Dr.パルナサスの鏡

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<あらすじ>
 ロンドンの夜。 街に,少し時代遅れのように思えるキャラバンが止まる。 すると それはたちまち舞台へと早変わり。 幻想的な世界の始まり…だが、街の若者たちは振り向きもしない。 舞台上に登場した,少女が出てくるまでは。 舞台には出演者以上に妖しな鏡が置かれている。酒に酔った男が鏡に入るとなんとそこは童話のような奇妙な世界だった…
 ドクター・パルナサスを中心に旅をする一座。 パルナサスのタロットカードが“吊るされた男”を暗示した時、周りの異変に気付く。 橋の袂に生死のわからない,“吊るされた男”がまさにいたのである。 死の淵にいたかのように思えたが、パルナサスの娘・ヴァレンティナによって救われる。 記憶を失くした男の名は、トニー・シェパードである。 謎に包まれた男だ。悪魔の手下かもしれないその男は、パルナサス一座を救う。 不思議な魅力を持つ,トニーの手で少しずつではあるが、一座に活気が出始める。 
 そんな時に現れた,Mr,ニック。 パルナサスがその出会いを深く後悔した,悪魔である。 悪魔は恐ろしい賭けを持ちかけた。博士に永遠の命を再び吹き込むための代償に娘を差し出せというものだ。 それを防ぐのは新たな賭けに勝つことだった。 先に人を五人獲得することだ。
 欲望が具現化される世界で、人は究極の選択を迫られる。

<感想>
 仲間や大切な人との絆は素晴らしいものを創造する。 製作が途中の段階で、若き名優に奇しくも早すぎる死が訪れる。 ヒースには良き仲間達がいた。 主演が製作途中で、代わり 引き継がれるという,あまりに異例である。 監督には不運が続き,しかし監督も主演俳優も尊敬する実力者たちの手で未完は完成へとたどり着く。 それがすごい。 様々な理由から映画は数多く打ち切られてきたかと思われる。 監督とヒースを慕う人々により引き継がれる。
 鏡の中と外。 二つの世界を行き来するこの物語。鏡の外をヒース、鏡の世界を三人の役者が演じるというのは上手すぎると思う反面、これは“運命”なのだと思う。 もちろん、このまま一人の役者により鏡の世界まで描かれていたにしても、面白い作品が出来上がっていたかと思うけれど、鏡の中に入ると姿が変わるという設定は、物語をより奇想天外かつ不思議な世界感を盛り上げる要素となったと思う。鏡の魔力に誘惑されたトニーは三度に渡り鏡へと入る。現実世界と違う三人のトニーが登場することになるけれど、顔は違えど同一人物という設定のはずなのに、何故かそれぞれ個性が違う。
 三段階に変わるトニー。 だんだんと本性があらわになってくるように見える。 現実的に言えば、それぞれが違う役者が演じているのだから、一人の人物であっても味がそれぞれ異なるのは当然といえば当然。個人的にはランプの精霊が叶えてくれる,“三つの願い”とでも言うようなわくわくした気持ちで見た。次にどんな楽しみが待っているのか、と。 それぞれのショートストーリーの中でその内容に合う役者が選ばれたのだと無知ながら思う。
 一番目は、まだ謎を覆い隠されたままで、ほとんど全ての女性を虜にするであろう、セクシーさに品格のよさ、ミステリアス、そして包容力…などなどの魅力を控えめに表現されている。可愛らしささえある。 仮面をとった瞬間がたまらない。
 二番目は、何かから解放された感がある、明るさが全面的に出ている。まるで道化師のようだけれど いたずらっぽさが魅力。
 三番目は、一番と二番目を足した感じの第一印象。だけど、一番現実的だ。トニー・シェパードという男の本性,全てがこの最後に表れている。 闇を持つ男なのだ。
