、そうでない者も大勢いるのだ。 後者である人々の希望はケンヂの“あの”歌だった。 放送されていないはずのラジオ局から流れてくるその曲が。 
 大勢の人の命が失われた今、無謀に攻撃することよりも,生き残った人々を一人でも多く守ることを知ったカンナと、オッチョやユキジ、はらっぱの仲間達は最後の戦いへ挑む。 そしてある男が、ギターをかかえた男が東京へと向かっていた。

<感想>

※ここからはネタバレになるかもしれないので、ご注意を!

 “ともだち”はこの物語の登場人物だけれど、現実に置き換えても それにつながる何かが多く存在していると思う。 パンフレットにも書かれていたことだけれど、確かに“ともだち”の生まれる過程には社会的な問題がからんでいると思う。 そもそも“ともだち”が生まれたのはケンヂたちの少年時代のある出来事によるもの。 それはいつの時代にも起こりうることである。 子供のときにやったこと、だけどそれは時に危険な何か生んでしまうことへもつながるのだ。 昨今、いろいろな事件が起こり,その犯人たちの過去にはいろいろな背景がある。そう思うと“ともだち”が受けた過去というのは他人事とは言い切れない。 映画のような“ともだち”そのものとは言わないけれど、それに近いものを作リ出されてしまうのは私たちが生きる社会の大きい問題だ。 
 シリアスに話が進んでいく一方で小ネタもところどこに隠されていて、面白い。 パロディだったり、小ボケであったり…など様々。 例えば、地球防衛軍の服がどうしても『ウルトラマン』の隊員の制服を連想させたりなど、とういうかそのようにしか見えない。 登場人物のネーミングそのものや、名前がつけられた理由など。そういったものははっきりと掲示されるものばかりとは限らない。 それは背景に何気なく隠されていたりもするものだから、そういった意味でも おさらいをしてみたい。
 時は2017年となり、ケンヂたちの少年時代は70年代。 月日は流れ、ケンヂやオッチョたちはもう還暦がすぐ近くまで迫っている。 その色は登場人物一人一人を見れば伝わってくるけれど 年齢以上の力を彼らは持っている。 心はまだ,ともだちとの戦いを決意した時のままという感じ。 ケンヂとオッチョは六十近くには見えない。 二人は体を張る場面が多い。 設定のわりになんでそこまで動けるのか?というツッコミは不要だ。 それこそがいいのだから。 特別な能力は何もない。 だけど、その勇気一つで強くはなれる、また人に力にだってなれるのだ。 ケンヂやその仲間達が私たちに勇気をくれいているような気がする。 彼らにはそれぞれ背負うものがあり,守るべきものがあったりとそれぞれに人生がある。 でも、向かうべき道は皆、一緒だ。 それは人類に再び平和を取り戻すことだ。 彼ら一人一人違った方法で。 
 “ともだち”を良く思っていない人々だって大勢いるはずなのだけれど、それが目に見える形で現れるとこんなにもたくさんいるんだなと、まるで見ている自分がその場所にいるかのように驚いた。 また、意外な味方がいたり。 第一章では はらっぱのメンバー達がいて、ともだちがいて…というふうに『20世紀少年』の世界はこうなんだ、というふうに描かれていて,その中でいろいろなことが起こっているというのがほとんどに思えた。二章では“ともだち”の信者が続々と増えていて、不気味な世界が広がっていた。 そして続く、この最終章では“ともだち”信者よりも、ケンヂを信じ,希望を託す人々が目立つ。 “ともだち”と言えど、その力が絶対ではないということだ。 よくよく考えてみれば、“ともだち”も一人の人間なのだから それは自然なことかもしれないが。
 過去が甦ってくる… “ともだち”が生まれるまでの過程がしだいにあらわになってくる。 つまりは真実へと近づいてい来る。 だけど、三部作を見通さないと答えはそう容易には出てこないし、“ともだち”の正体も最後、明確に出されるまでははっきりとは断定できないという作りになっている。 そしてその前にも仕掛けもあるから侮れない。 
 “ともだち”は次第に謎めいた存在から、少しずつ人間らしさが見え隠れしてくる。 そして、本性もが浮き出てくる。 彼は少年時代の心が大きい。 むしろ過去に傷を受けたその時のままという方が正しいのだろうか。しかし、指導力を持ち,大勢の信者を作るという人を動かす力を持っている。 それが恐ろしい点である。 たとえ、細菌兵器をばらまき、人の命をたやすく奪ってしまうという非道な人間でも人の上に立ってしまう。 つまりは、人を動かす力さえあれば、どんなに残酷な人間であっても,恐ろしいもの(・集団)を築き上げてしまうということだ。 これは現実にもありうることではないだろうか。
 ケンヂはキングマートで働いていたあの頃から見ると別人の如く、変わり勇者そのものだ。 死をも恐れないという感じ。 それはオッチョにも言える。 シリーズを通して一番アクションの見せ所が多いのはオッチョだと思うし。 二章では主人公と言っても過言ではなかった。 という主人公だろう! 将軍というあだ名にふさわしいくらいの戦いぶり。 どこを見てもかっこよくてクール。 あれほど、パワフルに戦える58歳がいたらすごいなぁと思う。 武器を持たせれば、武器と一体となり 戦士となる。 一章からしだいに渋さが増していき、と同時にかっこいい見せ場も出てくる。 カンナの実の父親は存在する。 だけど、本当の意味でそうと呼べるのはケンヂ。 ケンヂが第一の父親ならば、オッチョは第二の父親。 映画の中で見ると、一番長くいたのはオッチョだから、オッチョの方が…なんてふうにも考えられるけど、比べるものではないだろう。 カンナの親は“ともだち”と戦ったはらっぱの仲間達みんなだ。
 “ともだち”の行ってきたことは残酷なことばかりだ。 しかし、“ともだち”の過去,少年時代のある出来事は彼を大きく変えてしまった。 それはあまりに辛いものだ。 ある一人の勇気さえあれば彼の未来はきっと変わっていたことだろう。 
 とても気持ちのいい締めくくりだと思う。 最後の最後でこれほどまでに時間をかけ,そしてすっきりとしtものに,また観る者を納得させる終わり方は最高だ。 作り手たちがいうように物語のメインとは味が違い、控えめなトーンで爽やかな空気の中で幕が下りる。
 様々な謎が解明された今、やはり第一章,物語の始めから復習をしたくなる。 隅々まで描写を見て謎とその答えを見たい。

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by jd69sparrow | 2009-09-01 21:39 | 映画タイトル な行