 三人のトニーは、それぞれ異なる人物の願望によって作られている。 それが面白いところだ。パルナサス博士の一座のショーを見に来た観客のマダム、トニー、パルナサスの娘・ヴァレンチナ。 だから、三人の役者が演じるのは必然のようである。 己の願望により作り出された世界は、望むものを見せてくれる。 だけど、美味しいところには必ず魔物が住んでいる。 心に穢れを持つものには天罰が下される。個人的には一番目のトニーと共に鏡へ入った,マダムが見た世界がとても印象的だ。 巨大なハイヒールが立ち並ぶ,湖のような世界に理想の姿を映す鏡が出てきたり… 観客をこの前半の場面で一気に魅了する。
 最後に人に課せられるのは人間の人生を象徴する“選択”。 人は数々のものを選択して生きている。幻想的な世界で唯一現実的な場面である。 美味しい思いをした後に訪れる,究極の選択。選択しだいでは天国にも地獄にもなる。 良心が試される場所だ。 しかし、地獄の門は楽園に見える。ゆえに意志の弱きものは騙されてしまう。 逆に天国の門は一目でそれとはわかりにくい。誘惑に負けようものなら破滅が訪れる。
 鏡の世界は人が眠るときに見る夢の世界のようで、実体験している世界。 ここで起きていることは自分の身に降りかかることとなる。これがまた不思議である。 皮肉と言うべきだろうか。 トニーの最後は鏡の世界。しかも、本来の顔ではない鏡の世界,ヴァンレチナの願望作られた姿で終わる。過去に過ちを犯した上に それを隠し通そうとした挙げ句、真実が暴かれた瞬間に感情むき出しになりボロが出てしまう。 そして好きな相手へも手を出し、見放されるという,なんとも救いようのない男は、神の使い(実際は違うにしいても)にも本性を見破られ、裏切られるのだ。 悪事や偽りは隠くせば隠すほど、自滅への道は近づいてしまう。
 前述した中にあるようにここには天国と地獄がある。 人生を歩み始めた人間が死に直面した時にきっと天国か地獄かどちらへ導かれるか,裁かれることだろう。 それは選択によって決まるのかもしれない。 最後に一つ選択が課せられるのか、はたまたその人の長い人生において、その人はどんな選択をしてきたのかが,分かれ道に立つ番人によって審査されるのかもわからない。人が辿る末路にあるものを幻想的な世界の中で表現されているのだと思った。
 三度ある,選択の場面はそれぞれ導かれる方法も違う。 最初の場面が他と違うのは唯一、悪魔に選択者が勝つからだ。 それも、第三者の先導によるものである。最初の段階で鏡の世界表れないトニーの本性の,これも唯一の場面がここにある。 口が巧く、甘いマスクを武器にできるという才能。
 悪魔は二つの形態で描かれる。魔物そのものと、見た目は普通の人に見える姿とこの二つだ。この話では後者である。 パルナサスは1000年もの間、生き続けているし、その傍らにはいつも悪魔の影があった。 パルナサスの“運命の時”は二度訪れる。一つは天国だがもう片方は地獄。悪魔との出会いは大きな後悔と苦痛をその後の果てしない,パルナサスの人生に脅かすこととなる。常に付きまとう悪魔,Mr.ニック。 とてもズル賢く,計算高い悪魔により うまくその罠にかかってしまうパルナサス。 無限に続く人生を約束されるも、永遠の命など入り口は良くても幸せは続かない。むしろ地獄だ。 そんな地獄のような運命に立たされるパルナサスのオアシスがヴァレンチナである。悪魔は人の幸せが好物なのか。 その人に与えられた幸せを次々と食い尽くす。ニックはパルナサスを好意的な目で見るけれど、良いことはもたらさない。 悪魔ゆえに。ニックは賭けをすることで暇をもてあそぶ。
 しかし、そんなMr.ニックに魅力を感じてしまうのは何故だろう。悪魔なのに邪悪さよりもユーモアが先立って見えるのだ。最初から最後までその姿は変わらない。けれど、現代にいてもまるで違和感がない。ニックは神出鬼没。 いつどのようにして、現れるのかが謎に包まれており、鏡の世界にも登場するという自由気ままな存在である。 パルナサスの鏡の中に出てくるのが不思議だけれど、物語を見ていると自然に見えてくる。 悪魔なのに何故か憎めない不思議な魅力を持つキャラクターだ。
 あの不思議な鏡はどこからやって来たのか。 Dr.パルナサスというくらいだから、発明品なのかとも考えられるけれど、悪魔から与えられたものなのかとも思う(映画を見直せばわかるだろうか)。 手作り感もある鏡だけれど、それは夢のような世界の入り口… それに、トニーの額に刻まれた刻印… 物語を見終わっても謎が残る。全てを解明するよりも多少の謎を残して,ミステリアス感を出すというのが作り手の狙いなのか。 
 最初はパルナサス一座の若手アントンの幻想的な世界への誘いがなんとも印象的なのは、イギリス訛りが幻想的な雰囲気を演出されているからとも、作り手の持つ世界観とも言えよう。 摩訶不思議な幕開けでありながらも、その最後はなんとも現実的。 さらに最初に出てくる鏡の世界は『不思議の国のアリス』でアリスが落ちる“ウサギの穴”で見えてくる景色に似ているけれど、さらに奥へと進んでいくと『ブラザーズグリム』のような世界…いや、もっと不気味な地獄のような世界が広がる。恐ろしき世界を見ることになるのでは?というちょっとした恐怖感も出るけれど 結末はとても穏やかで温かい。 このギャップが今までにない独特な味わいだ。
 その冒頭の場面でわかるようにここで迫られる“選択”のほとんどは、その人が改心するかどうかの究極の選択と言えるだろう。誘惑に勝つのはとても難しいゆえに 中々超えることのできない壁がそこにはある。 この物語は、悔やむ心(やり直したい気持ち)があれば、険しくても必ず道は切り開けるのだとそう語っているような気がする。
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by jd69sparrow | 2010-01-30 01:19 | 映画タイトル た行

かいじゅうたちのいるところ

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<イントロダクション>
 懐かしいと思った。 幼い頃、よく読んでいた絵本が実写として再び見ることができたことに。しかし、完全なコピーではないのは 絵本が原作だからだそうだ。絵本が持つ特性だ。人それぞれその本に持つイメージが違うのだから当然と言えば当然だろうか。今回メガホンを取ったのは『マルコビッチの穴』で知られるスパイク・ジョーンズ。 つまりは、“スパイク・ジョーンズ”の『かいじゅうたちの~』ということになるわけで、別の人がとればその人のカラーになる。本読者の数だけ、そのバージョンができうるだろう。 しかし、世界観は原作にとても忠実である。
 今はもう家にない、『かいじゅうたちの~』の絵本を今度は映像として見れることがとても嬉しい…と思うのはきっと私だけではないだろう

<あらすじ>
 マックスは母親とお姉ちゃんとの三人家族。想像力が豊かな少年だ。マックスの大好きな母親とお姉ちゃんと遊びたいけれど、中々相手にしてもらえず、一人で遊んでいることが多い。不満が溜まっていき、ついに爆発させてしまう。お母さんに噛み付いてしまったマックスは、母親の心配をよそに家を飛び出し 遠くへと,ひたすら遠くへと走っていった。 
 たどり着いたのは、無人島を思わすようなところ。 しかし、そこには生き物がいた。マックスはその生き物がいる場所へと目指し,その先にいたのは人間ではなく不思議な怪獣たちだった。なにやら問題の渦中にある彼らの中にマックスは飛び込んだ、怪獣たちはマックスが不思議そうに見つめ,理解のできぬものにとまどい,その解決法として問題のものを食べることで解決しようとしたが…
当然食べられたくないマックスはとっさに嘘をつく。 自分は偉大な王様だと。 それをすっかり信じた怪獣たちはマックスを彼らの中の王としてあがめるようにし、かいじゅうとマックスの共同生活が始まった。 
 リーダー格のキャロル、陰気なジュディスに,その夫でおおらかなアイラ、小柄なアレクサンダーと、そしてキャロルの頼もしい相棒ダグラス、ほとんど口を開かないザ・ブルといった森の住人…いや、かいじゅうたちがいた。 そして、キャロルが思いを寄せるKW。 彼らの望みは孤独から解放されること。 また、キャロルは誰もが幸せな国を作ることだった。マックスの成長の冒険が始まる。

<感想>
 どこをとってもツッコミどころがないくらい、絵本の世界そのものだ。かいじゅうたちは誰もが可愛らしく、個性もそれぞれ違う。 彼らの中にはそれぞれの居場所や立ち居地があるけれど、それはそのままマックスと同じ年頃の少年たちを映していると思う。 「かいじゅう」でありながらも可愛らしさが全面に出ていることがこの作品が愛される一つだ。個性が豊か。 いつも陰気で意地悪なジュディスでさえも可愛いどころが優しい目をしている。 彼らは体型などももちろんだが、可愛らしさ・愛らしさを象徴しているのは“目”だと思う。 彼らよりうんと小さいマックスを見る目はみんながみんな優しい。感情の表現もストレートで、いろんな面で子供らしさが出ている。まさにそこにいたのは、かいじゅうに姿を変えた友達とでもいうくらいだ。 
 キャロルはマックスの心を鏡で映したかのよう。大切な人にはいつも側にいて欲しい,寂しがり屋で思いが叶わぬとつい“壊す”ことで気を晴らそうとする。それは、大切な人に振り向いて欲しい,また、遠く離れそうなその人に自分の下へ戻ってきて欲しいという意思表示なのだ。マックスはキャロルがKWに対してとる行動・姿に自分を見るのだ。つまり、自分の解決すべき問題を見ているとうこと、自身を見つめているということになる。幼いマックスにはそういう意識はないけれど、感覚的に見ているものがあると思う。最終的に、キャロルへ,自分に向けられた母親の言葉と同じ事をマックスが自然と言っているのが面白い。 この場面で既にマックスは一歩おとなになったんだなぁということがわかる。
 キャロルだけがマックスの嘘を信じたのは、彼らの間にこうして共通するものがあったからだろう。 マックスは大好きな母親と自分との間に距離を感じ、それに我慢できなくなって家を飛び出し、かいじゅう達のところへたどり着く。キャロルは、マックスが島にたどり着く前までの行動と同じ行動に出る。そこが物語の面白いところであり、この話を絵本で読む子供たちに気付かせたいという作者の狙いかもしれない。
 キャロルはKWの新しい仲間に嫉妬する、マックスはお姉ちゃんの友達,あるいは母親の友達を見てやきもちを焼く。 なんだか思うようにいかないとき、力任せに気持ちをモノにぶつけるけれど彼の心に残るのは後悔に近い後ろめたさなのだ。 自分の世界で自身がぶつかった問題のようにキャロルへ泥団子ゲームを進めるけれどやはり良いようにはならない。 それどころか友達を傷つけてしまう。 結局,“暴力では何も解決には至らないと言う事”を決定付けている。 現実は核で何か起こそうとしているけれど、戦争は悲劇しか生まない。 関係の無い人まで傷つける必要がどこにあるのか。 傷つけあって何かが解決するはずがないし、解決したように見えても、決してそうではないと思う。 この物語には現実に触れたメッセージに説得力とわかりやすさをつけて私達に訴えかけている。 絵本を見る子供たちには将来戦争のない社会にしてはならないという作者の切実な言葉があるのではないだろうか。
 マックスは かいじゅう達のところへ来て、自分を外から見て成長する。 そして、少し大人になったマックスとキャロルの別れの場面にぐっと来る。 そして極め漬けに母と息子の再会の場面では、お母さんのマックスへの深い愛情がにじみでていて、涙が出そうになる。 二人の喜びと安心がまるで自分のもののように見えてくるのだ。
 原作で見られる,かいじゅう踊りと感動。 とても素朴な雰囲気と優しい風がただよう作風が忘れられない。まるでウェンディたちがネバーランドに行ったときのような時の流れがここにもある。 わくわくしたり、しみじみしたり、うるっと来たり…いろんな感情で一つの作品を見る楽しさを是非味わって欲しい。
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by jd69sparrow | 2010-01-15 23:10 | 映画タイトル か行